2016年08月11日
太郎の恋の物語・その2
太郎の恋の物語・その2
太郎という名前を聞くと、
「じゃ、タロちゃん一番お兄ちゃんなんだね。」
と事情を知らない,初対面のオトナ達にはいわれました。
でも僕は男三人兄弟の末っ子でした。
小学校一年生の兄が次郎で、同じく2年生の長兄が
一郎でした。さらに少しあけて,中学生の姉が二人
いました。
姉二人は、出生地が上海となっています。
正確には上海の外国人租界です。
魔都と呼ばれ、当時の世界一の大都会でした。
父が特務機関という,軍属につとめていたのです。
大都会とはいえ、随分のんびりしたところだった
ようです。終戦の帰還船から,見送りの中国人など
を眺めながら、母は涙がでてきたとよく言ってました。
またあの世知辛い日本なのかと思うと悲しくてたまら
なかったそうです。
あの揚子江の河口岸の上海バンドの風景写真なぞ目
にするたびにひどく懐かしがっていたのでした。
租界とは中国人の街である上海に設けられた外国人
の治外法権特区である。
工作局という臨時政府があり、警察もあった。
人種の坩堝であった。
イギリス人,アメリカ人、フランス人,
ロシア人など・・・
それにシナ人と日本人。
建物にはそれぞれの国柄があらわれていたし、
朝晩には各国の大使館で国旗の掲揚と降納があり
国家の吹奏があった。
かしましいばかりであるが、国際色豊かなことこのうえ
ない華やかさと、世界中の亡命者の終着駅という哀愁
が交々の世界であった。
2016年08月05日
太郎の恋の物語・その1
太郎の恋の物語・その1
海の見えるちいさな町で太郎は生まれました。
寄せてはかえす潮騒が子守唄かわりです。
ざざ、ざざという果てしないモノトーンは
67歳になった今でも、心音のように
太郎の胸臆で鳴り響いています。
人は遠い遠いメモリたちがおりなす
錯覚のなかで、半ば夢見るように生きている
のではないかと、よく太郎は考えてしまうのです。
玄界灘の波の色は濃紺色です。
藍より青く,藍より深く、
という形容がぴったりです。
まわりの大人たちも、ここでは子どもの続きのよ
うに素朴でした。
そうです、愛より青く,愛より深く・・・
だから子どもたちはなにかしら大きなものに
見守られ,抱かれて育つのでした。
昭和29年、日本がようやく戦後の混乱から落ち着
きを取り戻した頃・・・。
あの高度経済成長などまだ夢にも思わない時代です。
まずはお腹を満たす。
美味しいとか、美味しくないとかそんなこと考えた
こともありません。
空腹を知らない子どもたちが幸せなのか、そうでない
のか、そんなことも考えたことありません。
ただ空腹しか知らない子どもたちの気持ちは痛いほど
わかります。
ただ食べ物さえあれば、幸せなのです。
他のことなどどうでもいい。
食えて、それから大雑把でもいいから、親の愛情を感じ
られればそれで十分。
身体とこころの成長に不可欠な最小限、リービッヒの
最小律さえ叶えられれば、子どもは黄金のキャパシテイ
の持ち主にちがいありません。
2015年04月01日
桜吹雪と墓石・前
桜吹雪と墓石
・・・前編
いつか逢いたい人がいる
二度と逢えない人がいる
(春ラ・ラ・ラ)・・・より
昨日のお休みは独鋸山の墓地公園、祈りの丘に
二度と逢えない人がいる
(春ラ・ラ・ラ)・・・より
昨日のお休みは独鋸山の墓地公園、祈りの丘に
4人でお花見に行った。
6年前、今は病臥にある在福の義父母と、結婚前の
美帆ちゃんと家族と、総勢7人が桜の樹の下で
楽しい時を過ごした思い出の地である。
それから、むつみ会と同じ年にうまれ、
3月いっぱいで、終止符を打たれる交通センターに、
お別れをいいに行った。観音様の噴水前で記念写真
を撮った。
ぼくが20歳前後、青春のまっただなか、そこは若い
恋人らの待ち合わせの場所であり、
日がな逢瀬の暮れるころあい、
束の間の別離れの
バスのテールランプの後影を
見送るプラットフォームでもあった。
初老のおじいさんやおばあさん、白髪まじりの老夫婦
らが名残を惜しむ。
彼らにとってメモリアルポイントだったのだ、
おそらくそのまちかどは・・・・・・・・・。
同年代のぼくにダッコされたハル君をみると、たちどま
ったり、わざわざ寄って来たりして、いつくしむように頭
をなでたり、てのひらをにぎったりしてくれる
・・・かわいいねって。
ハル君はすっかりごきげんで笑顔をふりまいた。
かって彼、彼女らにも
”いつか逢いたい人”
がいたはずだろう。果たして何人逢えたのかなあ?
でももう段々と、
”二度と逢えない人”
ばかりになってきたね。
(後編へ・・・)