2024年08月24日
古代人vs現代人 (認知革命の虚実)
http://mutsumi-kai.com/
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むつみ会結婚相談室の
古代人vs現代人
(認知革命の虚実)
認知革命の延長線上で農業革命が起き、農業革命(狩猟採
集→農耕)によって所有が生まれ、所有によってヒトは己
の所有物の奴隷になった(家畜化)。
財産を持つことで、財産家は財産の奴隷になり、大金持ち
になることで、大金持ちはお金の奴隷になった。
にもかかわらずその自覚が全くといっていいくらいない。
かって西行が人も羨む地位も名誉も家族すら捨てて遊行の
旅に出たのは、奴隷紛いの人間になどなりたくなかったか
らだろう。
資本家は資本によって世界中の人間を奴隷にしようとして
いるが、その実は誰よりも自分自身が資本の奴隷になって
いる。だからこそ資本によって人類の歴史の幕が上がるど
ころか下されようとしている。たまにそうでもない人間も
いるだろうが、裸一貫になる勇気はない。
数万年前に人類は言葉の修得により、現実にはない虚構を
操るようになり、ホモサピエンスとなった。これを認知革
命と呼ぶが、いうなら、AIのデジタル革命のようなもので、
認知によって作り出した虚構によって自らが欺かれている。
それは、認知というやつが、私とあなたと世界の三項に共
通の理解が生まれたということに過ぎなくて、それ以上で
も以下でもないからなのだろう。その共通の理解なるもの
がどんなものであろうが、世の中がどういうふうになろう
が、知ったこっちゃない、ってことなのかな?
そもそもが、、、字は読めればいいってもんじゃない。読ん
でためになる字と、かえってダメになる字がある。読んだ
分だけ余計な知恵がついてよくないことになることだって
あるのだろう。
認知革命以前の古代人の世界においてはケチこそ最大の侮
辱だったらしい。部族の酋長は一番気前が良くて最も貧し
い人だった。分け与え、贈与する。大切なのは物でなく、
そこに宿る人格だった。
さあて・・・・古代人と現代人ではどちらが賢かったのだ
ろう?軍配が上がる日が近づいているような気がする。
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古代人vs現代人
(認知革命の虚実)
認知革命の延長線上で農業革命が起き、農業革命(狩猟採
集→農耕)によって所有が生まれ、所有によってヒトは己
の所有物の奴隷になった(家畜化)。
財産を持つことで、財産家は財産の奴隷になり、大金持ち
になることで、大金持ちはお金の奴隷になった。
にもかかわらずその自覚が全くといっていいくらいない。
かって西行が人も羨む地位も名誉も家族すら捨てて遊行の
旅に出たのは、奴隷紛いの人間になどなりたくなかったか
らだろう。
資本家は資本によって世界中の人間を奴隷にしようとして
いるが、その実は誰よりも自分自身が資本の奴隷になって
いる。だからこそ資本によって人類の歴史の幕が上がるど
ころか下されようとしている。たまにそうでもない人間も
いるだろうが、裸一貫になる勇気はない。
数万年前に人類は言葉の修得により、現実にはない虚構を
操るようになり、ホモサピエンスとなった。これを認知革
命と呼ぶが、いうなら、AIのデジタル革命のようなもので、
認知によって作り出した虚構によって自らが欺かれている。
それは、認知というやつが、私とあなたと世界の三項に共
通の理解が生まれたということに過ぎなくて、それ以上で
も以下でもないからなのだろう。その共通の理解なるもの
がどんなものであろうが、世の中がどういうふうになろう
が、知ったこっちゃない、ってことなのかな?
そもそもが、、、字は読めればいいってもんじゃない。読ん
でためになる字と、かえってダメになる字がある。読んだ
分だけ余計な知恵がついてよくないことになることだって
あるのだろう。
認知革命以前の古代人の世界においてはケチこそ最大の侮
辱だったらしい。部族の酋長は一番気前が良くて最も貧し
い人だった。分け与え、贈与する。大切なのは物でなく、
そこに宿る人格だった。
さあて・・・・古代人と現代人ではどちらが賢かったのだ
ろう?軍配が上がる日が近づいているような気がする。
2024年08月11日
戦争の実相 (名もなき人々の戦争) *
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むつみ会結婚相談室の

戦争の実相
(名もなき人々の戦争)
二十世紀は戦争の時代と言われているが、正確には十九世
紀から始まった非常に”特異の”社会現象といえる。
つまり、産業革命なるものが起こり、デモクラシーを謳い
文句にした近代国家が成立してからである。そういうまさ
か、まさかの、想定外の現象が近代の戦争の実相である。
それ以前も戦争はあるにはあったが、その程度で、明けて
も暮れてもというのは近代になってから、というのは一目
瞭然の歴史の事実である。
どうしてデモクラシーが戦争三昧につながるのかといえば、
デモクラシーとは国民皆兵、兵役の義務とイコールに他な
らないからである。国民の側からすれば、形ばかりの参政
権のカタに自分の生命を取られるという、こんなに割の合
わない話はないが、逆に統治者の側からすれば、こんなに
美味しい話はない。というわけでデモクラシー・イコール
・戦争、という一見すると矛盾だらけのミスマッチが生
まれた。
では、近代国家の統治者は何者かといえば、封建領主にと
って代わった商業資本家(ブルジョワジー)である。一儲
けしようとマニュファクチュアを作ったのはいいが、せっ
かく作ったものが思うように売れない。そりゃそうだろう、
あんなに労働者を雀の涙の低賃金で酷使している間はね。
労働者が買えなきゃ、買えるやつの人数なんてたかが知れて
る。それなら労働者の賃金をアップすればいいものを、欲
ボケの成り上がりにはそういう知恵はない。
ではどうするか?国の内で売れなきゃ、海の向こう、ってな
ことになった。植民地時代の始まり始まり。でも侵略のた
めの兵隊はどうする?ここで指を鳴らす奴がいた。パッチン。
そうだ、うってつけの奴らがいる。そう、労働者だ、それ
もワンサカと、ってなわけである。
ってなわけで実にくだらない顛末になったのだが、そうなっ
たらなったで、例によって、額縁に飾られ、大層な美辞麗
句が並べ立てられる。愛国心とか軍人魂とか、お国のため
なら喜んで命も捨てる、竹槍を手にしても、虜囚の辱めを受
けるくらいなら自決を選ぶ。
まあ、どんなことだってその気になればいくらでも綺麗事は
並べ立てることはできる。そういうことになると人間はいく
らでも賢くなる。貴族や武家の政治だって、お金儲けだって。
戦争だって。
そしてそうやって出来上がったステレオタイプは不要になっ
ても燻り続ける。燻っているものにもう一度火をつけようと
企む奴だって出てくる。それが日本国憲法下の2024年とい
う終戦から79年目の私たちの世の中なのだろう。
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戦争の実相
(名もなき人々の戦争)
二十世紀は戦争の時代と言われているが、正確には十九世
紀から始まった非常に”特異の”社会現象といえる。
つまり、産業革命なるものが起こり、デモクラシーを謳い
文句にした近代国家が成立してからである。そういうまさ
か、まさかの、想定外の現象が近代の戦争の実相である。
それ以前も戦争はあるにはあったが、その程度で、明けて
も暮れてもというのは近代になってから、というのは一目
瞭然の歴史の事実である。
どうしてデモクラシーが戦争三昧につながるのかといえば、
デモクラシーとは国民皆兵、兵役の義務とイコールに他な
らないからである。国民の側からすれば、形ばかりの参政
権のカタに自分の生命を取られるという、こんなに割の合
わない話はないが、逆に統治者の側からすれば、こんなに
美味しい話はない。というわけでデモクラシー・イコール
・戦争、という一見すると矛盾だらけのミスマッチが生
まれた。
では、近代国家の統治者は何者かといえば、封建領主にと
って代わった商業資本家(ブルジョワジー)である。一儲
けしようとマニュファクチュアを作ったのはいいが、せっ
かく作ったものが思うように売れない。そりゃそうだろう、
あんなに労働者を雀の涙の低賃金で酷使している間はね。
労働者が買えなきゃ、買えるやつの人数なんてたかが知れて
る。それなら労働者の賃金をアップすればいいものを、欲
ボケの成り上がりにはそういう知恵はない。
ではどうするか?国の内で売れなきゃ、海の向こう、ってな
ことになった。植民地時代の始まり始まり。でも侵略のた
めの兵隊はどうする?ここで指を鳴らす奴がいた。パッチン。
そうだ、うってつけの奴らがいる。そう、労働者だ、それ
もワンサカと、ってなわけである。
ってなわけで実にくだらない顛末になったのだが、そうなっ
たらなったで、例によって、額縁に飾られ、大層な美辞麗
句が並べ立てられる。愛国心とか軍人魂とか、お国のため
なら喜んで命も捨てる、竹槍を手にしても、虜囚の辱めを受
けるくらいなら自決を選ぶ。
まあ、どんなことだってその気になればいくらでも綺麗事は
並べ立てることはできる。そういうことになると人間はいく
らでも賢くなる。貴族や武家の政治だって、お金儲けだって。
戦争だって。
そしてそうやって出来上がったステレオタイプは不要になっ
ても燻り続ける。燻っているものにもう一度火をつけようと
企む奴だって出てくる。それが日本国憲法下の2024年とい
う終戦から79年目の私たちの世の中なのだろう。
2023年07月04日
ローマ帝国はどうやって滅亡したか?

ローマ帝国はどうやって滅亡したか?
その1、経済的に行き詰まった。
その理由は、労働意欲のない奴隷頼みの経済だったから。
生産力が衰えた。
その2、経済的に行き詰まったために、軍人を制御できな
くなりクーデターや反乱が頻発した。
その3、多神教から(キリスト教の)一神教になった。
異なる価値観や文化を認めない狭量さが他民族の反感を買
った。
、
これってなんかそっくりですよねえ。なんにって、
そりゃあなた、、、、歴史は繰り返す。
勝ち組ってやつが寄ってたかって作り上げたシャバはいつ
の時代もこの始末ですね。
サリーは言いました。
「だって、あたし、初めからあなたのこと好きなんだもの」
「知らなかったね、それは」
「馬鹿だからよ、あなたが」
「それにしても、どうして僕なんかを好きになったの?」
「そうねえ、あなたがほら憶えていらっしゃる?野宿して
なんにも食べてないっていらしたときね、あのときから好き
になったように思うわ」
僕の妻だってサリーのようでしたよ、四十年前。
その1、経済的に行き詰まった。
その理由は、労働意欲のない奴隷頼みの経済だったから。
生産力が衰えた。
その2、経済的に行き詰まったために、軍人を制御できな
くなりクーデターや反乱が頻発した。
その3、多神教から(キリスト教の)一神教になった。
異なる価値観や文化を認めない狭量さが他民族の反感を買
った。
、
これってなんかそっくりですよねえ。なんにって、
そりゃあなた、、、、歴史は繰り返す。
勝ち組ってやつが寄ってたかって作り上げたシャバはいつ
の時代もこの始末ですね。
サリーは言いました。
「だって、あたし、初めからあなたのこと好きなんだもの」
「知らなかったね、それは」
「馬鹿だからよ、あなたが」
「それにしても、どうして僕なんかを好きになったの?」
「そうねえ、あなたがほら憶えていらっしゃる?野宿して
なんにも食べてないっていらしたときね、あのときから好き
になったように思うわ」
僕の妻だってサリーのようでしたよ、四十年前。
2022年10月15日
瓦礫の下

瓦礫の下
老人と幼児、大人と子ども、日常と非日常、現実と夢。
そんなものの境界線上に僕たちは生きているのかもしれ
ません。いうなら、陸地と海の間の、絶え間なく泡だつ汀
のようなものかも。
そこからの日常という現実が、人により、時折の心境によ
り全く別の広がりを見せるときハッとしたりします。
そういう意外性というものが僕たちには必要なのかなと
思ったりします。
でなければ、文明の仮説を立てるとか、独創的な発想を産
み出すようなことは金輪際無理なような気がします。
マヤとインカを野蛮なものとしては破壊し殺戮することか
ら西洋の近代文明は出発しました。日本の近代も黒船の大
砲によって始まりました。
あれは一体全体何だったのでしょう?あんなに陳腐な出来
事はなかったような気がします。以来世界は方向を見失っ
てしまいました。ジタバタすればするほど深みにはまって
いるような気がしてならないのです。
二十一世紀になっても一向に展望が見えないのは当たり前
のような気がします。何をやっても何を考えても所詮は破
壊と殺戮で終わるしかないのが近代文明の偽らざる姿なの
でしょう。
おカネというのも使い道次第です。両刃の剣なのです。
生かすか殺すか二つに一つなのです。このままでは生かす
方に使うのは無理なような気がします。なぜならそれを決
めるのは人の心のあり方に他ならないからです。
動物も子どもも無垢です。注いだ分の愛情だけ返してくれ
ます。マヤやインカの人々もそうだったのだと思います。
そんな人たちをスペイン人は情け容赦もなく殺しつくし
ました。その汚れた血を洗い落とさない限り前には進みよ
うがないのでしょう。
スペイン人が建てた大聖堂は大地震であっけなく崩落し
ましたが、彼らの聖堂の土台は盤石でした、何万年もの
間です。なにしろ大小の不定形の自然石を積み立てた石組
みはカミソリの刃が入る隙間もないのです。
僕たちは否応なくマニュアルの中で生きています。近代
文明という名の圧倒的なスピードと物量によって僕たちは
作られています。
じっくりと時間と手間をかけて、世代から世代へとつな
げて、人の手で何かを築いていくことを忘れてしまいまし
た。だから僕たちの記憶には上澄みみたいなものしか残っ
ていません。
この地をこれでもかこれでもかと破壊したスペイン人たち
は、意識の上では野蛮人だと蔑みながら、その実は恐れて
いたのかもしれません。
なぜならそこには「人間」がいて、スペイン人たちは「人
間」であることを忘れかけていたからです。
そんなスペイン人達の成れの果てが僕たち自身であったの
だとは言えないでしょうか
人生は自分自身の心で始まり、自分自身の心で終わります。
歴史というものもきっとそうなのでしょう。
人間自身の心で始まりでしか始まらないし、終わりも人間
が自分自身の心で幕を引くのでしょう。
2022年07月24日
歴史の終わりのその後

歴史の終わりのその後
フランシス・フクヤマが、あの「歴史の終わり」を発表し
て30年になります。その間にリーマンショックが、イラ
ク戦争が起き、そして今”ウクライナ”です。
「歴史の終わり」を言うならば、主にネオコンの論点から
書かれています。人類の政治制度は自由(放任)市場経済
と民主主義で終わるべきだというのが、氏の言うところの
「歴史の終わり」の結論でした。
しかしどうやらそんな「歴史の終わり」が幻想であった、
つまり「歴史の終わり」も終わったことを30年間の歳月
が証明してしまったようなのです。
他ならぬフランシス・フクヤマ自身がそう打ち明けていま
す。かってネオコンと称されていた著者は政治的立場を大
きく変えました。大きな政府による福祉国家や格差是正を
主張するようになったのです。
理由は明らかです。ネオコンによって野に放たれたマネー
キャピタルが牙をむいた猛獣となって民主主義的な社会に
襲いかかり始めたからです。国家が最大多数の公の立場に
立つものでなく、かなりあからさまにそんな資本家の立場
に立つようになってきた。
おそらくは”ウクライナ”がそんな歴史の終わりの終わりの
フィナーレというか、大きな転換点となるような気がしま
す。マケインらからバイデンへと連なるネオコン勢力が起こ
したのが、マイダン革命であり、現在の”ウクライナ”の戦
火に他なりません。
その結果世界中が軍拡と核装備の方向へ舵を切り始めまし
た。そして、日本は中国とロシアを敵とする軍事同盟の一員
として存在感を示さなければならなくなりました。そ
のように誘導しているのは米国のネオコンです。
中国とロシアは今や世界人類の天敵さながらになりつつあ
りますが、それこそ見当違いもいいとこだと思います。
ペレストライカは極端な社会主義、つまり市場経済の100%
を国家(政治)が管理するという弊害への反省から起こり
ました。そしてプーチンのロシアは国家資本主義の立場か
ら、最適な範囲での市場への公的な介入を模索し、相当な
成果を収めつつあります。ウクライナもそうです。マイダン
革命以前の国民の生活は安定していました。
しかし、ネオコン勢力としては、そういう国家資本主義の
成功を認めることは、そのまま自己否定につながり、ひ
いてはアメリカという国の覇権の終わりか、国家の凋落を
意味します。
多くの人が信じればそれは真実になります。たとえそれが
浄水器のマルチ商法レベルのトリックであってもそうです。
この「信じることこそ真実」という図式が色あせていくの
が二十一世紀の歴史の終わりのような気がします。
これからの僕たちに投げかけられているのは、何を信じる
か、、、というより、信じるとは何かという問いかけであ
るような気がします。
2022年04月26日
グローバリズムとウクライナ・その2 (ゲーテッドコミュニティとスラム)

グローバリズムとウクライナ・その2
(ゲーテッドコミュニティとスラム)
今の世界を可視化すれば下掲の写真になる。
”グローバリズム”とはこういう風景が世界中に広がってい
くということに他ならない。
(向かって左側がゲーテッドコミュニティ、右側がスラム)
そして、法律がそれを手厚く保護するということでもあり、
年々酷くなる世界の貧富差は政府公認ということでもある。
つまるところは、これをバイオレンスと呼ばずしてなんと
呼ぼうか、という話になる、、、はずなのだが。
歴史における茶番劇が世界中で白昼堂々と行われている。
我が国でいうと、あの小泉劇場からアベノミクスへと続く
成長戦略は、まさに三流役者による笑えない喜劇となる。
(貧富差が開いただけだから)
2022年の世界でいうと、ウクライナである。三流役者はゼ
レンスキー大統領。
よせばいいのに、グローバリズムの旗振り役を演じたのは
いいが、反撃にあって泣きべそをかいている。
かって、捕えられた海賊に向かってアレキサンダー大王は
言った。
「我々に敵対して海を占拠して何の意味があるのだ?」
すると、海賊の親玉は胸を張って応えた。
「全地上を支配して何の意味があるのかね?オレたちが小
さな船で略奪を行うと泥棒と呼ばれるが、大きな船で行う
アンタは皇帝と呼ばれている」。
皇帝であるアレキサンダーがどう応じたかわからない。
どんな形であれ暴力は所詮暴力であり、暴力である以上、
暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみを生む。
そういう下からの暴力と憎しみを怖れて、富裕層は自分た
ちの町の周りに高くて分厚いフェンス(城壁?)を設けざ
るをえなくなった(ゲーテッドコミュニティ)。
ウクライナとロシアの国境線も壁である。ゲーテッドコミ
ュニティとは真逆の、グローバリズムから自分たちのコミ
ュニテイを守ろうとする壁である。
にもかかわらず、貧しさにあえぐ日本国民までがゲーテッ
ドコミュニティ側の応援をしている図は、笑えない喜劇とい
うしかない。
どんな暴力も(つまりゲーテッドコミュニティの暴力も)法
律の範囲内である限り合法的となるが、食うや食わずの隘
路に追い込まれたスラムの住人は法律で守られない限り、
法の外部に飛び出すしかない。
当然犯罪者となれば刑務所にいれられる。スラムの急増と比
例するように犯罪も急増中である。もうじき刑務所も満杯
となって、順番待ちとなるかも知れない。
犯罪者になりたくないなら、傭兵になるという手もある。
戦争フェチを除けば、今の傭兵部隊の大半はスラム出身者
である。
そして富裕層が彼らに報酬を与えて戦場に送る。ウクライナ
の市街戦はもう彼らなしには戦えない。
そして今や軍事産業の人的資源は”彼ら”である。”彼ら”抜き
で二十一世紀の世界の紛争や戦争は考えられない。
しかし肝に銘じておくべきは、富裕層からなるグローバリス
トと彼らの関係は信頼や尊敬に基づくものでは無論なく、た
だの雇用関係でしかないということである。
それどころか、彼らはまさしく二十一世紀世界の火薬庫みた
いな存在で、爆発するべきときを今か今かと待ち構えている
と考えるべきだろう。禁断の核兵器でもを手にすればどうな
るか。失うものがない人間がその気になればどんなに強いか
世界は思い知ることになるかも知れない。
(ゲーテッドコミュニティとスラム)
今の世界を可視化すれば下掲の写真になる。
”グローバリズム”とはこういう風景が世界中に広がってい
くということに他ならない。
(向かって左側がゲーテッドコミュニティ、右側がスラム)
そして、法律がそれを手厚く保護するということでもあり、
年々酷くなる世界の貧富差は政府公認ということでもある。
つまるところは、これをバイオレンスと呼ばずしてなんと
呼ぼうか、という話になる、、、はずなのだが。
歴史における茶番劇が世界中で白昼堂々と行われている。
我が国でいうと、あの小泉劇場からアベノミクスへと続く
成長戦略は、まさに三流役者による笑えない喜劇となる。
(貧富差が開いただけだから)
2022年の世界でいうと、ウクライナである。三流役者はゼ
レンスキー大統領。
よせばいいのに、グローバリズムの旗振り役を演じたのは
いいが、反撃にあって泣きべそをかいている。
かって、捕えられた海賊に向かってアレキサンダー大王は
言った。
「我々に敵対して海を占拠して何の意味があるのだ?」
すると、海賊の親玉は胸を張って応えた。
「全地上を支配して何の意味があるのかね?オレたちが小
さな船で略奪を行うと泥棒と呼ばれるが、大きな船で行う
アンタは皇帝と呼ばれている」。
皇帝であるアレキサンダーがどう応じたかわからない。
どんな形であれ暴力は所詮暴力であり、暴力である以上、
暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみを生む。
そういう下からの暴力と憎しみを怖れて、富裕層は自分た
ちの町の周りに高くて分厚いフェンス(城壁?)を設けざ
るをえなくなった(ゲーテッドコミュニティ)。
ウクライナとロシアの国境線も壁である。ゲーテッドコミ
ュニティとは真逆の、グローバリズムから自分たちのコミ
ュニテイを守ろうとする壁である。
にもかかわらず、貧しさにあえぐ日本国民までがゲーテッ
ドコミュニティ側の応援をしている図は、笑えない喜劇とい
うしかない。
どんな暴力も(つまりゲーテッドコミュニティの暴力も)法
律の範囲内である限り合法的となるが、食うや食わずの隘
路に追い込まれたスラムの住人は法律で守られない限り、
法の外部に飛び出すしかない。
当然犯罪者となれば刑務所にいれられる。スラムの急増と比
例するように犯罪も急増中である。もうじき刑務所も満杯
となって、順番待ちとなるかも知れない。
犯罪者になりたくないなら、傭兵になるという手もある。
戦争フェチを除けば、今の傭兵部隊の大半はスラム出身者
である。
そして富裕層が彼らに報酬を与えて戦場に送る。ウクライナ
の市街戦はもう彼らなしには戦えない。
そして今や軍事産業の人的資源は”彼ら”である。”彼ら”抜き
で二十一世紀の世界の紛争や戦争は考えられない。
しかし肝に銘じておくべきは、富裕層からなるグローバリス
トと彼らの関係は信頼や尊敬に基づくものでは無論なく、た
だの雇用関係でしかないということである。
それどころか、彼らはまさしく二十一世紀世界の火薬庫みた
いな存在で、爆発するべきときを今か今かと待ち構えている
と考えるべきだろう。禁断の核兵器でもを手にすればどうな
るか。失うものがない人間がその気になればどんなに強いか
世界は思い知ることになるかも知れない。
2022年04月24日
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グローバリズムとウクライナ
グローバル主義(グローバリズム)と書いてなんと読む。
世界は一つ(という人類の理想)と読む、
なんて、、れっきとした国際政治学者がのたまうとしたら、
これ如何?
プーチンがふたたび世界に分裂と対立を呼び込んだ、なん
て、そりゃないだろう、じゃなくて、そりゃそうだろう。
プーチンはグローバル主義なんて真っ平ごめんなさいと思
ってるんだから。
トランプさんもアメリカに分裂を呼び込んだし、それと一
緒だろう。思いは同じといったところか。
IMFとかWTOとか持ち出して、どうこうのたまうようなら、
こりゃもうただの世間知らずって奴。
いやしくも学識でメシ食ってるくらいだから、IMFとかWTO
の実態くらい知ってるはずと思うのだけどねえ。
では、グローバル主義(グローバリズム)とは何であるか?
おカネ(つまり金融資本)が国境を越えて自由に往来できる
仕組みである。
その結果として、某国を主とした一部の先進国の株価が上がる。
しかし株価が上がったからといって、それがそのまま庶民の
生活の向上につながるというのは昔話であって、逆に実質賃
金は低下する(実体がない空の売り買いだから)。
そうして、金持ちはより金持ちになり、貧乏人はより貧乏人
になってゆく。つまり、、、
世界の分裂と対立という越えがたい溝は、ロシアとアメリカ
の間の溝なんかではなく、世界における富の集中と貧困化の
二極化が甚だしくなるという”越えがたい溝”のことに他な
らない。
IMFはそうやって二束三文となった債務国の資産を差し押さえ
る国際的な執行機関のことである。
身近な例で言えば、日本の郵便局。簡易貯金とか一体どこで
どうなったのでしょう?
グローバル主義(グローバリズム)と書いてなんと読む。
世界は一つ(という人類の理想)と読む、
なんて、、れっきとした国際政治学者がのたまうとしたら、
これ如何?
プーチンがふたたび世界に分裂と対立を呼び込んだ、なん
て、そりゃないだろう、じゃなくて、そりゃそうだろう。
プーチンはグローバル主義なんて真っ平ごめんなさいと思
ってるんだから。
トランプさんもアメリカに分裂を呼び込んだし、それと一
緒だろう。思いは同じといったところか。
IMFとかWTOとか持ち出して、どうこうのたまうようなら、
こりゃもうただの世間知らずって奴。
いやしくも学識でメシ食ってるくらいだから、IMFとかWTO
の実態くらい知ってるはずと思うのだけどねえ。
では、グローバル主義(グローバリズム)とは何であるか?
おカネ(つまり金融資本)が国境を越えて自由に往来できる
仕組みである。
その結果として、某国を主とした一部の先進国の株価が上がる。
しかし株価が上がったからといって、それがそのまま庶民の
生活の向上につながるというのは昔話であって、逆に実質賃
金は低下する(実体がない空の売り買いだから)。
そうして、金持ちはより金持ちになり、貧乏人はより貧乏人
になってゆく。つまり、、、
世界の分裂と対立という越えがたい溝は、ロシアとアメリカ
の間の溝なんかではなく、世界における富の集中と貧困化の
二極化が甚だしくなるという”越えがたい溝”のことに他な
らない。
IMFはそうやって二束三文となった債務国の資産を差し押さえ
る国際的な執行機関のことである。
身近な例で言えば、日本の郵便局。簡易貯金とか一体どこで
どうなったのでしょう?
2022年04月23日
次なる100年、その4
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次なる100年、その4
「多くの人はAIがこの危機の救世主だと思ってい
るが、この危機を救済するのはAIでなく芸術である。
機械ではなく、機械によって奪われた人間精神がこ
の危機を救済する。それがこの本の結論である」
(水野和夫)
”昨日の専門家は明日の専門家ならず。”
という言葉くらい二十一世紀という時代を言い得ている
ものはありません。
”、、、ならず”どころか、足を引っ張るのに躍起になって
いるような気さえします。
彼らの言うことなすことの全てがハズレくじになっている
ようです。
何か僕たちが小学生だったころの駄菓子屋さん店先の、あ
のくじ付きの飴玉を思い出します。飴玉を買っても買って
もハズレばっかし。
彼らの原理原則に照らし合わせると、今の世の中に起こる
ことは例外だらけになっています。つまりは例外が定常状
態になっているわけです。もう想定外などと言ってごまか
せる状況ではありません。
それでも彼らは自分の意見を頑なに変えようとはしません。
それはそれで仕方のないことかも。なにせ彼らは二十世紀
(前世紀的な)原理原則を飯の種にしているからです。
政界、財界、学界などのほとんどのオーソリティが前世紀
的な遺物になっているのが現状のようです。
水野和夫さんが、何より”芸術精神”がこの危機を救済すると、
800頁もの大著(次なる100年)の結論としているのはとて
も意味深な趣があります。
というのも、そもそも近代の科学というものの欠点は、
AとBは同じという、対象の認識の仕方から出来上がってい
るところにあると考えます。
万事を(森羅万象をも)共通点で括って(分類して)”分か
った”という気分になるのが科学だとも言えます。分かった
というのは分けるというのと同義なのです。
これは下手を打つと実りなきパターナリズムの罠に陥る危険
性を孕んでいますが、その通りになっています。
学校のカリキュラムがその典型であると言えます。先生が
「みなさん、分かりましたか」と言って、生徒が「はい、
分かりました」と答えて、それで終わりです。
それに対して「芸術」は、AとBは違うというところから出発
します。だから芸術をやると、やればやるほど分かるのでは
なく分からなくなるのです。
そして、、、、人の心も世の中も宇宙もわからないことだらけ
なのです。精神は(魂といってもいいでしょうか?)は分から
ないこと(未知の世界)にチャレンジすることで成長し、デ
ッカくなるのであって、その逆では断じてありません。
資本の暴力性によって、債権国(米国)が世界中を債務国に
して、支配しようというシステム統合のやり方が、人々の世の
中の結びつきを破壊し、人々の精神性を限りなく収縮させよ
うとしている。
それがきっと水野さんの言っている時代の危機の正体なのだと
思います。
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次なる100年、その4
「多くの人はAIがこの危機の救世主だと思ってい
るが、この危機を救済するのはAIでなく芸術である。
機械ではなく、機械によって奪われた人間精神がこ
の危機を救済する。それがこの本の結論である」
(水野和夫)
”昨日の専門家は明日の専門家ならず。”
という言葉くらい二十一世紀という時代を言い得ている
ものはありません。
”、、、ならず”どころか、足を引っ張るのに躍起になって
いるような気さえします。
彼らの言うことなすことの全てがハズレくじになっている
ようです。
何か僕たちが小学生だったころの駄菓子屋さん店先の、あ
のくじ付きの飴玉を思い出します。飴玉を買っても買って
もハズレばっかし。
彼らの原理原則に照らし合わせると、今の世の中に起こる
ことは例外だらけになっています。つまりは例外が定常状
態になっているわけです。もう想定外などと言ってごまか
せる状況ではありません。
それでも彼らは自分の意見を頑なに変えようとはしません。
それはそれで仕方のないことかも。なにせ彼らは二十世紀
(前世紀的な)原理原則を飯の種にしているからです。
政界、財界、学界などのほとんどのオーソリティが前世紀
的な遺物になっているのが現状のようです。
水野和夫さんが、何より”芸術精神”がこの危機を救済すると、
800頁もの大著(次なる100年)の結論としているのはとて
も意味深な趣があります。
というのも、そもそも近代の科学というものの欠点は、
AとBは同じという、対象の認識の仕方から出来上がってい
るところにあると考えます。
万事を(森羅万象をも)共通点で括って(分類して)”分か
った”という気分になるのが科学だとも言えます。分かった
というのは分けるというのと同義なのです。
これは下手を打つと実りなきパターナリズムの罠に陥る危険
性を孕んでいますが、その通りになっています。
学校のカリキュラムがその典型であると言えます。先生が
「みなさん、分かりましたか」と言って、生徒が「はい、
分かりました」と答えて、それで終わりです。
それに対して「芸術」は、AとBは違うというところから出発
します。だから芸術をやると、やればやるほど分かるのでは
なく分からなくなるのです。
そして、、、、人の心も世の中も宇宙もわからないことだらけ
なのです。精神は(魂といってもいいでしょうか?)は分から
ないこと(未知の世界)にチャレンジすることで成長し、デ
ッカくなるのであって、その逆では断じてありません。
資本の暴力性によって、債権国(米国)が世界中を債務国に
して、支配しようというシステム統合のやり方が、人々の世の
中の結びつきを破壊し、人々の精神性を限りなく収縮させよ
うとしている。
それがきっと水野さんの言っている時代の危機の正体なのだと
思います。
キューブラー、ロス博士によると、人は死ぬ間際に五つの段階
を通るといいます。
第1段階: 「否認」・死ぬという事実を認めない。
第2段階: 「怒り」・自分の運命に対して憤る。
第3段階: 「懇願」・理由をつけて、神に延命を願う。
第4段階: 「抑鬱」・絶望で精神的に落ち込んでしまう。
第5段階: 「受容」・死を静かに受け入れようとする。
今際のきわの近代は、今どの段階に入るのでしょうか?
まあ、せいぜいいっても第3段階あたりでしょうか。
私たちの天使は第5段階の先で微笑んでいるんですけどねえ。
2022年04月21日
次なる100年、その3
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次なる100年、その3
「1991年(平成の始まり)のソビエト連邦の解体は、
共産主義の敗北ではなく、平成が終わってみれば、
それが実は、西洋資本主義文明の敗北だったことが
明らかになった」
(水野和夫)
、、、ということが、ウクライナパンデミックの決着次第
で”より”明らかになるだろうと考えられる。
あのイデオロギー闘争と軍拡競争で米国が勝利したのは、
日本の過剰な貯蓄が米国債を大量に購入することで、米国
の国防費の膨張を可能にしたからに過ぎない。
しかし、皮肉なことにその資本主義文明の過剰な成長が
自分の首を絞めることになる(資本主義の自己撞着)
とは思いもよらないことであっただろう。
案の定、平成の終わりはマイナス金利で幕を閉じた。
マイナス金利とは(利子と利潤の源泉は同じであるから)
大量生産はそのまま余剰につながるということに他ならず
商品を産めば生むほど損失につながりかねない。
そして2016年には日独の十年国債の利回りがマイナスとな
り、2019年には仏の10年国債がマイナスとなった。
ホンの30年前には、一千万円の貯蓄を持っている人と、同
じ一千万円の借金を持っている人が、同じ生活レベルでヨ
ーイドンでスタートし、十年後のゴール地点ではどうなっ
たかというと、二人の間には決定的な貧富差が生まれた。
さらにその十年後にどうなるかといえば凡その想像はつく
だろう。
それに拍車をかけたのが、あの米国資本主義の見かけの勝
利にだったというわけだ。
ソビエト連邦の失敗は、資本を国有化した社会主義の失敗
でなく、飽くことのない欲望のままに突っ走る経済のあり
方の失敗だった。
飽くことのない欲望に溺れた”現在”は”未来”を食いつぶし
てやまない。そうしてついに、未来という空間が閉じられ
てしまったのが今のアメリカであり、西洋であり、そして
まさに今の日本という国の姿である。
近代が終わりつつあるのに近代にしがみつくことこそが
本当の意味の敗北なのだ。
にもかかわらず、日本の財界、政界、日本銀行の石頭で陳
腐なエリートの群れは、第4次産業革命なる幻想に望みを
託そうとしている。
「1991年(平成の始まり)のソビエト連邦の解体は、
共産主義の敗北ではなく、平成が終わってみれば、
それが実は、西洋資本主義文明の敗北だったことが
明らかになった」
(水野和夫)
、、、ということが、ウクライナパンデミックの決着次第
で”より”明らかになるだろうと考えられる。
あのイデオロギー闘争と軍拡競争で米国が勝利したのは、
日本の過剰な貯蓄が米国債を大量に購入することで、米国
の国防費の膨張を可能にしたからに過ぎない。
しかし、皮肉なことにその資本主義文明の過剰な成長が
自分の首を絞めることになる(資本主義の自己撞着)
とは思いもよらないことであっただろう。
案の定、平成の終わりはマイナス金利で幕を閉じた。
マイナス金利とは(利子と利潤の源泉は同じであるから)
大量生産はそのまま余剰につながるということに他ならず
商品を産めば生むほど損失につながりかねない。
そして2016年には日独の十年国債の利回りがマイナスとな
り、2019年には仏の10年国債がマイナスとなった。
ホンの30年前には、一千万円の貯蓄を持っている人と、同
じ一千万円の借金を持っている人が、同じ生活レベルでヨ
ーイドンでスタートし、十年後のゴール地点ではどうなっ
たかというと、二人の間には決定的な貧富差が生まれた。
さらにその十年後にどうなるかといえば凡その想像はつく
だろう。
それに拍車をかけたのが、あの米国資本主義の見かけの勝
利にだったというわけだ。
ソビエト連邦の失敗は、資本を国有化した社会主義の失敗
でなく、飽くことのない欲望のままに突っ走る経済のあり
方の失敗だった。
飽くことのない欲望に溺れた”現在”は”未来”を食いつぶし
てやまない。そうしてついに、未来という空間が閉じられ
てしまったのが今のアメリカであり、西洋であり、そして
まさに今の日本という国の姿である。
近代が終わりつつあるのに近代にしがみつくことこそが
本当の意味の敗北なのだ。
にもかかわらず、日本の財界、政界、日本銀行の石頭で陳
腐なエリートの群れは、第4次産業革命なる幻想に望みを
託そうとしている。
2022年04月20日
次なる100年、その2
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次なる100年、その2
「今やお金とは何であるか?
墓石に刻まれた金文字みたようなもの」
(ベンヤミン)
ゼロ金利とは、利子率、利潤率ゼロということで、
資本の(無限)自己増殖が行き止まりになったこと。
変動費(生産量・販売量に比例して増減する費用。
原材料費、販売手数料など)がマックスになり、
固定費(売上の増減にかかわらず発生する一定額の費用。
人件費、地代家賃など)がミニマムになるとそうなります。
だから、日銀が国債を異次元の金融緩和とやらで、年に百
兆円近く買い込んでも一向にデフレは止まらないし、
アベノミクスで日本経済を大空に飛び立たせようと、
どんなにヤキモキしても状況が変わらないどころか、悪く
なる一方なのはそのため。
大空という空間自体が消滅してるから飛べるわけがない。
空がないなら大地に帰って自分たちの大切な畑を愛情込め
て耕せばいいではないか。
独仏日はもう4半世紀もゼロ金利が続いているのだから、
もうこれは例外的状況ではなくして、これからもずっと
続く恒常的な状況に他ならない。
ドイツ政府はそのことに気づき始めている。
そのドイツの、あのカントは主観と対象の反転を地動説に
なぞらえた。
予測可能性の範囲だけで時代は終始するわけではない。
何十年も続くゼロ金利とは、時代がコペルニクス転回を
しているサインに他ならない。
その硬い石頭を一旦ぶっ壊さなきゃエラいことになるとい
うこと。
イラクやリビヤのようにロシアはそう簡単にはいかない。
現にドル安が進み、もうドルでは何も買収できなくなる
だろう。
”昔々、シャイロックという悪どい高利貸しがいて巨万の富
を築いていた。シャイロックの取り立ては情け容赦なかっ
たので良識ある人たちから蛇蝎のように嫌われていた。
一方ベニスにアントーニオという商人がいて、彼は手持ち
のカネを困った商人たちに貸していたが、利子は一切取ろ
うとしなかった。それでシャイロックとアントーニオはお互
いにいがみ合っていた。そして結末は、、、、、”
ここで問題、、、、
もし、シャイロックがウオール街の手先バイデンとするなら、
トランプやプーチンは誰にあたるのだろう。
、、で、日本はというと、シャイロックの番頭にでもあたる
のかな?
ゼロ金利のお国なのに、日本のお偉いさんは揃いも揃って
どんな腹積りで高利貸しのお先棒を担いでいるんだろう?
2022年04月19日
次なる100年、その1
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次なる100年、その1
神が嘘をついたとき、中世は終わった。
だとすれば、、、、
紙(おカネ)が嘘をついたとき、近代
は終わる。もうすぐ終わる。
(次なる100年)水野和夫著
中世ヨーロッパの人々の心の拠り所は神であり、神と
はすなわち教会でした。そんな神のことばの代弁者であ
る教会が腐敗堕落し、貧しい人たちを食いものにしてい
るのを知ったとき民衆の怒りが爆発し、教会が襲われ、
中世は終わりました。
でも人間は心の拠り所なくしては生きていきません。
そんな心の隙間を衝くようにして出てきたのがおカネで
した。
おカネは数字で表され、神父の説教のような曖昧さがない
分、自分たちを騙さないと人々は考えたのでしょう。
そして、キリストというカミ(神)だけを信じる一神教か
らおカネというカミ(紙)だけを信じる一神教へと宗旨変
えをしました。
(ヨーロッパの人たちは日本人の目で見ればとても極端な
んですね。絶対という考え方が大好きみたい)
そして今度は、中世の人たちがキリストいうカミのために、
十字軍の遠征を行ったように、おカネというカミのために
行ったのが植民地支配であり、ついでと言っては何ですが、
ウクライナだって同じようなもんです。イラクとかリビアと
かアフガンとかシリアもですか、そんなこんなと同じ動機
から出てきたもののようです。
まあ、そのことはこの際脇に置いといて、近代のおカネとい
うカミの信仰は一部の地域を除いて世界中を覆い尽くしま
したが、今そんな世界中の人々がカミに手ひどく裏切られ
ています。
大企業やビリオネアが過剰資本(つまり何の役にも立ってな
い資本の事)を抱える一方で、人々の生死に関わる困窮に対
しては知らん顔です。
それはまさに、罪であり、盗みであり、犯罪であり、不正
義以外の何物でもありません。
溜め込まれるだけで、人々の生活向上のためどころか、絶望
の淵に追い込むような、企業の内部留保や富裕層の膨大な金
融資産、、、
それは、99%の民衆の目には神どころか忌まわしい悪魔の
姿にしか見えなくなりました。
神が嘘をついたとき、中世は終わった。
だとすれば、、、、
紙(おカネ)が嘘をついたとき、近代
は終わる。もうすぐ終わる。
(次なる100年)水野和夫著
中世ヨーロッパの人々の心の拠り所は神であり、神と
はすなわち教会でした。そんな神のことばの代弁者であ
る教会が腐敗堕落し、貧しい人たちを食いものにしてい
るのを知ったとき民衆の怒りが爆発し、教会が襲われ、
中世は終わりました。
でも人間は心の拠り所なくしては生きていきません。
そんな心の隙間を衝くようにして出てきたのがおカネで
した。
おカネは数字で表され、神父の説教のような曖昧さがない
分、自分たちを騙さないと人々は考えたのでしょう。
そして、キリストというカミ(神)だけを信じる一神教か
らおカネというカミ(紙)だけを信じる一神教へと宗旨変
えをしました。
(ヨーロッパの人たちは日本人の目で見ればとても極端な
んですね。絶対という考え方が大好きみたい)
そして今度は、中世の人たちがキリストいうカミのために、
十字軍の遠征を行ったように、おカネというカミのために
行ったのが植民地支配であり、ついでと言っては何ですが、
ウクライナだって同じようなもんです。イラクとかリビアと
かアフガンとかシリアもですか、そんなこんなと同じ動機
から出てきたもののようです。
まあ、そのことはこの際脇に置いといて、近代のおカネとい
うカミの信仰は一部の地域を除いて世界中を覆い尽くしま
したが、今そんな世界中の人々がカミに手ひどく裏切られ
ています。
大企業やビリオネアが過剰資本(つまり何の役にも立ってな
い資本の事)を抱える一方で、人々の生死に関わる困窮に対
しては知らん顔です。
それはまさに、罪であり、盗みであり、犯罪であり、不正
義以外の何物でもありません。
溜め込まれるだけで、人々の生活向上のためどころか、絶望
の淵に追い込むような、企業の内部留保や富裕層の膨大な金
融資産、、、
それは、99%の民衆の目には神どころか忌まわしい悪魔の
姿にしか見えなくなりました。
(続く)
2022年02月11日
敗者の歴史
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敗者の歴史
眼で見えるものだけを信じる多くの人々と、心が感じるも
のを信じたいと願う少数の人たちがいます。
だが例えば男女の出会いなどの、自分の一生を決定しかね
ないような場面ではそうでもありません。
表面的なカタチだけで生涯の伴侶を選んだばかりに不幸に
なってしまった男女がたくさんいるからです。
私たちが知っている(つもりの)世界や国の歴史はどのよ
うなものかといえば、もう間違いなく勝者の歴史でしょう。
そして、そんな勝者の歴史を何の疑いもなく信じ込んでし
まう人がとても多い。
自分の個人的な幸不幸を大きく左右しかねない局面では慎
重になれる人々が、社会全体という大きなステージに対し
たときには、眼に触れる、嘘か本当かわからないカタチだ
けを受け入れてしまうのは、思えば不思議なことだと思い
ませんか?
勝者の歴史とは、富み栄えているものの歴史でしょう。
それに対して敗者たちの歴史というものも截然として存在
しています。
眼で見えるものだけを信じる多くの人々と、心が感じるも
のを信じたいと願う少数の人たちがいます。
だが例えば男女の出会いなどの、自分の一生を決定しかね
ないような場面ではそうでもありません。
表面的なカタチだけで生涯の伴侶を選んだばかりに不幸に
なってしまった男女がたくさんいるからです。
私たちが知っている(つもりの)世界や国の歴史はどのよ
うなものかといえば、もう間違いなく勝者の歴史でしょう。
そして、そんな勝者の歴史を何の疑いもなく信じ込んでし
まう人がとても多い。
自分の個人的な幸不幸を大きく左右しかねない局面では慎
重になれる人々が、社会全体という大きなステージに対し
たときには、眼に触れる、嘘か本当かわからないカタチだ
けを受け入れてしまうのは、思えば不思議なことだと思い
ませんか?
勝者の歴史とは、富み栄えているものの歴史でしょう。
それに対して敗者たちの歴史というものも截然として存在
しています。
罪を知るものは裁かない
では敗者たちの歴史とは一体どういうものかといえば、
無知と貧困のために苦しんでいる人たちの歴史です。また
それは絶対多数の人たちの生きてきた軌跡、物言わぬ人た
ちの声なき声だともいえます。
勝者の歴史はラウドスピーカーでやかましいほど喧伝されま
すが、敗者の歴史は耳をすまさなければ聞こえません。
お見合いでいえば、うるさいくらい自慢を並べ立てるのが
前者で、相手の話に静かに耳をすます聞き上手が後者なの
だといえます。
さて、あなたとしてどちらの相手を選ぶのでしょうね。
キビシイことを言わせて貰えば、確かにこの世の背徳とか
罪悪とかは、むしろ敗者の世界の中にあふれているのかも
しれません。
誰だってまっとうに生きたいと思います。わざわざ人に嫌
われるような人間になりたいと思う人間になりたいなんて
いるはずがない。
にもかかわらず、そうなってしまうのが底辺に生きる人た
ちの宿命的な弱さだと思うのです。
というのは僕自身のこれまでの人生経験からの嘘偽りのな
い実感でもあります。
多分だからでしょう、今の僕は他人を裁くということに気
が引けてならない。
「罪を知るものは決して人を裁かない、裁けない」
という言葉(誰の言葉でしたか?)が身にしみる年齢にな
ったのかなという心持ちがします。
罪を知るものが開く未来
ただそんな背徳や罪悪の大部分が、もし貧困や無知から来て
いるとすれば、、、というハナシにもなってきます。
もしそうだとすれば、貧困や無知をなくすような社会的
(国家的といってもいい)な真摯な試みや努力は欠かせない
ことだと思うのです。
しかし罪を知らない(と自分で思い込んでいる)人たちに
それを期待するのは、残念ながら出来ない相談だと思います。
その人たちは大上段に人を裁くのが大好きだからです。
前科がないから罪を犯していないのだと、多くの人たちは
考えますが、そんな話じゃないでしょう、断じて!
他人から後ろ指を指されるようなことなんて金輪際してな
いから清廉潔白だ。そんな話でもないと思います、断じて!
人が人を裁くのはたいてい自分の胸臆にある良心の呵責から
目をそらしたいときです。裁くことによって己を正当化する。
これもまた自分の教訓から得た尊い教訓です。
そして困ったことに、恵まれた人、せっかく世の中を変え
る影響力を掌中にしている人はそういう人種でもあるのです。
だからと言っては何ですが、だから僕らの努力は徒労に終わ
ることがとても多いと思うのです。
でも、貧困と無知のために苦しんいる人たちこそもっともら
しい人たちであるし、未来の希望はそんな人たちの手のひら
にあるのだと思えてなりません。
徒労に見えるのはまだ花や実にならないということにすぎ
なくて、目に見えないところでしっかりと根を張っているの
だと僕は思います。
2021年12月10日
歴史の”イフ”、その2

歴史の”イフ”、その2
歴史とは何か、、、集団記憶である。
つまり誰かさんの瞼の裏に残っているワンシーンでは
なく、数知れない人々の脳裏に積み重ねられた、数知
れないシーンの集合体である。
白と黒でもなく、右と左でもなく、光と闇でもない。
人間は単純かもしれないが、歴史は単純じゃない。
一人の人間はちっぽけな個体かもしれないが、歴史は無
数の個体が複雑怪奇に絡み合う巨大な空間である。
いろんな思いが交錯するスクランブル交差点である。
しかしいかんせん、そのちっぽけな個体に過ぎない後世
の人間は己のスケールに合わせて歴史を見がちになる。
そんな齟齬が度々歴史を狂わせてきた。
人はとかく自分の信じたいものを信じようとする。つ
まり自分の信じたい結末に合わせて物語を作りたがる。
その最たるものが尊王攘夷であり、神国日本であり、
八紘一宇であったと言えよう。
明治来の日本の場合は、朱子学の感化が行き過ぎた感が
あるが、西洋の場合は一神教の弊害が見逃せない。
一神教や朱子学的大義名分論の厄介なのは、独善で凝り
固まってしまうという点である。
そして自分だけが正しいという狭量さは、自分以外のす
べては誤りで、敵であるという結論に辿りつかざるをえ
ない。それはご都合主義で、独りよがりの思い込みでし
かなく、思想とは程遠いものとなるしかない。
では思想とはどんなものであるかというと、言うまでも
なく思惟によってもたらされるものである。”恣意”によ
ってではないなんて当たり前の話である。
思惟なんていうと七面倒臭そうであるが、実は至極簡単
な手順を踏んでいるかいないかの違いでしかない。
第一に来るのは、冷静で広い視野からの正確な状況の認
識、分析、判断があるかないか。
これなくしては、何が本当の問題点であるかという次の
ステージに進みようがない。
思惟とは、この状況の中に埋もれた問題点を探り当て
ていく頭の働きに他ならないだろう。
ご都合主義で物語(フィクション)を作りたがる人たち
にはこの作業が決定的に欠落している。
結論や正解ありきであるから、問題点など出てきようが
ない。
歴史とは何か、、、集団記憶である。
つまり誰かさんの瞼の裏に残っているワンシーンでは
なく、数知れない人々の脳裏に積み重ねられた、数知
れないシーンの集合体である。
白と黒でもなく、右と左でもなく、光と闇でもない。
人間は単純かもしれないが、歴史は単純じゃない。
一人の人間はちっぽけな個体かもしれないが、歴史は無
数の個体が複雑怪奇に絡み合う巨大な空間である。
いろんな思いが交錯するスクランブル交差点である。
しかしいかんせん、そのちっぽけな個体に過ぎない後世
の人間は己のスケールに合わせて歴史を見がちになる。
そんな齟齬が度々歴史を狂わせてきた。
人はとかく自分の信じたいものを信じようとする。つ
まり自分の信じたい結末に合わせて物語を作りたがる。
その最たるものが尊王攘夷であり、神国日本であり、
八紘一宇であったと言えよう。
明治来の日本の場合は、朱子学の感化が行き過ぎた感が
あるが、西洋の場合は一神教の弊害が見逃せない。
一神教や朱子学的大義名分論の厄介なのは、独善で凝り
固まってしまうという点である。
そして自分だけが正しいという狭量さは、自分以外のす
べては誤りで、敵であるという結論に辿りつかざるをえ
ない。それはご都合主義で、独りよがりの思い込みでし
かなく、思想とは程遠いものとなるしかない。
では思想とはどんなものであるかというと、言うまでも
なく思惟によってもたらされるものである。”恣意”によ
ってではないなんて当たり前の話である。
思惟なんていうと七面倒臭そうであるが、実は至極簡単
な手順を踏んでいるかいないかの違いでしかない。
第一に来るのは、冷静で広い視野からの正確な状況の認
識、分析、判断があるかないか。
これなくしては、何が本当の問題点であるかという次の
ステージに進みようがない。
思惟とは、この状況の中に埋もれた問題点を探り当て
ていく頭の働きに他ならないだろう。
ご都合主義で物語(フィクション)を作りたがる人たち
にはこの作業が決定的に欠落している。
結論や正解ありきであるから、問題点など出てきようが
ない。
そして、より正確な問題点が明らかにならないかぎり、
第三のステージである、より的確な対応策など出てきよ
うがない。普遍性や絶対正義なんて言葉は迂闊に使ってはならない
なのだが、政治家にとっては実に麻薬のような魅力を秘
めた言葉なのだ。民衆を扇動するにはうってつけのツー
ルなのだ。
こんなこと言ってもしようのない話かもしれないが、
遍く清く正しいなど、たかだか人間どもの世界から発信
できる符号であるはずがない。
にもかかわらず、そんなしようもない寓話によって綴ら
れていくのが、僕たちが歴史と言っているものに他なら
ない。
そして普遍の仮面を被ったエゴイズムは、敗戦という
未曽有の悲劇を蒙ろうとも、いまだ誰一人として責任
を負うことを頑なに拒否する。そしてまたもや同じ轍
を踏むことを潔しとしている。、
なのだが、政治家にとっては実に麻薬のような魅力を秘
めた言葉なのだ。民衆を扇動するにはうってつけのツー
ルなのだ。
こんなこと言ってもしようのない話かもしれないが、
遍く清く正しいなど、たかだか人間どもの世界から発信
できる符号であるはずがない。
にもかかわらず、そんなしようもない寓話によって綴ら
れていくのが、僕たちが歴史と言っているものに他なら
ない。
そして普遍の仮面を被ったエゴイズムは、敗戦という
未曽有の悲劇を蒙ろうとも、いまだ誰一人として責任
を負うことを頑なに拒否する。そしてまたもや同じ轍
を踏むことを潔しとしている。、
2021年12月08日
歴史の”イフ”

歴史の”イフ”
歴史に”IF”はない、
なんて誰が言ったのだろう?そりゃ決まってる、
うたかたのようなこの人生の勝者たち、ホンの僅かのね。
彼らの手前勝手な理屈を紙に書いて、印刷して、ばらま
いて、可視化して、宣伝して、教育して、強制して、、、
かくして歴史は作られてゆく。
紙幣には偽造罪があるが、歴史書にはない。だからして、
歴史書なんて大抵狐の葉っぱみたようなもんか。
無論学校ではそんなこと教えるはずもないし、法律とき
たら、時として共犯者にもなる。
歴史の”IF”の中にこそ、真実があり、学ぶべき貴重な教
訓があり、圧倒的大多数の苦悩や喜びや、足が地に着い
たカルチュアがあり、生身の声がある。
そんな隠れた広大なる世界に耳を傾けない限り、歴史は
性懲りも無く同じ過ちを繰り返すばかりだろう。
また僕たちひとりひとりの歴史にしても”IF”の中に埋もれ
てしまうだろう。そのこと自体は痛くもかゆくもないが、
大衆として一塊にされ、捏造されたドラマの観客にされ
あるいは引き立て役にされるのは真っ平御免だ。
第一そんなのは、天に向かって唾するようなもんではな
いか。
天は一人の英雄なんかつくらない。主役と脇役も作らない。
生きとし生けるものひとりひとりがかけがえのない主役
であり、時に善人であり、時に悪人である、代役のきか
ない存在なのだろうな。
2021年08月25日
現代ニッポンの尊王攘夷

現代ニッポンの尊王攘夷
高校時代、日本史の勉強はとてもオモシロかったが、
幕末維新のあたりでハタと戸惑ってしまった。
「尊王攘夷」という言葉。その意味あいが腑に落ちな
いことには、幕末維新は理解できないらしい。
しかしどうひっくり返してもわからないものはわから
ない。どうして国交と通商を求めてきただけの白人た
ちを、”毛唐”と問答無用で毛嫌いしなければならなか
ったのか?
日本列島は本来、東風に吹かれてやってきた大陸文明
を懐深く深く受け入れる”溜まり”になっていたはずだ
った。それが日本という民族の歴史を刻んできたと言
ってもいい。それがなぜ?
鎖国、、、とは言っても長崎では長年オランダとの通
商が盛んに行われていた。そして長崎奉行は幕府の直
轄だった。それが米国大統領の和親を求める親書を携
えて江戸湾に入港した(いうことをきかなきゃ大砲ぶ
っ放すぞといったわけじゃない)といって、あれほど
過敏に騒ぎ立てたのか?
だが、よくよく考えてみればなんてことはないし、わ
からないのが当然だった。なぜかといえば、
「尊皇攘夷」をいっぱしの思想であるかのように勘違い
していたのが混乱の原因だった。わからなくて当たり前
だったのだ。つまりどういうことかというと、
「尊皇攘夷」とは思想なんかではなかった。それどころ
かおよそ思想を持たない盲従の徒党を生むための仕掛け
にすぎなかった。
仕掛け人は言うまでもなく無能を形にしたような人物た
ちだった
そのためになら、理屈抜きで喜んで命を捨てさせる、邪
魔者は片っ端から粛清していく。そんなテロリストたち
を量産してやまなかった。
反知性主義でも反主知主義でもない。いつの間にか血が
血を呼ぶ状況が思考を奪ってしまった。
そんな攘夷が尊王と結びついた「天誅」が吹き荒れたの
がこの時代の大きな側面をなしていた。
そう考えれば、今まで頭を抱えていたのが嘘のように
あらゆる出来事がスッキリとのみ込める。
有為かつ非凡な人材であればあるほど邪魔だった。立身
しか脳裏にない平凡な輩の、それが習性である、いつの
時代もだが、、、。そして多くの人材に情け無用の天誅
が下され、結局は山縣有朋や伊藤博文なんかが明治の
元勲となったわけだ。
僕たちは世界史に類例のない平和な改革というプロパガ
ンダに惑わされ続けてきた。
丸山眞男は、、、、
命令を下す人が責任を取らず次々と下に向けて責めを転
嫁し戦争に突き進んだ日本社会を「抑圧移譲」の「無責任
体制」と呼んだ。そういう風土を生んでしまったのは、
実に尊王攘夷であり、戦後七十六年の今となって、それ
は周知のごとく目も当てられない惨状をさらけ出している。
高校時代、日本史の勉強はとてもオモシロかったが、
幕末維新のあたりでハタと戸惑ってしまった。
「尊王攘夷」という言葉。その意味あいが腑に落ちな
いことには、幕末維新は理解できないらしい。
しかしどうひっくり返してもわからないものはわから
ない。どうして国交と通商を求めてきただけの白人た
ちを、”毛唐”と問答無用で毛嫌いしなければならなか
ったのか?
日本列島は本来、東風に吹かれてやってきた大陸文明
を懐深く深く受け入れる”溜まり”になっていたはずだ
った。それが日本という民族の歴史を刻んできたと言
ってもいい。それがなぜ?
鎖国、、、とは言っても長崎では長年オランダとの通
商が盛んに行われていた。そして長崎奉行は幕府の直
轄だった。それが米国大統領の和親を求める親書を携
えて江戸湾に入港した(いうことをきかなきゃ大砲ぶ
っ放すぞといったわけじゃない)といって、あれほど
過敏に騒ぎ立てたのか?
だが、よくよく考えてみればなんてことはないし、わ
からないのが当然だった。なぜかといえば、
「尊皇攘夷」をいっぱしの思想であるかのように勘違い
していたのが混乱の原因だった。わからなくて当たり前
だったのだ。つまりどういうことかというと、
「尊皇攘夷」とは思想なんかではなかった。それどころ
かおよそ思想を持たない盲従の徒党を生むための仕掛け
にすぎなかった。
仕掛け人は言うまでもなく無能を形にしたような人物た
ちだった
そのためになら、理屈抜きで喜んで命を捨てさせる、邪
魔者は片っ端から粛清していく。そんなテロリストたち
を量産してやまなかった。
反知性主義でも反主知主義でもない。いつの間にか血が
血を呼ぶ状況が思考を奪ってしまった。
そんな攘夷が尊王と結びついた「天誅」が吹き荒れたの
がこの時代の大きな側面をなしていた。
そう考えれば、今まで頭を抱えていたのが嘘のように
あらゆる出来事がスッキリとのみ込める。
有為かつ非凡な人材であればあるほど邪魔だった。立身
しか脳裏にない平凡な輩の、それが習性である、いつの
時代もだが、、、。そして多くの人材に情け無用の天誅
が下され、結局は山縣有朋や伊藤博文なんかが明治の
元勲となったわけだ。
僕たちは世界史に類例のない平和な改革というプロパガ
ンダに惑わされ続けてきた。
丸山眞男は、、、、
命令を下す人が責任を取らず次々と下に向けて責めを転
嫁し戦争に突き進んだ日本社会を「抑圧移譲」の「無責任
体制」と呼んだ。そういう風土を生んでしまったのは、
実に尊王攘夷であり、戦後七十六年の今となって、それ
は周知のごとく目も当てられない惨状をさらけ出している。
2021年06月15日
全ての禍根は小欲ににあり

全ての禍根は小欲にあり
石原莞爾はどうやら少しは分かっていたと見える。
満州国建国(や日韓併合他も)の件。
どんなに美辞麗句を並べ立てたとしても植民地は
植民地だし、傀儡は傀儡なんだと、
被害者から、あるいは客観的な国際社会から見ると、
西洋列強の物まね。(大日本主義)
考えあぐねたあげく苦し紛れにほざいたのが
「アジア近代化のためのナポレオンになればいい」
さらに付け加えたのが
「五族協和という以上日本人も国籍を捨てるべきだ」
これは中々正鵠を射てないではないが、
それでも植民地はどう言いつくろうと植民地だった
わけだ。小日本主義を説き続けた石橋湛山はそれを見
抜いていた。
そこでなにが問題なのか?湛山と莞爾の違いは?
メタファー(隠喩)・・・
あるもので別のものを暗示する。
文学と精神の核心にして、人間の言語習得以前の
認知活動の根源。
なんか小難しいけど、要は頭でっかちで、感情に瑕疵
があると、ものごとを大所高所から見れない
・・・・ということ。
帝国軍人は幼年学校から文学や哲学などと親しむのを
固く禁じていたので、いびつな頭でっかちになってし
まった。勝てるはずのミッドウエーもそれで惨敗した。
戦後の日本教育にはその反省が全くと言っていいほ
ど生かれていない、というか同じ轍を踏んでいる。
いや偏差値(のみ)で子どもたちを評価するのは愚の
骨頂というしかない。そういう意味ではもっと悪い。
しかもカリキュラムから文系を除外しようとしている。
何をかいわんや。湯川秀樹を育てたのは何であったか?
古典文学であったとご本人が述懐している。
石橋は朝鮮、台湾、中国、満州、シベリア、樺太などの
一切を捨てよ、
「我が国のすべての禍根は、小欲に囚われていることだ」
と説いた。
その言葉をそっくりそのまま、現代日本のオーソリティ
や教師や親たちに捧げたい。
今のままではどんなに優秀な子でもせいぜい石原莞爾
どまりだろう。
*
*
(参考)
日本は言論史の上からは、第1次世界大戦後の国際協調路線の下で、いわゆる
民主主義的な言論や評論、それに小説などが流行となった。
日本社会にルネサンスともいうべき状況が生まれたと言ってもよかったのである。
こういう言論がなぜ育たなかったのか、それが重要なテーマでもあった。
日本社会にそのような民主的な意識が十分に育つ土壌がなかったということに
なるだろうか。
政治家や言論人らで、これからの人類史は戦争ではない、軍備を縮小すべきだと
の論を主張するわずかの人物がそのような勉強会をつくったりした。
中心になったのは政治家の尾崎行雄、言論界では石橋湛山、それに吉野作造らだ
ったのである。彼らは軍備縮小による世界平和を説くことになるのだが、そう簡
単には世論に受け入れられなかった。ベルサイユ条約による講和会議のひとまずの
戦争終結とは別に、1921(大正10)年にアメリカは日本、イギリス、フランス、
イタリアの有力4カ国に対して、軍備の制限などを論じるワシントン会議の開催を
呼びかけた。
その後、アメリカは中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルにも呼びかけたので、
都合9カ国で世界での軍備制限、縮小が討議されることになった。
アメリカは1920年代の国際社会の進行役であった。ただし国内には国際社会で主
導的立場に立つことを嫌う空気があった。いわばモンロー主義の色合いが強く、
国際連盟もウィルソン大統領の発案なのに、実際に成立するとアメリカは入らないと
いうほどの徹底ぶりであった。他国の戦争に関わるのは勘弁してほしいというのが
国民の声でもあったのだ。
ワシントン会議に日本は、加藤友三郎海軍大臣を代表にして、幣原喜重郎駐米大使と
徳川家達貴族院議長らを団員にして会議に臨んだ。
このワシントンの会議の折、あるいは会議と前後しながら、石橋湛山は自らの書いて
いる東洋経済新報の「社説」などで歴史的な内容の持論を明らかにしていたのである。
それが「一切を捨つるの覚悟」であり、「大日本主義の幻想」であった。こうした社
説は、単に歴史に残るというだけではなく、私の理解になるのだが、「近代日本の
五大言論」という枠組みがあり、石橋の社説はその中に十分に数えることができる。
石橋は朝鮮、台湾、中国、満州、シベリア、樺太などの一切を捨てよ、
「我が国のすべての禍根は、小欲に囚われていることだ」と説くのである。
2021年04月12日
日本の本質を問う② 、山河破れて国もなし

日本の本質を問う②
、、、山河破れて国もなし
肥後の西郷といわれたのが、池辺吉十郎で、
千三百名の肥後党を引き連れて西郷軍に合流した。
だが西郷軍は、西南の役の関ヶ原と呼ばれた玉名
は高瀬の激戦で大打撃を受け、その後は敗走に次
ぐ敗走となる。
江藤淳が注目したのが、その敗走の様子である。
誰一人として脱落者が出なかった。
西郷や池辺らとともに最後の最後まで生死を共にし
た。戦史としては異例中の異例ともいえる。
`
それは多分、勝敗を超えたやむにやまれぬ行動だか
らではなかったかと思われる。
一命を賭して、大河のごとき維新という時代の潮流
に抗った、、、、というより、
決起によって、茫漠となりつつある日本人的なるも
のの覚醒を促したのではないか。
たとえ自分たちの命は戦場や刑場の露と消えても、
必ずや思いを継ぐものが出てくる。
藤村の父親をモデルにした「夜明け前」の主人公、
青山半蔵が絶望の末に狂死する結末がここでどうし
ても交錯してくる。
`
さて、西郷や池辺が目指したのは、
”第二の維新”
であった。
その”第二の維新”とは何であったのか?
それはまた確かに、現代の私たちが直面している大
きな時代のテーマに地下水路でつながっている。
池辺吉十郎の長男である池辺三山(のち朝日新聞の
主筆となった)が奇しくもその真意を、雑誌「経世
評論」の創刊号にて鮮やかに描いて見せた。
「我が兄弟姉妹の純質粋性なる脳中に存在せる我に
楽しき生活を与えたる日本国、我が愛すべき日本国」
`
我々が目指すべき「国家」とは、このような日本人
同胞の生き生きとした青草のようなあり方を押し込
めるような、無味乾燥の全体主義的、帝国主義的な
構造物であってはならない。
また、西洋列強と対峙し、西洋文明にキャッチアップ
するだけの外発的なものに終始してはならない。
長い民族史を破壊し尽くした廃墟の上に築くものであ
ってもならない。そこには精神的なバックボーンのな
い未来が待っているばかりである。
`
そして結局のところ、それは七十余年前の敗戦となり
終戦後の惨憺たる焦土となって可視化された。
維新のあと、わずか三十数年かそこらで西洋文明と
比肩すべき近代国家となり、また戦後二十年かそこら
で経済大国となった。
それをもって東洋の奇跡と呼ぶものは多いが、所詮は
西郷どんや池辺親子が恐れ、藤村が警鐘をならした
サル真似でしか、イエローモンキーでしかなかった。
前の敗戦は、国破れて山河あり、であったが、今僕た
ちが直面しつつある第二の敗戦は、山河破れて国もなし
になるかもしれない。
夏目漱石や南方熊楠の炯眼はまさしくそのような僕たち
の現在を見つめていた。
2021年04月11日
日本の本質を問う①

日本の本質を問う①
しかし、島崎藤村がしたことはそうではなかった。
「夜明け前」全編を通して、日本人のすべての
源流を問うた。その源流がはたして日本が必要とした
歴史の本質だったのかを問うた。
つまり、「王政復古」とは何なのかということだ。
「夜明け前」の連載が始まったのが昭和四年、
金融恐慌につづいて満州事件がおき、すなわち日本が
大混乱に突入していった年である。
そういうときに、彼は問いかけたのだった、
「王政復古」とは何であったのかと。
`
ある人にいわれたことがある。
「正義は難しい。正しいならあるかもしれないが」
そういえば、故江藤淳氏は遺作に選んだ「南洲残影」
でこんなことを書いた。
「真の歴史は単なる勝利者の記録、あるいは”正義”の
実現の記録でもない。実現されなかったものの記録
である」
西郷隆盛は靖国神社に祀られていない。政府の反逆者
だからである。思えば維新も時の政府への反逆だった
筈だが、、、。
伊藤博文風情がお札となり、西郷どんは多分永久に
お札となることはない。それは維新という「正義の歴
史」を否定するになるからだ。
`
しかし、西南の役は西洋という普遍=明治政府へのレ
ジスタンスだった。西郷どんは、なにをもって生き、
なにをもって死んだのか?
王政復古は維新ののちに、歪みきった。
ただの西欧主義だった。
それが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張した
ように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。
しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政
復古」を唱えていたわけである。
何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見
捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題
への正面きっての受容だった。
(②へ続く)
2021年02月24日
『搾取』はいつから始まったか?

『搾取』はいつから始まったか?
教育学博士の若狭和朋氏は高校時代、日本史の教師に江
戸時代では、武士が農民や町民から搾取したと教えられ
たそうです。
普通、”五公五民”などと言われていますが、土地所有権
が自体が曖昧でしたし、納税は村請制度で、領主は干渉
できなかったし、徳川になってすぐ新田開発で田畑が倍
増し、その開発分も洪水の心配のない中山間地であった
しで、全く当てにならないものでした。
それに農民以外の商人や職人は無税でした。不動産取得
税も、印紙税も、もちろん消費税などナシ。
そんなもん取ったりしたら、それこそ反乱が起きかねな
かった。
、、、ってなことで、こういうやり取りが
、生徒だった若狭氏と歴史の先生の間にあったらしい。
`
先生「搾取により百姓は米は満足に食べれなかった・・・」
若狭氏「誰が食べたのですか?」
先生 「支配階級の武士や大名だ」
若狭氏「何パーセントぐらいいたのですか?武士たちは」
先生 「6%くらいかな・・・」
若狭氏「? 武士や大名の胃袋は大丈夫でしたか」
先生 「なにを?」
若狭氏「米は食べ物だから、酒や酢になる分を引いても、
結局は食べるしかないでしょう」
先生 「理屈を言うな・・・」
`
江戸時代には、今でいう「搾取」はなかった。
武士は誇り高かったが故に質素だったし、陪臣などの
侍は町人より貧乏で、武士は食わねど高楊枝だった。
それに、職掌はあったが、後年言われているようなひど
い身分差別や階層はなかった。
僕の妻のご先祖は細川藩の槍術指南だったらしいが、
宮仕えは窮屈だと言って、焼き物の窯元になった。
そんな話は掃いて捨てるほどある。
士農工商はなく、あるのは武士と百姓。で、百姓とは農
民のことでなく、色々な苗字の意味で、武士以外の人を
いった。士農工商の違いは流動的だったのだ。
そんなこんなをなにというか、江戸文化という。
”文化”だったから、270年続いた。
そうでなくなった明治以降を文明(開化)という。
南方熊楠、西郷隆盛その他大勢が「文明」に反対だった。
「搾取」は、西洋のシステムが輸入された文明開化以降
に始まったのだ。
そして今もって続いている、あの手この手で。
「江戸」は、新政府によって「搾取」のスケープゴートに
されたわけだ。
2021年01月02日
麗しき”フローリン金貨”

麗しき”フローリン金貨”
「富」の正体である、麗しき”フローリン金貨”は、
ルネッサンス、フィレンツェで誕生した。
そして五世紀後の今、醜悪な姿と化し、サイバー空
間で劇薬ゲームを演じきったマネーは臨終を迎えん
としている。
ルピーの新札切り替えで、インド社会は突如として
混迷のブラックホールへ吸い込まれた。
マネーフローが掴めなくなった(行方不明)から。
いや、行方知れずになったのはマネーじゃなくて、
きっとヒトのココロだったのだろう。
ニッポン(もう日本じゃない、大和しうるわしじ
ゃない)ではどうも元首相の縁故関係でカジノ法案
なるものが(どさくさ紛れで)成立した。
マネー&カネーとは?偶然の一致だったのかカネー。
金銀財宝は社会の血液でしかないといったのは確か、
F.ケネーだった。そして世の中が脳血栓になった
`
麗しき”フローリン金貨”は偉大なる文芸復興を支え
たが、そのなかでひとりダンテは、それは呪われた
花(フローリン)になるだろうと予見した。
その啓示のなかで、世界はのたうち回っているかの
ように見える。
天は人に無限の富を与えなかったということをあな
たは知っているだろうか?天は人に二物を与えずで
はなく、物を与えなかった。生きるのに必要なもの
以上の、蓄えるだけの物を与えなかった、
万物は無に帰すべきものなのだ。
”麗わしのフローリン金貨”を練金し、世界一の富貴
となったメディチ家のコジモは、晩年になってその
ことにハタと気付いた。
「富とは有限の位置エネルギーである」と・・・
富は手放してこその富貴なのだ、そして、
ダ・ビンチがラファエロがミケランジェロが生まれた。
`
マネーは核分裂であり、ペスト、コレラ、ラッサ熱
であり、そして、、、コロナ。
試されているのは自然の一部たる自分であり、ヒト
のココロのあり方。
ココロは宇宙であり、宇宙の歪みはココロの歪み
、、、といったのは誰だったかな?