2022年07月13日
チャイコフスキーとウクライナ
チャイコフスキーとウクライナ
ポリフォニー (polyphony)
という言葉を知ってますか、みなさん。
思わず膝をポンとばかりに叩きたくなる、僕の大好きな言葉。
なぜかウクライナ侵攻が起きたときに思い出しました。
元は音楽の用語です。
<複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。
ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、
多声音楽を意味する。>
チャイコススキーのヴァイオリン協奏曲、、、、
あれはスラブ民族の無数の人々の心の痛みを、寄せては返す
波のような悲哀を、ナント一つの旋律にのせた曲です。
今では文学(ドストエフスキー革命)はじめ、色んな分野で
使われています。”共参加”なんていうやや苦しい和訳がされ
ています。
”異質に見えるものの高度な高度な統一に向けての試み”
とでも説明してもいいのでしょうか。
もっと易しくいえば・・・
異なるものは異なるままに受け止めるマクロな人や社会
のあり方。
不都合なものを排除してしまってはいけない。
俺が正しい、お前は間違ってるって罵り合っているよう
じゃ進歩はないってこと。
将棋や囲碁の名人は負けの中から学び成長する。
捨てる力。負ける力。
何より敵から学べるのならそりゃ戦友だってこと。
尊敬できる敵は張り合いのない味方よりずっといいって事。
歴史的にいえば・・・、
文字が出来る前の原始共同体がそうでした。
彼らは自然の営みからそれを学びました。
今の人間は己の都合だけで、樹を切り倒したり、川をせき
止めてダムを作ったりするから、自然から何も学ばない。
特に今、興味をひくのは、医療用語としてのそれです。
キュア(医療)からケア(介護)へ。
増加の一途をたどる精神疾患については、キュアがいかに
無力であるかがはっきりとしてきました。
北海道浦河町にある、精神科医川村敏明氏の「べてるの家」
でも最も大切にされているのは、答えがないこと
いい方法を思いついても、あえて口にしない。
抑圧的な「正しい意見」などよりも、
「色んな意見」の方が大切であるからです。
どうしてウクライナにロシアが侵攻したときこの言葉を想起
したかと言いますと、、、、、
これは覇権主義と覇権主義がぶつかったという問題ではな
いような気がしたからです。
これはモノフォニーに対するポリフォニーのレジスタンスか
もしれない、そんなことをチャイコフスキーのあの調べを
思い浮かべながら思ったのです。
資本の乾いた論理によって、世界中を一つの色で染め尽く
してしまおうというのが、まさにマネーキャピタリズムのに
他なりません。
アメリカという国は強引に絶対的な資本の論理を振りかざ
して、ウクライナというポリフォニーの国をNATOに引きず
り込もうとしました。しかしウクライナとロシアの国境線
はポリフォニーのデッドラインでした。
ここで提起されている問題は「べてるの家」のそれだった
のでは無いかと感じました。
二十一世紀の僕たちの前に立ちはだかって厚い壁はキュア
では解決できない、ケアでなければ、、、、
答えがないことをみんなで受け止める。それはこれからみん
なで見つけなければならない。抑圧的な正しい意見にたやす
くとびついていけない。下手すればそれが私たちの未来の息
の根が止めることになるかもしれない。
そんな風に思えて仕方がなかったのです。
今僕たちは踏み絵を踏まされているような気がしますが、
それはただ問題のありかを見えなくしてしまうだけの結末し
かもたらさないような気がします。