天下は天下の天下なり

2024年04月13日

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天下は天下の天下なり
(天上天下唯我独尊)




今世紀になって資本主義的市場経済が息も絶え絶えになって
いるのは悲劇なんかではなくて、なるべくしてなりつつある
というだけのお話です。
長嶋茂雄は引退試合で「讀賣巨人軍よ、永遠なれ」と、ノー
天気にものたもうたのですが、今やお荷物球団の一歩手前と
いうのは周知の通りです。トッププレーヤーの独占と集中の
成れの果てがこれです。
生き物には寿命があるのなら、人がつくった世の中など所詮
風の前の塵さながらで、儚きは汝なりなのです。
もしそうでない世の中があるとするならどんなものなのでし
ょう?それはもう確信をもっていえますが、分配がキチンと
行われている世の中です。分配は循環に繋がっていきます。
しかるに、資本主義的な市場経済というものはその逆の独占
と集中を旨として突っ走ってきたのですから、循環なき一方
通行の経済はかくのごとしとなる好例です。
どなたかが”トリクルダウン”なんてしきりに言ってました。
まあ、確かに下層への分配がない訳ではありません。なかっ
たらそれはもう大変な始末になりますし、大体がそれはもう
経済とはいえないのですから。でもそれはあくまで独占のた
めの分配にすぎません。分配のための独占なんてあるはずが
ないのですから。
幻の消費回復トリクルダウン、なんてのは分配のための独占
しかない、この道をゆく、と言ってるようなものでしょう。
”上”が賑わえば”下”に恩恵が行き渡る・・・だから、資本は
現代の神様みたいなもの、、、ナンテ、よくいうわ、全く。
なぜ資本主義が転けそうになっているかといえば、いうまで
もなく作ったものが売れなくなってるからです。
”作ったものは全部売れる”という「セイの法則」が資本主義
存立の絶対要件ですから、売れなくなるともう手をこまねく
しかなくなります。なぜか、、、?
今の日本には、買いたいものがあっても買えない人と、買い
たいものがなくて買わない人の二種類しかないからです。分
配がない一万円札にはそんな裏と表しかないのです。風の前
の塵ならぬ、風の前の一万円札にしかならないのが、いわば
資本主義の性みたいなものなのでしょう。
ではこれから私たちの世の中はどうなるのか?なるようにし
かなりません。つまり餌の量が限られているなら、図体の大
きい方から破滅してゆくのです。大きいことはいいことだ、
が昔話になって、小さいことはいいことだ、になっていくし
かないのでしょう。
天下は一人の天下ではない。天下の天下である。天下の利を
民と共有するものが天下を得て、天下の利を独占するものは
天下を失う、、、のです。

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鳥は卵の殻から脱け出ようと戦う

2024年04月08日

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タオルラック、シンクの画像のようです


鳥は卵の殻から脱け出ようと戦う




「何を」考えるか、ではなく「いかに」考えるか、、
の瀬戸際に今の時代はさしかかっているように
思われます。
「何を」で考えるとどうしても常識的になります。
「いかに」考えるということで、そんな常識から自由に
なることができます。
ユダヤ人女性思想家であるハンナ・アーレントはアイヒ
マンの裁判を傍聴して「悪の凡庸さ」を説きました。
アイヒマンに極悪人の烙印を押して済むわけではなく、
ホロコーストの残忍さは人の凡庸さが生み出したものに他
ならないと断じました。立場が違えばあなたもアイヒマン
になったかもしれないと・・・もしあなたが凡庸な人間
であればです。であれば、同じことが繰りかえされる。
それはひきもなおさず、彼女の意見に反発する多くの人間
(旧知の友人たちも含めて)を凡庸と判ずることにつなが
りかねないので、孤立し、ドイツからの亡命を余儀なくさ
れました。そんな勇気が必要な時代が今まさに到来してい
るのであり、精神の自由とは、政治的な圧力から自由であ
ることもさりながら、同時に己の凡庸さからも自由である
ことでもある、と言われているような気がします。
今の私たちの立場をいえば、カゴの中の鳥のように見えま
す。いや、卵の殻の中の鳥のようなものですか。
鳥は卵の殻から抜け出ようと戦う。
鳥の名をアブラクサスという。(ヘッセ作デミアン)
アブラクサスとは選ばれしものを天国に連れて行く存在。
「何を」でなく「いかに」考えるかが、現代にいる私た
ちにとってのアブラクサスに他ならないような気がします。
人間は凡庸である方がラクですから卵の殻の中に閉じこも
ろうと思いがちです。でも、それで心が満たされるかとい
えば決してそうではないでしょう。
卵の殻から自由になったかといえば、またいつの間にか新し
い卵のからに閉じこもろうとするのはひとの性のようなもの
です。失敗や挫折を繰り返し、何度も卵の殻から抜け出して、
初めて鳥は大空を飛ぶことができるのでしょう。
なぜ人は詩を書き絵を描くのか?それは何かが人たちを駆り
立てるから。その何かとは時代であり、世界であり、そして
自分のありかたなのかもしれません。



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お化けのハナシ

2024年04月07日

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落書きのようです



お化けの話




お化けなんかいないと思いますか?
いえいえとんでもないこの世はお化けだらけです。
とくに現代はまるでお化け屋敷さながらです。
死ななきゃお化けにはなれないと思うのは間違いです。
生きててもちゃんとお化けになれるというのを証明し
ているのがどうも今の世の中のようです。
お化けを呼び出すのは何かというと、どうもおカネの
ようです。金貨の時代にはまだしも、お札というのは
それ自体がお化けのようなものですから。お皿の代わ
りにお札を一枚二枚と数えるのです。
大谷翔平さんのように急に大金持ちになりますと、あ
っちからこっちからお化けがよってたかってきます。
一人では数えきれないので大勢で数えます、一枚二枚
、、、例外はありません。大勢のお化けに囲まれて正気
でいるのは大変でしょうね。
彼も薄給の野球少年だった時代を思い出しているのかも
しれません。あの時代はよかったなあ、、、なんて。自分
の手で一枚一枚大切に数えている間はお化けには縁があ
りません。でも一旦それでは間に合わなくなったら最後
もうそれは叶わぬ夢です。一度取り憑いたお化けたちは
滅多なことでは諦めません。徹底的に吸い尽くします、
人から魂を。魂を失った人間をお化けというのです。
小金を持ったくらいではお化けはよってきませんが、本
人の魂をたぶらかしてお化けにしてしまいます。そうし
てそんな人たちが増えてきますと、この世は実に世知辛
いものになります。なのに世知辛い世の中になればなる
ほど人は不思議なことにこの世に執着するようになります。
歳をとってよかったなと思うのは、お化けとお化けでな
い人の区別がつくようになったことかな、なんて思った
りします。少し人間嫌いになった気もしますが、そこは
言葉のあやで、人間は好きになりましたが、お化けは好
きになれないということなのでしょう。
でも本物のお化けは好きです。うらめしや〜なんて言い
ませんし、知ってる限りではいつもニコニコして勇気を
与えてくれますからね。それにお化けにゃ学校も宿題も
何にもないし。嗚呼、お化けになりたい!!という声が
あちこちから聞こえてくるようです。
そういえば僕は幼い頃親や周りの大人から「アンタはど
こか人間離れしてるね」なんて言われていたようです。
亡くなった妻の母親からは「ネズミ男に似てるね。いい
ところも悪いところも丸見えだからわかりやすい」なんて
言われてました。褒められてるのか貶されているのかさっ
ぱりわからないのですが、たぶん人間離れしているという
ことの喩えなのでしょう。つまりお化けみたいな不思議な
生き物?でもその伝でいえば彼女の家族も(つまり妻も)
僕の両親もそうですし、そうなりますと当然ながら、二人
の息子も、その子の二人の孫もどこか不思議な生き物に
見えてきます。だからあなただってお化けにみたいになれる
かな?なれるでしょう、なろうと思えば、、、、たぶん。別に
お勧めするわけじゃありませんが。


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フォレスト・ガンプ (愚かな差別主義者)

2024年04月04日

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フォレスト・ガンプ
(愚かな差別主義者)





その日暮らしの江戸の庶民の気取らない物語が好きです。
そんな人々の裏長屋が立ち並ぶ深川一帯の人口は二十万
以上で、面積はおよそ十万坪だったとか。
大川を渡った一帯は商業地域で、その先には武家屋敷や
大名屋敷があります。だだっ広い大名のお屋敷のなかで
も一際目立っていたのが加賀百万石の上屋敷でした。上
屋敷というのは殿様の住まいで、他に別邸である中屋敷と
家臣団が住む下屋敷があります。
さてこの加賀殿様の上屋敷の面積はというと、ナントナン
ト四万坪もありました。同じ江戸は江戸でも全くの別世界
です。同じニンゲンなのに相撲取りとアリンコくらいの開
きがあります。
思えば不可思議千万というか異様なお話なのですが、いつ
の間にか不思議とも異様とも思わなくなった私たちがいま
す。いつごろからそうなったのかといえば多分有史時代、つ
まり文字が普及し始めてからなのでしょう。何にでも功罪が
あるものでしょうが、これも思惑外れでした。
その頃からどうやら僕たちは生き物としての健全な感覚を
失ってしまったようです。言葉を換えていえば、、、、
フォレスト・ガンプになってしまったのかもしれません。
フォレスト・ガンプのフォレストはクー・クラックス・クラ
ン(KKK=白人至上主義)の創始者の名前で、ガンプはマ
ヌケとか愚か者という意味です。
それよりも前の長い長い前史時代は神様をお祭りする神殿
だって小さな祠みたいなものでした。それにしてもです、
自然は長続きしますが不自然は長続きしません。不自然な
世の中は持続可能性がないのです。そりゃそうでしょう、今
の世の中だってKKK紛いの人たちが偉そうに世の中を牛耳っ
ているのですから持続可能性などあるはずがないと思います。
ですから当然、KKK紛いの人たちが主導している限りは持続
可能性ある世の中など口先ばかりのスローガンにしかならな
いのでしょう。
映画「愛と哀しみの果て」の主人公カレン(アイザック・デ
イーネセン)が、ケニヤで学校を作ろうとした時、キクユ族
の酋長が訊ねます。
「字を覚えてイギリス人は何かいいことがあったのか?」
その思いがけない質問に、カレン(デイーネセン)はハタと
言葉に詰まりました。そして彼女は後年母国に帰り、作家
となるのですが、その貴重な素養はきっとキクユ族との交流
で養われたのではないかと僕はふと思ったりします。イギリス
人がフォレスト・ガンプになったからこそ、アフリカ大陸が
植民地になり、植民地になったからこそアイザック、ディーネ
センがケニヤにやってきたのですから因縁はめぐるというこ
となのでしょうね。
さて、言葉(文字)はよくも悪しくも私たちの目となり耳とな
っているのですが、逆に私たちの目や耳が言葉(文字)にな
ってしまったということもいえるでしょう。言葉という衣裳を
まとっていないと何も見えない聞こえない。
それでこんなことも思ったりします。もし私たちから視覚や
聴覚がなくなったら、もっと多くのものが見え、聞こえるよ
うになるのかもしれない。
言葉があれば物事を「計る」ことができます。計ればものと
ものとの距離がわかります。距離がわかれば確かにもののあ
りようがわかる(ような)気がします。
しかし世の中の理というものは計れるところばかりに表れる
わけではないでしょう。ということで私たちは言葉によって
計れぬところをようく見、聞くことを忘れてしまったのではな
いか、なんて思ったりします。
言葉と言っても所詮はニンゲン同士だけにしか通じない代物
でしかありません。「計る」ということもまさにそれなので
しょう。AIもこの計る頭脳の優等生にすぎません。言葉によ
って私たちはニンゲン同士のみならず森羅万象を計っている
きらいがあります。
もしニンゲンにニンゲンにしかわからない言葉がなかったら、
もっとたくさんの言葉が理解できるのかもしれない。月の光
や雨や、動物や虫や、そんないろんなものの豊かな言葉が沁
み渡ってくるのかもしれない。太古の人たちは森羅万象と心
のどこかで通じ合っていたのかもしれません。
人はよくこんなことできるはずがないと思ってしまいます。
頭だけで考え、カタチにとらわれるとそうなります。そうし
て、”こんなことできるはずがない”だらけで人生が始まり終
わってしまいます。
人の心とは何なのでしょう?あなたとは、私とは、一体何
なのでしょう?そこにはカタチなんてあるはずがないのに、
カタチに囚われて身動きできなくなってしまうのはなぜなの
でしょう?
あなたも私も気づかないうちにフォレスト・ガンプになって
いるのかもしれません。むろん大なり小なりですが、、、。



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ジャンク化する世界

2024年03月26日

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ジャンク化する世界




ジャンクとはガラクタのこと。
僕も今年九月で後期高齢者とやらになるわけで、めでた
く?公私共に認めるジャンク世代の仲間入りです。
頭も身体も確かにガラクタになっていることは日々実感
していますが、だからといって心までガラクタになった
らおしまいだなと自戒しています。
なんにでも寿命というものがありまして、それをプラスに
捉えるかマイナスに捉えるかは大切なことでして、そこで
私たちは自分の心のあり方が試されるのかなと思います。
人間一人一人にジャンク化があるように、世の中のいろん
な物事にも同じことが言えます。政治も経済も国家も教育
も学問も、学歴社会も見返りがなくなれば収束します。
今の世の中をジャンク化している大元は石油とお金です。
石油という地下資源はいうまでもなく有限ですが、お金の
方も実は有限です。投資利得がなくなり、したがって金利
がなくなればただの紙切れになります。現に基軸通貨ドル
はもう虫の息で、あと十年の寿命というのが常識になって
います。
ドルがなくなりアメリカが崩壊し石油がなくなれば、世界
はどうなるか、なんて考えたくもないでしょうが、その考え
たくもないことを考えないといけないときがすぐそばに近
づいています。
「廃王でなくして誰が王でないことを不幸に思うであろう」
というのは確かパンセの警句ですが、お金が紙切れになっ
て不幸に思うのはお金持ちだけで、そうでない人たちにと
っては大したことじゃない。大したことじゃないどころか
目の上のタンコブがなくなってさぞ清々するでしょう。
ただ衣食住のことだけはチャンと頭に入れといた方がいい。
余計にいらない。生きていけるだけでいい。そもそも余計
というのがジャンク=ガラクタのことだからです。
雨露をしのげて、ほどほどに食べて、凍えなければそれで
いい。あとはサラリーの代わりにストレスを抱える必要も
ないし、子どもだってほっとけば勝手に大人になる。みん
なが幸せで泰平だった時代とはいつもそんな暮らしに人々
が満足していた時代だったのだと思います。


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マザーツリー (親はなくとも・・・)

2024年03月20日

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木、テキストのイラストのようです

マザーツリー
(親はなくとも・・・)





カナダの女性の森林生態学者いわく。
「木と木がつながりあい、お互いを認識し、栄養を送り合
っている」
特に古い木をマザーツリーと呼んでいる。なぜかというと
マザーツリーは他の木に多くの炭素を送っているから。
人間だって同じですね。自分自身の生涯を振り返ってみる
と、母親から幼児期はお乳をもらい、大きくなっても母親か
ら貰ったものは少なくない。それに対して僕の方からあげた
ものとなると、、、母の日のカーネーションくらいか、、
も贈った覚えがないし。
また曰くには、、、、
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
こんな含蓄ある言葉(特に前段)は女性のそして母親でもあ
る人の唇からしか出てこないんだろうな。
「死が生きることを、、、」なんて、命がけで命を生み出し
た人からしかでてこない。
いや森の中では多分そんなこと当たり前なんだろう。
さて、末期がんの病棟のお医者さんがいうには、
死を間際にして周囲の人たちに生きる勇気を与える患者と
逆に死の世界に引き摺り込むような気分にさせる患者とが
いるらしい。前者のような患者は稀で、後者の患者がほと
んどのなので、それを毎週のように看取らなければならな
い、たいていの医者は精神に変調をきたすらしい。そりゃ
そうだろう。
もし年々そんな患者が増えてきているのだとしたらやりきれ
ない話であるだろう。つまりは、、、、
「死が生きることを不可能にし、年老いたものが若いものか
ら力を奪っている」
ということにもなる。
年老いた患者を年老いた親と言い換えてもいい。年老いた親
とはそもそもどんな親だったのか。おそらく世間的にはほ
ぼ文句のつけようのない人たちだったのかもしれない。なぜ
って現にそんな親がほとんどみたいだから、今は、、、。
それなのになぜ、、、?親と子の間に気持ちの根本的な齟齬
があるのかもしれない。
親だから誰しも当然親として当然のことをしてやりたいと思
う。ただ、その親として当然なるものが、子どもの側からし
たらどうだったのか?そういう疑念をさし挟む余地がないほ
どそれは親にとっては余りにも当然すぎることだったのだろ
う。でもそれは子どもにとってはどうなのか、あるいは余計
なお世話だったのかもしれない。
我が子にはできるだけ幸せな(あるいは無難な)人生を送っ
てもらいたい(親心?。そうは考えるが、まかり間違っても、
どんな災難や不幸に遭遇しても決してめげない大人になって
ほしい、という方向には考えようとはしない。
しかし命がけで命を生み出した人なら、ライオンなら、いや
マザーツリーなら、きっとそう考えるだろうと僕は思う。
人は平穏な世の中に生きすぎるとそれが全てと考えがちにな
る。過ぎたるはなお及ばざるが如しというが、至れり尽くせ
り(勉強嫌いなのに進学させるとかオモロくない職に就かせ
るとか、その他)は禁物だろう。親にとっても子にとっても
である。こんな子に育てた覚えがないのにと悔やんでも後の
祭りという話はそこらにゴロゴロ転がっている。
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
、、、というのは、いやしくも生きとし生けるものである限り
全てに言える。であるからして、やむなく親らしいことを何一
つしてやれなかったとしても落ち込むことはない。”やむなく”
という但し書き付きではあるだろうが。親はなくとも子は育
つというが、どうも今どきは親がない方が子が育つもかもし
れないなんて失礼なことを思ったりしてしまう。
子どもは強いよ、親が思ってるより百倍もね。オワリ。


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AIの正体とは?

2024年03月17日

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AIの正体とは?




「2045年問題」ってのが盛んに取り沙汰されています。
つまりどういうことかといいますと、AI(人工知能)が
人間にとって変わるのじゃないかってことのようです。
そんなの心配性の方達の取り越し苦労のような気がしま
す。だって、欧米風の近代の文明自体がすでにAI的であっ
て、今私たちの身も心もかなりそんな風潮にどっぷり浸
かっていると思うからです。
そしてそういう傾向に大分赤信号が点滅し始めて、反省や
ら見直しの機運が出始めているような気がします。二十
一世紀は人類史の大転換の時代と言われていますが、ど
うもAIという極端に近代的なものをもってそんな近代の危
機を乗り越えようとする思い違いがあるようにしか見え
ないのです。
「客観性」というと公平という語感が伴うためについ懐が
ゆるくなってしいますが、その客観性が不公平な世の中を
作り出しているのがどうも事実のように思われます。
「客観性」という述語に僕はちょっといかがわしい匂いを
感じ続けていました。いうまでもなく現在は過去の歴史の
積み重ねでできていますが、その過去の歴史というやつが
どうも客観性の塊でしかないような気がしてならないので
す。
客観性は具体的には情報データのすり合わせで導き出され
ます。そして情報万能という思い込みから私たちの世界の
技術、経済、政治などの領域が成り立っているようです。
ただそこには大きな落とし穴が大きな口を開けて待ってい
ました。それは何かというと、生命への真摯なアプローチ
です。意に反してなのか、それとも思惑通りなのかは分か
りませんけど、、、。
Aという人からみえるあなたと、Bという人からみえるあな
たは違います。違って当然なのです。どちらかが正しくて
どちらかが誤っているということは多分ないのでしょう。
そうやって正邪を積み重ねていくと正しいことは段々と針
の先ほどになっていきかねません。
そんな関係性の中に自分を投げ込んで、自分とは何か、自
分という存在とは何か、つまり生命とは何かを、いわば相対
的に問い直すのが「空」の意味だと大乗仏教ではいってい
るような気がします。
人間の物事の理解の仕方には二つっきりしかありません。
AとBは違う、でなければAとBは同じ、の二つです。
客観性は後者からは導き出されても、前者からは絶対に導
き出しえません。それがすなわち生命なるへのアプローチ
の第一歩なのではないかと思われるのです。
客観性によって生命の営みにアプローチするのではなく、
逆に生命の営みから遠ざかっていっているような気がして
なりません。現に技術も、経済も、政治もそのようになっ
てきています。
万事を(森羅万象をも)共通点で括って(分類して)”分か
った”という気分になるのが科学だとも言えます。分かった
というのは分けるというのと同義なのです。僕たちが学校で
習った物事の理解の仕方もそのようになっています。ですか
ら優等生ほど冷たく人を見る目がないということにもなる
のでしょう。
そんな優等生たちが寄ってたかってこね上げたのがAIである
ような気がするのです。



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パラドックスの階段

2024年03月09日


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写真の説明はありません。


パラドックスの階段
Whatever Will Be Will Be





存在とはそこに”ある”もののことではない。そこに”なる”
もののことであり、ならしめているのはただひとえに意
識のわざである。
物質の最小単位である素粒子は普段は姿も形もないが、
電荷同士が引き合ってたまに一瞬膨大なスペースを奇跡的
に発現することがある。つまり私たちの存在とはそんな奇
跡によってできている。
ありとあらゆるモノ、ヒト、地球、宇宙、現象、人生など
などは意識が引き金となって現れる、達磨大師は死んだら
ひたすら何もないと言ったが、生まれる前には何もなかっ
たのだから死んだら何もないのは当たり前の話ではある。
であるとすれば、、、有が無になるように無が有になるこ
とだってあるのかもしれないなどと意識はしょうもないこ
とを考えたりする。
確かにしょうもないことなのではあるが、艱難辛苦の渦中
で逃げ場を失って意識が朦朧となったとき、今まで思いも
しなかった有が突如として発現することがある。
貧が貧でなくなり、苦が苦で、悲が悲でなくなる。そうや
って私なるものは”ある”が”なる”へ、そして新たな”ある”
へと突然変異する体験をすることがある。そういうパラド
ックスに満ち溢れているのも人生、というふうに僕はしょ
うもない考えを持っている。
私なるもの生長とはパラドックスからパラドックスへの階
段をよじ登ることのような気もする。私を世の中に言い換
えても多分いいだろう。ニュートン力学だけでは抑えるこ
とのできない力学があなたのすぐそばにあるかもしれいな
いということは頭の隅っこに入れておいても損はない。
所詮はしょうもないことかもしれないが・・・。
どんなに力を尽くしても一歩も前に進めない時には、パラ
ドックスの階段に足をかけてみるのも一理ではある。
♫ケセラセラ,Whatever Will Be Will Be.♫




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AIは無知である

2024年03月07日

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ハートの画像のようです


AIは無知である



AIは無知である。
文字通り知がないという意味での無知である。
もし知があるというならば、知とは何であるかについ
て知っていなければならない。知のための知などある
はずがない。そういう意味合いからいえばクイズ番組
の模範解答者も無知なのかもしれないのだ。
では、知とは何かといえば、それは生の実践に関わる
真摯な問いでなければならないだろう。したがってみ
んなの意見だから正しいというのは厳密な意味では知
とはいえない。AIはそんな最大公約数の知見の代弁者
にすぎない。
知とはみんなの意見ではなく、私の、またはあなたの
意見でなければならない。一人一人のかけがえのない
試行錯誤の人生から紡ぎ出された紋様みたいなもので
ある。頭でなく心に刻まれた皺である。人の心という
ものの深奥に、未知の世界にアプローチしていく試み
である。万巻の書を紐解いてどうにかなるものでもない。
消しゴムでたやすく消せるような文字の羅列を知と呼
ぶのは人間の否定にもつながりかねないだろう。今の
時代が切望しているのはAIの知ではなく人間の知であ
る。あるいは利としての知ではなく理としての知であ
る。文明の利器の最後の打ち上げ花火のようなものが
AIの知であり、それ以外の何ものでもない。
真円はどんなに精巧な機械でも描けない。職人の熟練
した技でなければ描けない。完全な球体を内蔵するも
のは半永久的に機能し次に繋がっていくが、機械が作
った不完全な球体を内蔵するものはその場限りでしか
ない。
そしてAIはついに芥川賞を選んでしまった(東京都同情
塔)。あれは(幸いに)AIが書かせたという小説でなく、
AI時代が選んだ小説なのだろう。
AIは決して”私は何も知らない”とは言わない。言った時
が運の尽きだからだ。しかし、何もかもを知ったかぶり
の小説など誰が読むものか。入学試験の問題じゃあるま
いし。
芸術がこの先バベルの塔になってしまわなければいいの
だが・・・・。



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人間としての自由

2024年03月02日


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人間としての自由




アートはレベルが上がれば上がるほどシンプルになっ
ていきます。
限りなく単純化される。ゼロに近づくといってもいい。
象徴化されるといってもいい、でしょう。
でなければ、無限なる存在は表現できないからです。
言葉を並べれば並べるほどそこから離れていきます。
そしてヒトは、否、生きとし生けるものは意識しないう
ちに無限なるものを求めているのだと思います。だか
ら寿命なるものに故なく怯えるのでしょう。
俳句とか能はその一つの到達点なのでしょう。あのフラ
ンシス・ジャムですら俳句に出会った時無力感にとらわ
れたほどですから。幾星霜も読み継がれる物語も問わず
語りに永遠なるものを感じさせるからなのでしょう。
それに比べると一般的に諸学というものは元来が単純な
ものでも半ば恣意的に複雑化し、あげく複雑な網の目に
絡めとられて訳がわからなくなります。お喋りな人がそ
のうちに自分でも何をいっているのか分からなくなるよ
うなものでしょう。政治と経済がその典型です。そして
存在からどうしようもなく遊離していきます。
巧緻化されればされるほどコンセプトから遠ざかってい
きます。・・・闇に鴉、雪に鷺。
一つの思案もこの網の目に翻弄されて、あってもなくても
ないようなものへと化けてしまいます。そのうちに一人
一人の人間もあってもなくてもいいようなものへとなって
いくのかもしれません。
今、私たちが直面している真の危機は世の中が網羅的にな
っていくことだと思います。生成AIなどはそれを加速させ
ていくのでしょう。そうなりますと人間はいよいよ人間ら
しさ失っていくことになるでしょう。なぜなら人間の本質
とは部分的で有限的であるからです。
国家なるものができてから戦争が激増し格差が拡大したの
は、国家の運営は、例えば法律がそうであるように網羅的
でなければ成り立たず、その結果として、部分的で有限的
な人間の本質から乖離したからなのだと思われます。部分
的で有限的であるからこそ、そこに個性というものが生ま
れてくるのでしょう。個性という通路によって人と人は柔
軟な形で分かり合えますが、網羅的になると特定の立場や
見解に固執し通路は閉ざされていき、カタチばかりで中身
のない世の中になっていきます。つまり現代とは・・・
左脳偏重=言語=観念=本能的感性との乖離
あるいは・・・・
合理主義=合理の過剰=法律組織の緻密化拡大化=手続至
上主義=手続きによる人間支配。
つまり、人間の自己疎外です。
お互いの個性を受け入れなければ個性というものは成り立ち
ません。個性とは相対的であろうとする根源的欲求に他な
らないのです。
そうやって網羅的な社会は何も生み出せないのに、何もかも
を生み出そうとしているかのように見えます。
最後に・・・・・・・・・・
「松(私)が竹(あなた)にならぬというのは、人間の判断
で、松(私)からいえば、いらぬお世話である。松(私)は
あなたやその他人間の規則や原理で生きているのではない。
こういうのを自由というのである」
               <鈴木大拙>



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虫の歌

2024年02月27日



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虫の歌




「虫ケラめ・・・」
なんていう”口汚い”言葉を人々はいつから覚えたのでしょう。
相手の自尊心を傷つけるのにこんなに効果的な言葉はあり
ません。
僕もむかしそんなふうなセリフを吐き捨てられた覚えがあ
ります。ニンゲン一匹落ちぶれたらなんでもあり、なのです。
その時は物騒な話こいつぶん殴ってやろうか、いや、殺して
も飽きたりないとも正直思いました。そんなことを言われた
ら多分誰だって大なり小なりそう思うでしょう。そんな破滅
的な一言なのです
でも後で冷静になって不思議に思ったのは、どうして「虫ケ
ラのようなやつ」と言われてどうしてそんなに腹が立ったの
かということでした。なぜって、腹が立ったのは僕自身が虫
ケラという生き物を馬鹿にしていたからに違いないからです。
叩き潰しても、踏み潰しても、なんの痛痒も感じない存在。
今にして思えば、俺が虫ケラならお前は何さまだと言い返
してやればよかったなと思います。お前たち人間様がいな
くても俺たち虫ケラは痛くも痒くもないが、俺たち虫ケラ
がいなくなったらお前たちは生きていけないんだぞ、わか
ってんのか、なんて、、、。
口に出して言わなくても、たいていの人は落ちぶれ果てた
人間に対してそういうふうに思っているのかもしれません。
特に落ちぶれ果てていなくても社会的ステータスがずっと
上位の人からは、あなただだってそういうふうに思われてい
るのかもしれないのです。
さてそこでです、”虫ケラ”というのはどういう意味なので
しょう?最近めっきり目につかなくなった、あの小さな生
き物たちのことです。
ハエ、蚊、ゴキブリ、シラミ、ノミ、ウジ、ミミズ、アリ、
ハチ、カナブン、オケラ、昆虫類ですね。昆虫類は世界中
に百万種います。それに対してホモ=サピエンス(現生人類)
は四とか五大人種にすぎません。
この莫大な種類の昆虫種は地球上の生態系ピラミッドの底
辺を支え、他の生物の餌となり植物の受粉を助けたりして
います。私たちが日々の生活で利用する食料や資材は、実
はこれらの様々な種の昆虫の活動の結果として生産されて
います。
もしも、この”虫ケラ共”がいなくなったら、私たちは一日
たりとも生きていることはできません。それこそどんなに
感謝しても感謝しきれない存在なのです。恩を仇で返すこと
はこのことです。これを罰当たり(バチアタリ)といいます
が、昔の人は罰当たりは死んだら地獄に行くといいました。
ほんの半世紀前までは日常生活の欠かせない点景としていろ
んな虫たちがいました。でも今は見事に姿を消してしまいま
した。名前も知りませんから何か気味の悪い生き物というこ
とになっています。
ゴキブリとかハチとかクモとか出現したら大騒ぎです。お店
のショーウインドーにはいろんな種類の殺虫剤が今か今かと
出番を待ちかまえています。人間さまの都合だけで益虫とか
害虫という分け方もあります。
人間というのは呆れ果てるくらいいとも簡単に思い上がりま
す。そして全てを上から見下ろします。上から見ればいろん
なものがよく見えるはずなのですが、思い上がった人間の双
眸には人の頭のてっぺん以外は何も映らなくなります。
逆に下から見れば、いろんなものがよく見えます。特に人の
心のありようは手に取るように分かるようになります。
だとすれば、地上に蠢く無数の虫たちから見れば、私たち人
間様のありようはどのように映っている事でしょう。そんな
こと想像もしないのでしょうが、想像もしないというのはそ
のまま私たちニンゲンの高慢さを象徴しているのだと思いま
す。
西洋人にとっては虫とはすなわち害虫でしかなく、鳴き声は
ただの騒音であり、あんなに賑やかなのに聞こえない人もい
ます。鳴き声として聞こえるのは地球上では日本人とポリネ
シア人だけとか言われています。そして皮肉なことには、、
虫たちが私たちの世界にもたらした「利」から強欲な征服
者が生まれ、その尊い「利」を限りなく食い潰していると
いう事実です。「理」がいつのまにか「利」にすり替わり
科学という名でバチあたりを繰り返しているのです。
それでも、虫コレクターたる我が家の八歳の孫娘であるミ
ーちゃんはジイジも知らない虫の名前もたくさん知ってい
ますし、いるはずのない虫さんたちをどこからか探し出し
てきます。特にお気に入りはヤモリさんで、今ではすっかり
我が家の天井板を終のすみかにしているようです。
子どもには先入観というものがないので時々ハッとさせら
れます。それに比べると大人たちは先入観の虜のようなもの
です。いてもいなくてもいいようなつまらない人たちの銅像
を建てたりする一方では、「虫ケラ共め」というセリフを
吐き散らしています。
そんな大人たちにもミーちゃんたちの年頃にはTVやCDから
流れてくる歌はなくとも、自然の森から虫たちが奏でる調べ
がありました。春先になると先ぶれのように”ジージー”と
いう(クビ)キリギリスの鳴き声があり、夏空が広がって
きますとカエルや蝉の声が、秋風が吹く頃には無数の虫た
ちのオーケストラが響き渡りました。あの頃私たちは歌によ
って虫たちの世界と分かち難く繋がっていたように思われ
ます。そう叱られて一人ベソをかいていると、いつのまにか
すだく虫の調べを子守唄に夢の世界に入っていたのを昨日の
ことのように思い出します。あなたはいかがですか?
私たちは不幸せでもなければ、かといって幸せでもない日々
の中でいつも心の中に何かしらの不安を抱え込んでいます。
あれは一体何なのでしょうか?
ひょっとするとあなたのまわりからあの懐かしい虫の音が
遠のいていく心細さのようなものかもしれません。




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敗残の方程式

2024年02月21日


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写真の説明はありません。


敗残の方程式




この国をどうしようというものはいなくても、出世した
いと思うものは山ほどいます。僕ぐらいの年齢になると
さすがにそんな生臭さはなくなりますが、若い時はそう
はいきません。ですから、とやかくいっても仕方ないこ
とです。だってそういうものなのですから。さて、、、
民衆とは何かといえば、敗北者の群れです。栄達の夢か
ら見放された貧しい人たちです。そして、そんな民衆を
つくり出した張本人の一握りの人たちを私たちは勝利者
と呼びます。そして勝利者と敗北者からなる世の中をつ
くりだした犯人は何かというと「利」です。
農耕が始まると、土地が「利」になり、所有という観念
が生まれました。そうやって支配者が領地にしがみつい
ていればそれでやっていける時代がありました。それを
封建時代といいます。
しかし、商業が興るとそれだけではやっていけなくな
ってきます。それが近代です。
そして今、商業にしがみついているだけではやっていけ
ない時代になりつつあります。二十一世紀とは「利」を
食い潰した時代のことなのでしょう。
「利」がどこにも見当たらなくなりますと勝利者も敗北
者もいなくなります。NYの貿易センタービルは「利」を
めぐる世の中の構造が崩壊していく姿に見えて仕方があ
りませんでした。
私たちが革命と呼んでいるものは革命でもなんでもありま
せん。「利」を漁る主役が変わっただけの話でした。ブル
ジョワ革命はその名の通りブルジョワの「利」が荘園から
工場に変わっただけでした。
我が国でいえば、建武の中興は列島の農地の所有者が武士
から武士へ移っただけであり、維新も同じことです。尊攘
の志士といいますが、あれは幕府が開国したから尊攘を叫
んだけのことで、もし幕府が尊攘をいいだしたら開国を唱
えたことでしょう。
大塩平八郎の乱などは革命といえますが、所詮は束の間の
夢で終わりました。だからとやかくいっても仕方がないこ
となのです、この世に「利」が存在する限りはです。力が
全てなのです。
しかし、この世から「利」がなくなると話は別になります。
「利」とはモノのことですから、「利」がなくなると人々
はココロに帰るはずです。命と言い換えてもいいでしょう。
だって他に帰るところはないのですから。道楽息子がく
だらない放浪の末にボロボロになって我が家に帰ってく
るようなものです。
僕の父親は僕が小学一年の時に倒産し、それからという
もの人生の苦渋を嫌というほど舐めさせられました。そ
れを見ていた幼い僕は父親のようにはなりたくないと思
い始めました。その気持ちが一変したのは中学生になっ
てからでした。
大人にも「理」はあります。ただし「利」につながる
「理」で、それ以上でも以下でもありません。その先を
求めようとしても見事に何もありません。学問があろう
がなかろうが、いや学問自体が「理」よりも「利」なので
す。そんなことがなんとなく分かり出したのが中学生の
頃でした。教えてくれたのは他ならぬ落ちぶれ果てた父親
の姿でした。
父は他の大人のような判で押したような「理」は僕に一切
言いませんでした。警察に補導されるようなことがあって
もです。今にして思えば、父はきっと滅びの先に何かを見
たのだと思います。事業がうまく運んでいた頃には決して
見えなかったものが、です。
それが心に染み込んでいくようにわかったのは、なりたく
なかった父の姿を再現したかのような僕自身の不遇の人生
の末にでした。
これからの人類は敗残の悲哀を嫌というほど噛み締めるの
かもしれません。特に世の中の成功者と自負している人た
ちはそうでしょう。でも社会の谷間で蠢いている人たちは
どうなのでしょう?自分たちを見下していた人たちを受け
入れるのでしょうか?受け入れることを願ってやみません。
だって彼らの子や孫にはなんらの咎めもないのですから。




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未知との遭遇

2024年02月17日

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2人、、「未知と 遭遇」というテキストの画像のようです

未知との遭遇




限界費用(コスト)が小になれば、資本も小になる。
そして、資本が小になり、いらなくなれば、当然な
がら資本主義の前提そのものがなくなり、システムは
崩壊し、他の新しいシステムに置き換わる。
資本主義は経済効率の向上を目指した限りのない競争
によって成り立っているが、その経済効率の向上が同
時に資本主義自らの首を絞めることになる。
富めるものと貧しいものがいるから不満が生まれる。
その差が大きくなるにつれ不満もまた大きくなる。
名門に生まれれば無能でも栄達できる。そうなると名門
でない人間たちの不満が募る。
そういう不満が積もりに積もるといかがなことになるか
なんて考えなくても分かる。なるようにしかならない。
世の中なんていつもそんな考えなくとも分かるようなこと
でちゃぶ台返しになる。
富めるものは富めるが故に、名門に生まれたものは名門
に生まれたがゆえに、肥満した資本は消費者と労働者を
苦しめるがゆえに自らの首を絞めることになる。、、、
、、、自業自得。
力関係でいえば前者が圧倒的有利のように見えるが、そ
れはただの錯覚でしかない。富者や名門や資本家はいて
もいなくてもいいが、貧者がいなければ富者はなく、名
門でないものがいなければ名門はなく、消費者や勤労者
がいなければ資本家ないからだ。単純明快な理屈だ。
そういう錯覚の上に乗っかった茶番劇の幕は誰が下ろすの
かといえば、当然ながら茶番の主役たちが下ろすことにな
る。幕を開けたものが幕を下ろす、、、独り相撲。
ただ秋(とき)というのはある。その秋を得るまでは待つ
というのが賢明であるだろう。然るべき人たちが然る
べき秋を得たとき時代は変わる、、、のではなく変わらざ
るを得ない。
そしてまた懲りもせず新しい茶番劇が始まるのかといえ
ば、どうも今度ばかりはそうはいかないような気がする。
権力を守るために民衆がいるわけではない。民衆を守るた
めに権力があるわけなのだが、では何から守るのか?
敵から、、、?ではその敵とは何であるのか?それこそが
我々が直面している問題に他ならない。人間の世界から敵
がいなくなればそれで済む話じゃない。人間の世界そのも
のが人間以外の全ての生命の敵となっているからだ。
その敵とは、己自身である。権力己自身が敵であるだけで
はない、民衆自身も己が敵であるというのが二十一世紀と
いう時代の構図なのである。内なる敵との接近遭遇という
のが未知なる時代の課題なのだろう。
己を知れ、という言葉が空の彼方から降ってくる。
”子曰く、過ちて、是改めざるを過ちという”
失敗から何も学ばないのは権力だけでいい。己を知れとい
う言葉は今私たち庶民の頭上に降ってきている。

限界費用(コスト)が小になれば、資本も小になる。
そして、資本が小になり、いらなくなれば、当然な
がら資本主義の前提そのものがなくなり、システムは
崩壊し、他の新しいシステムに置き換わる。
資本主義は経済効率の向上を目指した限りのない競争
によって成り立っているが、その経済効率の向上が同
時に資本主義自らの首を絞めることになる。
富めるものと貧しいものがいるから不満が生まれる。
その差が大きくなるにつれ不満もまた大きくなる。
名門に生まれれば無能でも栄達できる。そうなると名門
でない人間たちの不満が募る。
そういう不満が積もりに積もるといかがなことになるか
なんて考えなくても分かる。なるようにしかならない。
世の中なんていつもそんな考えなくとも分かるようなこと
でちゃぶ台返しになる。
富めるものは富めるが故に、名門に生まれたものは名門
に生まれたがゆえに、肥満した資本は消費者と労働者を
苦しめるがゆえに自らの首を絞めることになる。、、、
、、、自業自得。
力関係でいえば前者が圧倒的有利のように見えるが、そ
れはただの錯覚でしかない。富者や名門や資本家はいて
もいなくてもいいが、貧者がいなければ富者はなく、名
門でないものがいなければ名門はなく、消費者や勤労者
がいなければ資本家ないからだ。単純明快な理屈だ。
そういう錯覚の上に乗っかった茶番劇の幕は誰が下ろすの
かといえば、当然ながら茶番の主役たちが下ろすことにな
る。幕を開けたものが幕を下ろす、、、独り相撲。
ただ秋(とき)というのはある。その秋を得るまでは待つ
というのが賢明であるだろう。然るべき人たちが然る
べき秋を得たとき時代は変わる、、、のではなく変わらざ
るを得ない。
そしてまた懲りもせず新しい茶番劇が始まるのかといえ
ば、どうも今度ばかりはそうはいかないような気がする。
権力を守るために民衆がいるわけではない。民衆を守るた
めに権力があるわけなのだが、では何から守るのか?
敵から、、、?ではその敵とは何であるのか?それこそが
我々が直面している問題に他ならない。人間の世界から敵
がいなくなればそれで済む話じゃない。人間の世界そのも
のが人間以外の全ての生命の敵となっているからだ。
その敵とは、己自身である。権力己自身が敵であるだけで
はない、民衆自身も己が敵であるというのが二十一世紀と
いう時代の構図なのである。内なる敵との接近遭遇という
のが未知なる時代の課題なのだろう。
己を知れ、という言葉が空の彼方から降ってくる。
”子曰く、過ちて、是改めざるを過ちという”
失敗から何も学ばないのは権力だけでいい。己を知れとい
う言葉は今私たち庶民の頭上に降ってきている。



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禍いの科学

2024年02月13日


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お茶、テキストの画像のようです


禍いの科学




帝のいない国はなかった。帝は常に神と繋がっていた。
国は神話の上に成り立っていた。長い間人々は神を畏
れ敬っていた。しかし、そんなステレオタイプはダーウ
ィンの進化論あたりから崩れ始めた。それを人々は科学
と名付けた。
科学的な合理主義によって人々は神話から、あるいは呪
術の世界から解放された。人類は神によって創造された
のではなく、ゴリラから1%だけ進化してヒトになった。
そうやってヒトは自由を獲得した、、、はずだった。
そうやって初めてヒトはヒトとなった、、、はずだった、
のだが、現実はどうなったかというと、それは新たな神
話の、新たな呪術の始まりでしかなかった。
進化の頂点に君臨し始めるやいなや今度はヒトという
”種”が神になってしまったのだ。地球という生態系の(絶
対的な)支配者、百万に及ぶ生物種の支配者となり、やり
たい放題の暴君となってしまった。
つまり科学はわずか1%の生物的進化をもって人類を神の
玉座に祭りあげてしまった。いや正確には科学が、ではな
く科学者が、であるのだろう。科学とは何であるのかが多
分ヒトにはわかっていない。それはおそらく自然であり、
宇宙であり、あるいは宇宙の果てでであり、生であると同
時に死でもあるのかもしれないし、そうでないかもしれな
い。
忘れてならないのは、科学イコール科学者では断じてない、
ということ。科学は深淵そのものであるのだろうが、科学
者はたかが1%の進化そのものであり、職業という生業であ
り、生臭い人間世界における特定の社会的地位でしかない
ということである。したがって科学者が必ずしも科学的で
あるとは言えないし、ひょっとすると非科学的な科学者だ
っているのかもしれない。
念の為に付言しておくと、以上はあくまで西洋の物語であり
そのほかの文明圏の物語ではない。中国はほんの百年前ま
で帝たちの国であったし、中近東やアフリカ大陸の多く
(ほとんどが遊牧や狩猟の民族、農耕民ではない)にはそも
そも国というもの自体が存在していなかった。植民地時代が
終わったとき、有力な民族の首長たちが西洋人のアドバイス
によってパズルのように分割したものだった。
したがって、西洋以外の国々では科学を核にした物語ではな
い物語があるのだろう。ひょっとするとそこには近代の神話
や呪術に毒されていない人々がいるのかもしれない。
だとすれば、西洋が没落した後の二十一世紀には、私たちの
思いもよらない未来が待ち受けているのかもしれない。



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国と国民の家庭内離婚

2024年02月11日


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勉強、薬、テキストのイラストのようです


国と国民の家庭内離婚





口喧嘩してる間はまだまだで、お互いに口もきかなく
なった時、顔も見たくないと思い出したときが夫婦の
危機。
国と国民の関係もそう。国民が国のやることにいちい
ち愚痴をこぼさなくなり、勝手にやってろ、俺たちは
俺たちでやる、なんて思いだしたときが国と国民とい
う夫婦の離別の危機なのかな。家庭内別居ってやつ。
愚痴をこぼしてる間はまだ何かを期待してるけど、なに
も期待しなくなったら愚痴もこぼさない。投票にも行か
ない。デモ行進もやらない。税金も払わない、いや払
えない、、、か。
1980年代から国という亭主は給料を家計に入れなくな
った。給料は増えてるはずなのに、家計に入れるカネは
ケチり出した。もう四十年以上も。
その間亭主は高級車乗り回して、キャピキャピしたギャル
と遊び回ってたのかも。
家では妻と子が食べるだけで精一杯。新しい服も買って
やれない。
「タロー、アンタはねえ、うちのトーチャンみたいな大
人になったらダメだよ。ハナコはねえ、うちのトーちゃん
みたいなやつと結婚したらダメだからね」
「うん、わかってる。ボク一日も早く大人になってカーチ
ャンを楽させてやるんだ。ハナコといつもそんな話してる
んだ」
「ありがとう、なんかカーチャン涙が出てきちゃったよ。
いい子をもってカーチャンは幸せだよ〜」




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仲のいい老夫婦

2024年02月08日


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仲のいい老夫婦




「ご年配のご夫婦が手をつないで歩いてる姿ってなんか
いいわねえ」
「ありゃなんだな、手をつないでないと迷子になるから
かもしれんし」
「もう、すぐそんなこと言って」
「”なあオマエ、迷子になるときは一緒になろうなあ”
”ヤよ、そんなの!”なんて話してるのかも」
「そりゃ、オバケが出るときは確かに一人だけどねえ」
「だろう?仲良く手をつないだオバケなんて見たことも聞
いたこともないしねえ。第一怖くないし」
「・・・・・なんかそんなふうな話じゃなかったような気
もするんだけど」
「オレもそんなふうなハナシする気なんてなかったんだ
けど、アンタがいつのまにか話をこじらせたんだよな」
「どっちもどっちだったと思うけどねえ。どっちにしろ
私たちには縁のない話よね」
「そんなこと言わんとたまには手をつないで歩こうか?」
「ヤ!!だ。腕がちゃんと二本あるんだから、自分の手を
握ったら」
「握るんじゃなく、合わせるか。ナンマンダブ、ナ
ンマンダブ、どうか成仏できますように」




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幸せと不幸せのあいだ

2024年02月07日

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カタツムリの画像のようです


幸せと不幸せのあいだ




あいつが云いました。
「一つ面白いことを教えてやります。ホントの幸せって
のはね、不幸せでも生き抜くことなんだ」
またまた、筋が通ったような通らないようなことを云っ
てますね。
でもやたら筋が通ったことをいうのよりいいじゃん。
「少なくとも不幸ではない」
人たちよりホントの幸福を知ってると思う。
ステイーブジョブスはどこかの国の国家予算くらい稼いだ
わけですが、ガンで死を前にして思いました。結局オレの
人生ってなんだったんだよって。
もしかすると貧しいぼくは、彼より幸せなのかもしれない、
いやマジな話。少なくとも僕は彼より「その日暮らし」で、
「いま、ここに」に生きていることを日々(否応なく)実
感しています。
不幸せなときは幸せを毎日のように夢見ましたが、不幸せ
でなくなったときにつくづくと思いました。あの頃夢見た
幸せはただの夢でしかなかったと。
「いま、ここに」生きていない人は足し算で幸福を考えて
しまいます。(預金通帳の残高じゃあるまいし)
第一「いま、ここに」に生きている人は癌になんかなりま
せん。寿命には敵いっこありませんが、癌は寿命なんかで
はありません。「いま、ここに」生きていないから、人生
が預金通帳になっているから癌になるにすぎないのです。
そして、「いま、ここに」にないものについて悔やむので
す。「いま、ここに」生きているひとは、ただ生きるべく
して生き、亡くなるべくし亡くなるのでしょうね。
ボブ・デイランは、
「答えは風に吹かれている」と歌いました。
では風とは何なのでしょう?それがわからないから多分現
代人は、文明人は本当の幸福を堪能することができないの
でしょう。あなたにはわかりますか?本当に、、、?
「答えは風に吹かれている」という意味を、、、。



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騎射

2024年01月31日

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騎射




騎射で馬の上から空中に投げ上げられた木の枝を射抜く
には、乗馬したままでは不可能です。
馬に乗るのではなく、馬の鎧の上に立って、自分の五体
で馬の動きを吸収するのでなければ的を射抜くことはで
きません。
そう、そういう理屈がわからない的外れのリーダーでは
世の中を変えることも夢のまた夢なのでしょう。
では「馬」とは何かといえば「状況」のことです。全て
はこの状況の把握から始まります。五体を駆使して正確に
状況把握ができれば、次にこの状況の抱えている問題点が
はっきりと見えてきます。
問題点がはっきりすれば、対策の講じようも見えてきます。
しかし、状況の把握がいい加減であれば、当然ながら対策
はチンプンカンプンなものとなり、混乱が混乱を招くとい
うことになるのでしょう。
今の世界、特に日本がそういう形に陥っています。結論を
まとめればこういうことなのでしょう。
人為を押し通し続けようとすれば、物事の一面しか見えな
いようになり、人力を遥かに超えた巨大な力に妨げられ、
挙げ句の果てには押し潰されます。
二十一世紀の世界的な大恐慌という暴れ馬は人為が人力を
遥かに超えた巨大な力に妨げられているということにほか
なりません。私たちが置かれている「状況」とはそういう
ことなのです。
ごく近い将来、私たちは人など無力に等しいのだと思い知
らされるでしょう。
ごく近い将来、人の尊卑どころか生きとし生けるものの尊
卑さえ存在しないのだと思い知らされるでしょう。人も動
物も虫も樹木や花や草もみんな同じなのです。
友人が云うには、、、、
自分を信じるというのは、
「変わらない自分」を、でなく
「いつでも変われる自分」を
信じるということであるらしい。
僕が思うには、、、、
ヒト(人類)を信じるというのは、
「変わらないヒト」を、でなく
「いつでも変われるヒト」を
信じるということ、、、、、
もし変われるヒトでないヒトでないなら、変われる自分を
信じることのできない自分であるのなら、全ては宇宙の塵
となるしかないのでしょう。
今私たちにできることいえば、人馬一体の心境となり、中
空に投げ上げられた木の枝を二つの眼で捉え、無心になっ
て弓の弦を引き絞ることなのでしょう。
騎射の達人は的を射ようとは考えません。ひたすら無心にな
って弓の弦を引き絞るのです。


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逆説の時代

2024年01月20日





テキストの画像のようです


逆説の時代




そもそも既成の経済学では今起きているスタグフレーショ
ンがどうすれば収束するかどころか、どういう原因で起き
てるかさえ碌に説明できません。
給与が下がり、失業者が増えるのに、物価は上がる、とい
う悪循環のどこをどう抑えれば止められるのか、全くといっ
ていいくらい処方箋が見つからないというのが現状です。
なぜなのでしょう?それは当然ながら今の経済学、いや
経済のあり方には根本的な欠陥があるからです。にもかか
わらず、現代経済学の大前提になっている諸々を人々は決
して疑うということを知らないか、知らんふりをしている
のです。
目の前に分厚い壁が立ち塞がっているのに、前に進め(発
展)ばかりでは話にならないのに、ナントカの一つ覚えみ
たいになっているようです。
そもそも、その分厚い壁とは何なのでしょうか?そういう
問いを発するべき時が来ています。
その分厚い壁とは自分(あなた)自身に他ならないのだと
思うのです。ですから自分(あなた)自身を変えれば嘘の
ように消えてなくなるし、変えない限り消えてなくならな
いのだと思います。もしどうしても進歩という言葉を使い
たいのなら、そういう場面にこそ取っておくべきなのでし
ょう。
順境についてはいくらでも語れるが、逆境となるとみんな
口をつぐんでしまいます。右往左往するばかりで思考停止に
なってしまいます。ですから怖いのはスタグフレーション
ではなく、そういう条件反射ではないかというのが僕の偽
らざる感想です。
これは経済に限らず今の社会生活の全般においていえます。
たとえば家庭においてもです。親が会社をクビになった、倒
産した、子どもが非行化した、閉じこもりになった、落ちこ
ぼれた、、、その度に途方にくれるばかりで、悪い方に悪い
方に突っ走ってしまう。そして結局は、取り返しのつかない
ハメに自ら陥ってしまいます。なぜなのでしょうか?
それは多分、一人一人が自分のことしか考えていないとそう
なっていくということなのだと思います。エゴで成り立って
いる人間の集合体はそういうことにとても脆いのです。
うまくいっている間は目立たなくても、都合が悪くなればな
るほど一人一人のエゴが表面化して二進も三進もいかないこ
とになります。エゴとエゴを都合よく両立させる処方箋なん
てどこを探してもあるはずがないのです。
大体がデフレやインフレもどうして発生し、どうすれば収束
するかも碌に解明できないのです。ケインズは解決法を示し
ましたが、既成の学説に相反するもであったので屑箱にポ
イ捨てされ、その挙句に破れかぶれで世界大戦という愚行に
走ってしまったのです。
おまけで言えば、財務省の人たちは(東大)法学部出身で、
経済には素人同然で、関心があるのは国の経済状態より、
国庫の財務状態なのです。視野がとても狭いのです。
冷たいヒステリーで、思想を全く理解せず、勉強といえば、
事実学の羅列=パターン知と丸暗記でしかない。成績優秀
者ほど「本質バカ」でしかないのがわが日本の現実ですが
(東大病という精神の病)、「技術知」だけをためこんで
《思想を育てる》ことのできない人間では、生きている意
味・価値に乏しいのだと思います。
パラダイムシフトの時代には、技術知は無力で、思想の力で
しか未来をひらけないでしょう。スタグフレーションを契機
にして経済のあり方を根本的に問い直す時代が来ているよう
な気がします。ですから、スタグフレーションはこの世の終
わりでなく、むしろ始まりだと考えるべきなのです。
まして世は金融資本主義の真っ盛りで、そういう主客転倒の
社会状況がいよいよ問題をわかりにくくしているような気が
します。
そもそもが金融資本主義などと勿体ぶった表現になっていま
すが、それはなんてことはない、言い換えれば金貸し資本主
義以外の何者でもありません。
金貸しといえばどうしても思い出すのが、あのシャイロック
です。鷲鼻の強欲なユダヤ人である、あの人物です。
シェイクスピアの時代(16世紀後半)には金貸し(金融)
ほど忌み嫌われていたものはなく、それがシャイロックとい
う人物像になったのでしょう。そのシャイロックが今の金融
資本主義の元祖、本家本元であることはもう疑う余地のない
事実であると僕は思います。いやいやそれどころか、現代の
シャイロックである銀行や投資家と比べれば400年前のシャ
イロックなんて他愛のないものです。まして金貨が紙幣にと
って代わり、信用創造とやらで架空のおカネを貸しまくって、
利息や配当で巨大化し、世界の支配者然となっているので
すから、何をかいわんやといったところです。
ではどうして金貸しが嫌われたかといえば、何か得体の知れ
ないものだったからなのでしょう。
当時の富といえばどんなものだったのでしょうか?それは、、、、、
田畑や牧場や森や羊の群れや城や村、胡椒や紅茶を満載した
船や葡萄酒で溢れそうな貯蔵庫などなどのことでした。いつ
でも目で見、手で触れ、匂いを嗅ぐことができるものでした。
それは目に見えて手で触れるものでした。
それに対しておカネとはモノでもなく、文字が書かれた一片
の紙切れに過ぎなかったのです。何かの怨霊のようにどこか
らかぬ〜と現われては借金のカタになにもかもをかっさらっ
ていく薄気味悪いものだったわけです。、、
この危機を乗り越えるには「偉大なるアマチュアリズム」
つまり頭が硬くてご都合主義の経済学者や欲の皮の突っ張
った資本家や実業家ではなく、偉大なる商人(あきんど)
がいればいいのだと思います。
むかしから私たちの国では労働という言葉はなく(明治以降
の外来語の和訳みたいなもの)生業(なりわい)といってい
ました。生業によって確かに対価を得て、それで生活をして
いくのですが、お金儲け自体が目的なのではなく、いい仕事
をした報酬としてお金が入ってくるという感覚でした。
ですからいい加減な仕事ばかりしていると信用をなくし、信
用をなくしますと仕事が入ってこなくなり、生計が立たなく
なります。その背景にあるのは自分がされて嬉しいなと思うこ
とを他人にもするという思いです。いいもの、美味しいもの
長持するものを、できるだけ安く提供する。少しくらい景気
が陰っても余力がある限り、給与を下げず、使用人を解雇せず
値上げをせず、下請けの面倒を見、みんなの力を合わせて危機
を乗り越えるという気概が必要なのです。
そういう思想はお金儲けばかりが先走ったビジネスの世界で
は育ちようがありません。エゴとエゴを都合よく両立させる
処方箋なんてどこを探しても見つかるはずがないのです。、、
最後にいっておきますが、地球の破滅は決してSFなんかで
はないのです。そして破滅させるのは余人ならぬあなた自身
なのです。自分だけが助かればいい、というのではなく、死
なばもろともという気持ちになった時道が開けるような気が
します。
  


Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 06:56
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人知を超えて

2024年01月10日


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、「の な し 全 い よ く 太 び されで な ななら う く あ が ん は 楽さし い 欲力超人な しがえ知に たを た」というテキストのイラストのようです


人知を超えて




「人知が限られていることも科学的真実」
(井戸謙一さん)
天災、特に地震。風は台風一過一ですんでも、地震はそう
はいきません。予知ができないし、またいつ果てるともな
い余震がつきもの、八年前の熊本地震では、余震のはずが
本震になり、本震と思われた前震以上の被害をもたらしま
した。発生時刻が深夜だったのが不幸中の幸いとなり人的
被害が割と少なかったようです。いつも買い物をしている
スーパーマーケットは天井が崩落したので、もし昼間だっ
たら、と思うと慄然たるものがありました。火災被害も少
なかった。
山火事のような、天災のようで実は人災というのが増えて
きています。今後は思いもかけない天災(人災)が頻発す
るのかも、なんて思ったりします。というより、今世紀は
人災が構造化していき、いきつくところまでいって社会の
基盤の液状化が起きるのかもしれません。
人知が天災を予知できないのは仕方がないとしても、人知
が人災を予知できない時代が来ています。いや、人災の方
が天災より予知不能な時代が到来しつつあるようです。
人知とは一体全体なにものなのでしょう?余命が残り少な
くなってきますととみにそんなことを思ったりします。
「人知が限られていることも科学的真実」
”も”を”が”に言い換えた方がしっくりきたりして、、、、。
人知を超える世代が生まれ育つのか否かが、きっと二十一世紀
最大の課題となるのでしょうね。




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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 11:58
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