2021年08月09日
人間的存在について
人間的存在について
形而上学は、プラトン以来、次のように言い述べている。
すなわち、エッセンティア〔本質〕はエクシステンティ
ア〔現実存在〕に先行する、と。
サルトルは、この命題を逆転させたわけである。
けれども、一つの形而上学的命題を逆転させたとしても、
その逆転は、やはり一つの形而上学的命題にとどまって
いる。
こうした命題であるかぎり、その命題は、形而上学もろ
とも、存在の真理の忘却のうちにとどまっているのである。
人間は、存在の真理のうちへと至ることによって、
(中略)牧人(羊飼、農民、自足した民衆)の本質的な
貧しさとなり、牧人の尊厳は、存在そのものによって存在
の真理によって見守られている。
(ハイデッガー)
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植民地主義と闘ったマハトマ・ガンジー(ヒンドゥー教)
も、人種差別と闘ったキング牧師(プロテスタント)も
マザーテレサも、中村哲さんも、、、、
その宗教的信念に基づいて人間愛や人間的共感を体現し
た人たちだった。
人間を疎外する時の宗教は宗派間の相違・対立が顕在化
し、絶対と絶対が拮抗するが、人間愛や人間的共感を支
える時の宗教は、宗派の相違を超えた協調と融和の共通
基盤を示すものではないだろうか。
日本が縄文以来、連綿と露命をつないできた由来は、無
名の在野の人格をこそ敬愛してやまない伝統があったか
らだろう。
ところが維新藩閥政治の露骨な立身出世主義によっても
のの見事に人材が払底した。そして敗戦。
人格という重石を無くした国は亡びるべくして亡びた。
僕が福沢諭吉を嫌いなのは、学問のない日本や中国の民
衆を見下したからだ。