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経済万能の時代の終焉
人間は自らを破滅させるような大量殺戮兵器を発明した。
何のために?無論自らを破滅させるためではない。でな
いとすれば、、、
何のために?何のために?何のために・・・・・??
答えはあっけないほど単純だから嫌になる。マネーのため。
マネーのためならヒトはなんでもやる。無数の無辜の人々
を犠牲にするのも厭わない。ただひたすら己のために己以
外の人を犠牲にし破滅させて顧みない。
では、それがニンゲンの本性かというとそうではない、絶
対に。つまりそれこそがまさに、マネーというものの魔力
なのだ。マネーがニンゲンを変えてしまった。ニンゲンを
ニンゲンでない何者かにしてしまった。
モノはココロのためにあるのだが(ずっとそうだった)、モ
ノのためにココロがあるという倒錯を起こさせたのは、、、
「経済」である。
この「経済」なるものは今の私たちの社会においてはなくて
はならぬものであり、現代の命脈みたいなものでもあるのだ
と、皆が思い込んでいる。信仰といってもいいだろう。それ
が結果的にニンゲンの命脈を絶とうとしているところに経済
の宿命的なジレンマがあるのだと僕は思う。
今私たちはココロはココロであり、モノはモノであると、別
の次元のものだと割り切っている。しかし、ココロから切り
離されたモノが暴走を始めた時、ココロはどうなり、ニンゲ
ンはどうなるかの実験台に今私たちは否応なく立たされてい
る。いや自ら進んで立っているのかもしれない。
経済万能の時代とはすなわちモノがニンゲンのココロを支配
するということに他ならない。これを人口学という新しい学
術分野から見ると、いかにも怪しげなものとなる。
1798年、マルサスは”人口論”を著し、人口増加は幾何級数を
辿るが、生活物資は算術数的にしか増加しないから、こりゃ
大変なことになるといったが、経済が飛躍的に発展した今私
たちは全く逆の脅威に晒されている。経済先進国ではご存知
のように人口が(生活物資は増えたのに)激減し続けている
のである。
というわけで、フランスの人口学者であるエマニュエル・トッ
ドは経済も経済学者も大嫌いになった。経済はニンゲンを、
ニンゲンの未来を、子どもたちの希望を食らうことで巨大化
してきた。そこで改めて「経済」を人類史の中で位置付けて
みるとどういうことになるのか?
生活物資(モノ)の人から人への移動が双方向になり、タダ
では絶対にやらない、ってよりやってはいけない、でなけれ
ば経済秩序が壊れてしまう(タダほど高いものはない)。
Aというモノをやったら必ずそれと同じ価値を持ったBをもら
う。その価値を表すものとしてマネーが冠せられ、やがてモ
ノとはマネーそのものになってしまった。
さてそれでは、経済の発展とともに人口が激減しているのは
なぜか?それは愛されないから愛さないからである。愛され
るという見返りがない限り愛さない、自分の子どもだって。
非経済的で非合理だから?子どもの成長にはたいてい経済と
合理の思惑が道連れになっている。それが子どものためなの
だと思い込んでいる節がある。
”愛されなかったから愛せない”
そんな連鎖が世の中に音もなく広がってゆく。それはきっと、
コロナよりずっと怖いパンデミックなのだろうな。見返りが
ない限り何も与えない。それがまさに等価交換を建前にした
「経済」が私たちにもたらしたものであった。
”血は水よりも濃い”というが、その”血”とは、同じ人間の血、
同じ生きとし生けるもの相互の血ということでなければ、悲
しすぎるではないか。
”愛されなかったから愛せない”の空間が、”愛が愛を生んでゆく”
空間へと変わってゆかなければならないのだろう。愛とは無
条件だからこその愛であって、条件付きの愛情なんてありえ
ない。
どんなに高価な洋服も手編みのマフラーには遠く及ばない、
というより全く別物なのである。手編みのマフラーに値札を
つけたら、その瞬間に全く別物になるだろう。天使が悪魔ま
がいになりかねない。そんな手編みのマフラーにも値札をつ
けて顧みない今の時代を一言でいうなら、こうなるのだろう。
「今だけ、カネだけ、自分だけ」(堤未果)
人に代わってマネーとモノが主役となった時代は、空間のな
かでは確かに存在していたかもしれないが、人類史という長
い歴史の中にあらためておいてみれば、空虚そのものの存在
のようにしか思えない。
「神が嘘をついたとき、中世は終わった。だとすれば
、、、、紙(カネ)が嘘をついたとき、近代は終わる。
もうすぐ終わる」
(次なる100年)水野和夫
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