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2025年03月09日

考えることについて考える(SINN) ・・・バカの壁

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考えることについて考える(SINN)
・・・バカの壁
人間は考える葦である、、、と考えたのはパスカルですが、
マルクス・ガブリエルという人は、その考えるという意味
そのものについて考えました。時代の要請みたいなものな
のかな?だって考えれば考えるほど(考える葦)世の中が
おかしくなってきたのですから。チンプンカンプンになっ
てきた。
人間が生きていくための”意味”とは何かといえば、いうま
でもなく”よりよく生きる”ということにほかなりません。
しかしどうも人間は考える葦になることによって、よりよ
く生きることから見放されたような気がします。
そこで彼は考えました。思考(考える)というのも視聴覚
のような感覚ではないかと。もしそうであれば、他者と共
有できるものでなければ意味がなくなります(独りよがり
?)。つまりはよりよく生きることができなくなります。
そう言われてみれば、ハッとするようなことが確かに今まで
たくさんあったような気がします。たとえば言い合いをし
て、お互いの理解が深まるより、逆に溝が深まる。場合
によってはそんな溝をずっと引きずってしまうことになる。
そうなれば世の中にとって大きな減点となります。
養老孟司さんも「バカの壁」でこう言ってます。
「”話せばわかる”なんて大ウソ! イタズラ小僧と父親、イス
ラム原理主義者と米国、若者と老人。互いに話が通じない
のは、そこに”バカの壁”が立ちはだかっているからである。
いつの間にか私たちを囲む様々な”壁”。それを知ることで
世界の見方が分かってくる。」
トランプとゼレンスキーの間に立ちはだかっているのもバカ
の壁?
核抑止論なんてのになると人類史上最強のバカの壁?
思考とはバカの壁でもあるのでしょう。、いやマジで。
‎1人、スローロリス、ダッフルコート、‎、「‎考えることを考 を考える 思考のメカニズムについて こついて ام‎」というテキスト‎‎の画像のようです
すべてのリアクション:
末永節男






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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 10:01Comments(0)人生観アカデミー

2025年02月17日

理念なき国家&時代 (仁義なき戦い)

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理念なき国家&時代
(仁義なき戦い)




理念なき国家は衰退する。衰退する国家は理念を捨てる。
トランプ政権の米国は後者であろう。前者の代表格は日本
なのかな?では、理念なき時代とは?
市場経済の終末を前にして、なりふり構わぬ仁義なき戦いの
幕が切って落とされたということか。生き残りの戦いとい
うより、どちらがより息が続くかということで、欲も得もな
い泥沼の戦い。
そもそも”理念”というフレーズ自体が限りなく怪しかった。
リベラルかコミュニズム寄りかという二択の”理念”でしか
なく、よって、経済という分母である理念自体が俎上に乗る
ことはついぞなかった。さて・・・・・
経済人類学者のジェイソン・ヒッケルによれば、
「資本主義は自然や身体をモノと見なして”外部化”し、搾取
することで成立している、”ニーズを満たさないことを目的と
したシステム”である」という。
モノさえあれば、バラ色の世の中と人生が約束されるという
幻想に取り憑かれたのが今までの時代だった。GDPによって
私たちの幸福度が計られた。笑顔のない架空の幸福を私たち
は公私が一つになって遮二無二目指してきた。
しかし自分の幸福しか頭にない幸福なんてあるはずがない。
幸福とは共有するものであり、分かち合うものだという当た
り前のことから私たちの目を逸らしたのが経済万能の理念だ
った。そう僕は思うし、他の人たちだってなんとなく。
いや、欧米諸国以外の人たちにはそこはかとない違和感が
あったはずだ。モノが我が物顔で闊歩する世の中なんておか
しいだろう、って。
なぜなら欧米以外の人々(特に日本人)の世界観は全体論的
であり、たとえば、仏様は私たちの心の中にあり、その心の
中の仏様に近づくことこそが生きる目的であり、至福につな
がると考える。のみならず、その仏さまは森羅万象のなかに
眠っている、と考える。であるからどんな理由をつけようと
やたらな真似はできない。誰に対しても何に対しても。
それに対し、欧米の人々は二元論的な世界観を持っており、
創造主の神と、その神によって創造された人間とは全く別の
ものであり、のみならず、人間と人間以外の森羅万象を同じ
次元にあるものとは決して考えない。外界のものは人間にな
れないし、人間は神にはなれない。近づくことさえできない。
デカルト以来、精神と物体(自然)を別のものと捉え(物心
二元論)、さらにニュートンの万有引力の法則は身体や外界
の一切を数量化できると考えた。というのが近代経済の理論
的な基盤となったのである。
そういう理論的基盤から派生したイデオロギーにすぎないリ
ベラリズムという思想をあえて捨て去ろうとしているのがト
ランプ政権下の米国というわけである。しかし、経済という
理念そのものを見直さない限りはどうにもならないという発
想は絶対に出てきようがない。だとすると、理念にこだわる
国民と、こだわらない国民によって第二の内戦が起こる可能
性だってありうるだろう。二元論は戦いでしか決着をつける
ことができない。
では私たちの国日本はどうなのかというと、、、、
維新以来欧米的価値観を無反省に猿真似したばかりに、非欧
諸国からは黄色いサルと揶揄されてきた。しかし所詮は猿真
似の付け焼き刃にすぎないから、ヒトがサルに化けただけの
一幕である。だからまだしも救いがある。サル山から降りれ
ばどうにかなる、、かもしれない。アバター(分身)みたいな
ものだから・・・・。
「存在」とは・・・どこで生まれ、誰に誰とともに育てられ
たか、さらにその誰は誰にどこで育てられたか。それがあな
たをあなたとして存在させているし、長い物語のエピローグ
であり、同時にプロローグである。あなたがどう思おうと、
良くも悪しくも物語はあなたを通過点として後々まで続いてい
く、多分永遠に、、、、。それが存在するということの意味なの
だと思う。文化といってもいいかもしれない。
あなたや僕が今サルに見えたとしても、私たちの存在はサルで
はない。そのことを肝に銘じて未来に向かおうではないか。




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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 06:53Comments(0)社会問題アカデミー

2025年02月06日

逆さま・ニューノーマル

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逆さま・ニューノーマル  




死に直面すると、通常生きていく上で不必要だった感覚が
扉を開く。
一つの時代が終わろうとする時、それまでの時代には不必
要だった感覚の扉が開いた人たちを「ニューノーマル(新し
い常態)」というらしい。
それは今までの世の中ではアブノーマル(変態)というとっ
ておきの悪口であった事実をどうかお忘れなきよう。
それに対し、死に直面しようとしている事実があるのに潔
く向き合おうとしない頑迷固陋な人たちを「オールドノーマ
ル」という。
それはこれからの世の中ではアブノーマルというとっておき
の悪口になるだろうということをお忘れなきよう。
オーソリティの言うことなすことが、ことごとくピントハ
ズレになってるなあ、、、なんて思ってたらそういうことだっ
た。一つ念を押しておきたいのは、”ニューノーマル”ではオー
ソリテイーなんて人種も不必要になるだろうということ。
大体が「権威筋が言うには、、、」なんていう説明の仕方がお
かしかったのだ。”権威”もオールドノーマルになるのだろう。
さてと、、、逆さまになるという点においては、市場経済も例
外ではない。
第二次産業(製造)は剰余価値(労働からの搾取)という不
平等を前提にしていたのだが、第三次産業にシフトしていき
剰余価値部分がなくなるにつれ、すべての人間が平等でなけ
れば成り立たなくなっている(逆転現象)。売る人=買う人
であり、売る人≠買う人ではない。
にもかかわらず、第三次産業が利益を上げるためには、、、、
売る人≠買う人でなければいけない。売ると買うの間に差額
が出なければならない。
だが、そもそも第三次産業とは、売る人と買う人が一体とい
うことであって、売る人が利益を上げれば上げるほど、買う
人はいなくなり、いつか行き詰まる。だから第三次を産業と
いうこと自体が間違っている。
モノが溢れて飽和状態に近づけば当然ながら消費は鈍化して
いかざるをえない。この二律背反が昨今の天井知らずの物価
上昇の背景にあるのだが、この問題に触れようとするオーソ
リティーはいない。物価上昇について、いろんな問題点をか
き集めているが、やがてそれでは間に合わなくなるだろう。
そんな類の問題ではないのだから。
かくして天地がひっくり返るようにしてニューノーマルの時代
がやってくる。マネーはいくら投資しても見返りがなくなる
から金利はゼロからマイナスになり、一万円札はただの紙切
れという本来の姿に戻る。紙切れになればお金持ちはいなく
なり、交換経済(等価交換)、貨幣経済は成り立たなくなり、
頭を切り替えないかぎり、私たちは生存していくことができ
なくなる。
今まで私たちはカネとモノに翻弄され続けてきたが、これか
らは愛情と思いやりがとって変わるしかなくなる。そうやって
本当の意味の生活共同体が復活してくるのだろう。でなけれ
ば、形骸化した社会というパラダイム自体が私たちを食い殺す
ことになるのだろう。


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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 12:43Comments(0)社会問題アカデミー

2024年08月31日

大愚は大賢に通ず

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大愚は大賢に通ず




大愚は大賢に通ず、、、、、、
というのが人間の不可思議千万なところ。
小賢しいというのはどうやらどこまでいっても小賢しく、
頭でばっかり考える。そういう人間ばかりが増えるとど
うなるかというと、今のような世の中になる、、、ような
気がする。
頭がいい悪いといってもたかが知れてる。百点満点でせ
いぜい一点か二点かくらいの差で、知能指数というのは
所詮小賢しさは示せても、大愚や大賢は計れない。
チンパンジーやゴリラは馬鹿だと思ってるかもしれないが、
ゲノムレベルでは99%以上ヒトの頭脳と変わらないこと
が京都大学や外国の大学のケーススタデイの研究で分かっ
ている。
個性は知能指数という線上には乗らない。ゆえに時代の
風潮とは合わない。右に倣えの世の中は個性にとっては肩
身の狭い時代である。そして時代の風潮とは合わないゆえ
に大愚となる。そしてまたこうも言える、時代の風潮とは
合わない大愚ゆえに時代の風潮を変える力ともなる。
個性とは自分らしくあろうとする志向であり、ゆえにやが
ては己を知る、ということにもつながってくる。己を知る
とは畢竟人間とは何かを知ることだろう。
大賢(大愚)は時代を追わない、時代が大賢(大愚)を求
める。そのとき時代は変わる。人が人となる。時代がモノ
から心の世となる。
この世のあらゆるものは、何かを得ると何かを失う、蓄積
というのは観念がつくった”あやかし”だ、でしかない。そ
の事をフランソワ・ケネーは三百年前に指摘している。
経済物資のなかで価値は農業以外には創れない。全てのも
のは減価する。在るものは速やかになくなる。という事が今、
歴史的現実として実証されつつある、否応なく。
カネだけが蓄積どころか、時とともに増価する。だから金
融資本を核にした世界秩序があらわになろうかという矢先
(たったの一世紀足らず)、もう風前の灯火となった。
ケネーの達見はアダムスミスによって歪曲され、欧米人の時
代が現出した。小賢しさのお手本のような西洋文明はもうす
大賢に通じた大愚によって矯められるだろう。
焦ってはいけない。パラダイムシフトは簡単には起きない。
あなたでダメなら、あなたの子がいて、あなたの子がダメな
ら子の子がいる。それを信じることだろう。
サピエンス革命は・・・・・・・
①私が世界をどう見ているか
②あなたが世界をどう見ているか
③私があなたをどうもいているか
という三つの項が勢揃いしたときに起こる。必ず起こる。
希望は遠く微かな星の光である。月の光ではない。月の光は
消えたり欠けたりするが、星の光は見つめている限り永遠に
そこにある。今、私たちは現代文明という月の光を星の光と
思い違いしているだけなのだろう。




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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 11:40Comments(0)人生観アカデミー

2024年08月24日

古代人vs現代人 (認知革命の虚実)

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古代人vs現代人
(認知革命の虚実)





認知革命の延長線上で農業革命が起き、農業革命(狩猟採
集→農耕)によって所有が生まれ、所有によってヒトは己
の所有物の奴隷になった(家畜化)。
財産を持つことで、財産家は財産の奴隷になり、大金持ち
になることで、大金持ちはお金の奴隷になった。
にもかかわらずその自覚が全くといっていいくらいない。
かって西行が人も羨む地位も名誉も家族すら捨てて遊行の
旅に出たのは、奴隷紛いの人間になどなりたくなかったか
らだろう。
資本家は資本によって世界中の人間を奴隷にしようとして
いるが、その実は誰よりも自分自身が資本の奴隷になって
いる。だからこそ資本によって人類の歴史の幕が上がるど
ころか下されようとしている。たまにそうでもない人間も
いるだろうが、裸一貫になる勇気はない。
数万年前に人類は言葉の修得により、現実にはない虚構を
操るようになり、ホモサピエンスとなった。これを認知革
命と呼ぶが、いうなら、AIのデジタル革命のようなもので、
認知によって作り出した虚構によって自らが欺かれている。
それは、認知というやつが、私とあなたと世界の三項に共
通の理解が生まれたということに過ぎなくて、それ以上で
も以下でもないからなのだろう。その共通の理解なるもの
がどんなものであろうが、世の中がどういうふうになろう
が、知ったこっちゃない、ってことなのかな?
そもそもが、、、字は読めればいいってもんじゃない。読ん
でためになる字と、かえってダメになる字がある。読んだ
分だけ余計な知恵がついてよくないことになることだって
あるのだろう。
認知革命以前の古代人の世界においてはケチこそ最大の侮
辱だったらしい。部族の酋長は一番気前が良くて最も貧し
い人だった。分け与え、贈与する。大切なのは物でなく、
そこに宿る人格だった。
さあて・・・・古代人と現代人ではどちらが賢かったのだ
ろう?軍配が上がる日が近づいているような気がする。


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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 05:56Comments(0)アカデミー歴史

2024年07月27日

時空の果てに

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1人、腕時計、テキストのイラストのようです

時空の果てに




<ヘプタポッドの言葉>

さてと、、、
旧世代の大人たち、特に社会の指導者たちは、たいていあ
る種の思い込みの虜である。こうすればああなるもんだと、
それが知恵であり、年の功だと思っている。そうやって現
実という、厄介で、しばしばナンセンスな奴が次から次へと
絞り出されていく。
しかし考えてみれば、そういう現実がもともとあったって
わけじゃない。とても単線的で、合理的?思考を生み出す
言葉が作り出したものに過ぎない。
ヘプタポッド(7本足の宇宙人)はそういう地球語とは全
く異なる自分たちの言葉を伝えるためにヘンテコな宇宙船
に乗ってやってきた。そのヘプタポッド語によると、
こうすれば、ああなるってわけじゃない。
もしそうだとすれば、アンタたちの惑星はじきなくなるよ。
まずゴールが分かった上で、最適なルートを逆算することだ
ってできるんだ。ちょうど光が水の中で屈折するように、地
球の未来は直線で未来につながっているわけじゃない。
この世で一番良いことは、上から読んでも下から読んでも、
前から読んでも後ろから読んでも、同じ言葉でできている。
「まさか逆さま」とか・・・・・。
ぐるぐる回ってるといってもいい。車は一直線上に走ってる
ようだが、実のところは地球の上をぐるぐる回っているだけ
だ。脳みそも回転してる限りは行き止まりはない。進歩なん
てのは脳みそが決めることじゃないのに、無理矢理に決めよ
うとするから世の中が日本脳炎みたいになってしまった。

<時間ってなあに?>

”この世で一番良いことは、上から読んでも下から読んでも、
前から読んでも後ろから読んでも、同じ言葉でできている”。
、、、っていうのは時間についても同じようなもんで、地球の未
来は暦の上で一直線に未来につながってるわけじゃない。
もし「時間」が過去から現在未来へと続く線路のようなものし
て、あなたと無関係に存在すると仮定してみよう。それなら、
いままで述べたように、少なくとも過去の出来事を想起する
のは可能だろう。
しかし残念ながら、時間の前後関係ではなく、差異の関係と
して蘇える。Aという出来事はうんと昔のことなのに、昨日の
事のように鮮明に浮かんでくる。しかしBという出来事はつ
い先日の事なのに靄の中。そんなことがしょっちゅう起きる。
それははじめに客観な暦のようなものが、あなたの知識と無
関係にあったから、ではないからだろう。それはコンピュー
ターのメモリのように、時間とはランダムな関係で、あくまで
差異としてインプットし、保存される。
だから、記憶はメモリの差異にしたがって、大脳辺縁系の主
に海馬などの貯蔵庫から、キーワードやその周辺環境のデー
タをきっかけにして、よみがえる。そして、暦などの時系列関
係は前か後かを明確にする必要があるときに、前もって意識
がつくりだしたものなのだろう。

<レンマ的知性>

「時間」とくれば「空間」。時空とはなんであるのか。それは
歴史とは?とか、私たちの生死とは?という問いにつながっ
ていくのかもしれない。
二十一世紀は新しい経済のあり方なんぞが問題なのではない。
だって私たちは今新しい時空という扉の前に佇んでいるのだから、、、。そこでである、
レンマ的という知性のあり方。
顕微鏡で粘菌という極小の世界に入り込むとき、南方熊楠と
いう人は同時に大宇宙という極大の世界を見ていた。
「小即大」「大即小」。
この時、能率的に時間を測れる時計はもはや役に立たない。
そこには「今この瞬間」しかないのだからだ。そこには過去
も未来も全てが含まれている。
この時の脳は「一時に多方に一斉に」働く。この作用……言わ
ば、直観的に一気に掴み取るのを「レンマ」的知性という。
あるいは、熊楠の言う「tact」もこれに当てはまると思う。
彼は「tact」を何と訳して良いか分からないと嘆いている。
一応、それは一般的に
「臨機応変の才、適否を見極める鋭い感覚、美的センス」
などとされているが、もはや時間の矢を無化したそれは、順
序立てて表現するロゴスを超えているものなので、そもそも説
明的言語だけでは語れないものなのである。
長い間生きてると、八方塞がりという窮地に陥ることだって
ある。そんなとき筋道立てて考えようとすればするほどどん
詰まりになる。そりゃそうだろう、八方塞がりなんだから。
じゃあ、どうすればいいかというと、今までの自分を疑うし
かなくなる。開き直りともいう。尻を捲るともいう。煮るな
り焼くなりどうとでもしやがれ、、、なんて。
そんなときにどうやらレンマ的な知性みたいなものが頭をも
たげ、思いもしなかった展開を見せてくれることがある。
そしてそれは立派な人や正しい人や純粋な人より、どちらか
といえば、どこか変なやつや姑息なやつや世俗にまみれてい
るやつに訪れやすいような気がするからオモロい、一体全体
どうなっているのやらね?



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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 06:22Comments(0)アカデミー

2024年07月21日

ネガテイブ・ケイパビリティ






蔦、テキストの画像のようです


ネガテイブ・ケイパビリティ




赤とか青とか黄とかがあるわけじゃない。だって色っていう
のはグラデーションだから。もし赤、青、黄とかいう言葉が
なかったら色を識別できない。識別できないからといって何
か不都合があるかといえばそうでもない。どうもそう勝手に
思い込んできるだけなのかもしれない。
答えの出ない不確かな状態に耐える力を「ネガテイブ・ケイ
パビリティ」というらしい。この「ネガテイブ・ケイパビリ
ティ」があるのを野生といい、ないのを飼い慣らしといって
もいい。現代の人間はハンパないくらい「ネガテイブ・ケイ
パビリティ」がないから、飼い慣らされて野生を失った生き
物といってもいいだろう。
知識にもホントは赤とか青とか黄色があるわけじゃない。本
来ならグラデーションであるべき知識が無理矢理に赤青黄に
嵌め込まれる。それで安泰な世の中にあるのかというと、こ
れまたトンデモナイ話である。二者択一という、グラデーシ
ョンではありえない単純明快な発想が生まれ、挙げ句の果て
には闘争のための闘争の状態が現れる。
社会契約説では自然状態が闘争のための闘争状態となってい
るようだが、よくよく眺めてみると、むしろ人間の世の中は
自然状態がなくなったために闘争のための闘争状態になった
ような気がしないでもない。その点ではホッブズもロックも
ルソーもミスった。だからデモクラシーの世の中になったら
なったで、かえって、善でなければ悪、味方でなければ敵、
奪う側でなければ奪われる側、優等生でなければ落ちこぼれ、
なんて決めつける悪癖がついた。
そうそう、美人でなければブスというのもあるし。でも、そ
もそも人間の美意識なんて信用できなくて、浮世絵の美女と
現代のファッションモデル風美女もおんなじ美女だし、
地球の表と裏でも全然違うのになぜあえてミスインターナシ
ョナルなのか訳わかんない?どうして女性の数だけ美女がい
ると考えてはいけないんだろう?赤ん坊はみな可愛いし、ワ
ンチャンもそう。虫の類なんか顔なんてあればいい。
とはいえ、人間の脳というものは分かりたがるという習性
(認識のバイパス)を持っているので、仕方がないといえば
それまでであるが、残念ながらそれでは済まない時代がやっ
てきた。
不確実性の時代、、、、、、
VUCA(変動的=Volatile,不確実=Uncertain,複雑=Conplex,
曖昧=Ambiguous)の時代の到来。もう企業もポジテイブな
思考ではやっていけない。どっぷりとネガテイブの中につか
らないとやっていけない。でもネガテイブな大企業なんても
のすごい自己矛盾だからどうなるんだろう?
マンモスはなぜ絶滅したか?気候温暖化で草原が縮小し、人
間による狩猟で絶滅したらしい。詰まるところはどうも歴史
は繰り返すということらしい。大企業も同じ轍を踏んでるよ
うだし。
最後に精神科医で作家である帚木蓬生氏によると、ネガテイ
ブ・ケイパビリティとは、、、
「負の能力、陰性能力、性急に説明や証明を求めず、不確実
さや懐疑の中にいる能力」
ということであり、そういう人がこれからは切に求められる
ということらしい。つまりは今まで世の中から爪弾きされて
いた人が期待される人間像になるってことかな?世の中変わ
れば変わるもんだな。  


Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 20:13Comments(0)社会問題アカデミー

2024年07月10日

人間の条件

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人間の条件





若いときに理想を抱くのは素敵だ。だが大抵挫折する。そ
して老いぼれると、そんなもん青臭いと歯牙にもかけない。
それはなぜか・・・・・
若いときには人生が成熟していないからであり、老いぼれ
て現実しか見えないのは、老いてなお成熟していないから
である。
では「成熟」とは何か・・・・・?
それは他者の痛みが分かるという事だろう。自分以外の者
の痛みを共有できなくして、理想も現実も、自他の幸福も
語れるわけがない。
して”くれた”人に感謝するのは等価交換みたいなものだが、
して”やった”人に、してもらった人がではなく、してやった
人が感謝するのは何といえばいいのだろうか。
たとえば我が子に限りない愛情を注ぐ親の、見返りを一切
求めない行為はなんといえばいいのだろうか?もし親が子
にギブ&テイクで対したら、やがて長じた子も年老いた親
にギブ&テイクで対するだろう。、、、だからではない。その
だからではないものとは一体何なんだろう?見返りが何ひ
とつない、一方通行の愛情だからこそ付与されるその喜び
と幸福感とは一体何なんだろう?子育ての苦労の日々は
まさに黄金の日々なのである。
ギブ&テイクは経済拡大の大前提であり、モノはココロか
ら徹底的に切り離され、そこに接点はない、というよりあ
ってはならないのである。そういう世間の常識に付和雷同
するうちに私たちはだんだんと人間的成熟から見放されて
いったような気がする。親も我が子に無償の愛情を注げな
くなったような気がする。なんらかの条件がそこには見え
隠れしているような気がする。
人にモノを与えるとき、私たちは知らず識らずのうちに相手
を見下ろしている。しかし人を上から見ると相手の心は見
えにくい。だからモノを与えてもどこかで心と心の通じ合
いが遮断される。そして精神は空転を始めてしまう。
モノは心を込めて移動したとき初めて人と人との架け橋と
なるのだろう。今まで私たちは資本主義という井戸の底に閉
じ込められていたような気がする。しかし、もう経済拡大の
時代は終わったというより、したくてもできない。では、そ
の後に何がくるのか、というと人間性の復権であり開放で
あり拡大でなければならないと思われるのである。



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2024年06月02日

自由について

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写真の説明はありません。


自由について




「らい患者であろうが、世界一の大金持ちであろうが、
何の隔たりがあるでしょうか。何にもありません。私
は自由そのものなんです」
・・・長島かずゑ著『一本の木』より。
自由とは何か?全てを失うこと、、、十歳で家族と別れ、
ハンセン病療養所へ。重症のため手指と右足を切断。
そして今九十六歳の女性の至言。もし何も失わなかっ
たら出てこなかった言葉。
「、、、、私は自由そのものなんです」
ということで、改めて、つつしんで問う、自由とは何か?
あなたはそれを知っているや否や????長島さんの自
由とあなたの自由は同じものであるや否や。
「うたかたの夢」とはよくいったもので、夢は時間で測
れない。一夜であろうと何百年であろうと、いや何千年
であろうと夢とはうたかたである。
そして、精神の自由のないヒトの歴史など所詮はうたかた
にすぎない。栄枯盛衰にうつつを抜かすうたかたの夢。
ひょっとして今あなたが謳歌している自由もうたかたの夢
なのかも知れない。その証拠に小石に躓いただけで儚く消
えてしまう。
自由とはクリスマスプレゼントのようなものではない。サ
ンタは空の彼方から降りては来ない。もう一つの宇宙であ
るあなたの心の中から舞い上がってくる。そのためにはう
たかたの夢から目覚めなければならない。長い長い道を
歩き続けてようやく天と地がひっくり返り、目覚めたあな
たの双眸に静かに煌めく自由が映る。
ヒトはいつから自由を見失ったのだろうか。知恵の実の
味を占めてからだろう。食の革命。木の実の種子を土に埋
めれば百倍にもなる。そこからヒトの心は方向を見失い、
迷妄の世界に入り、分かち合うことを忘れ、うたかたの夢
ばかりを見るようになった。モノのためにココロを失って
しまった。自由を手にしたはずが、いつのまにか自由を
失った。
何かを得れば何かを失う。モノの夢の対価はココロの夢だ
ったのだろう。フロイトは”夢は願望の充足である”といった
のだが、モノへの願望が満たされたとき次に見る夢はココロ
への願望なのだろうか。そしてその夢とはいつか覚める夢
なのだろうか?



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2024年05月10日

終極の大計

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終極の大計




円安なんて今に始まったことじゃない。二十一世紀に
突入する前、90年にはもう160円台を記録していたの
を思い出してもらいたい。あれはいい円安でこれは悪
い円安だという言い方もあるが、それからの上がり下
がりは投資家の売ったり買ったりやリストラによる
GDPの上昇などの影響でしかないことに大した違いは
ない。実体経済が30年の間にこんな動きをするはずが
ないから、要するに上辺だけの現象(幻影、手妻)と
言ってもよい。日本の成熟し切った市場を席巻するよ
うな新製品が今更になって生まれるはずもない。たと
え近似の製品が生まれたとしても短命に終わるだけの
おハナシだ。
そんな一連の現象を従来の経済の理屈で説明しようとし
てもできるわけがない。新しい信用の創造とか誰とかの
利益を代表するとかいう問題ともちょっと違うのだろう。
では何が問題なのかというと、まさにその何が問題なの
かという問い自体が問題なのだ。ひょっとすると何もか
もが問題なのかもしれない。腰痛の原因が背骨の歪みみ
たいな。そんな問題自体を問題にするという発想が誰に
もできない。政治家にも官僚にも銀行家にも企業家にも
学者にも、ってより彼ら彼女らだからこそできないとい
う点に問題の難しさがある。
であるとすれば、もうなるようにしかならない、と言っ
てしまえば無責任であるのなら、なるようになっていく。
なるべくしてなる。
そういう突き放した考え方に私たちは馴染めないでいる。
つまりある意味合いでは、人力を超えた世界に足を突っ
込み始めたということなのかもしれないのに。
今までのやり方に問題があるという言い方ではなくて、
今までの社会の構造に問題があったのであり、いかが
わしさがあったという言い方がより正しいのだろう。
働けど働けど我が暮らし・・・ではなく、ジタバタすれ
ばするほど階段から滑り落ち、深みにハマっていった。
そこのところが考えれば考えるほどおかしい。
私たちは大なり小なりハンパな知識を詰め込んでしまっ
たために既成の常識の枠外に一歩もはみ出すことができ
ない。頭を空っぽにすることができない。今あるものを
全てほっぽり出すことができない。だから、なるように
しかならないし、なるようになっていく。どんなに努力
しても空回りするだけ、、、自業自得。
それは他力本願なんて単純なことじゃなく、自力だけで
はどうしようもない世界がずっと広大無辺であるという
ことなのかも。むしろ今まで思いもよらなかった本物の
知恵に目覚めなさいということだろう。私たち一人一人
の足元をしっかりと見直しなさいということだろう。私
たちの人生を無心にかえりみなさいということだろう。
911のNY貿易センタービルの崩壊を見て、ある人が非対
称の世界だと叫んだ。対称性のある世界は安定している
が、安定しているということは同じところをぐるぐる回
っているだけということでもある。酔っ払いや愚痴っぽ
い輩の繰り言は糸車みたいにぐるぐる回る。そういう旧
い安定にウンザリすると、世界に非対称性が忽然と現れ
る。改めて見渡してみれば非対称性だらけの世の中では
ないかな。私たちはみな非対称性の先にある新たな秩序
を求めているのかも。
人間の一生も同じようなもんで、八方塞がりになったとき
には心の中にある貿易センタービルがぶっ壊されなければ
ならない。そうやって、更地になる勇気を持たなければ一
歩も前に進めない。
今私たちは何百年と何千年とかいうレベルではなく、何万
年いや何十万年に一度という大きな岐路に立っているよう
に思えてならない。



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2024年04月08日

鳥は卵の殻から脱け出ようと戦う

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タオルラック、シンクの画像のようです


鳥は卵の殻から脱け出ようと戦う




「何を」考えるか、ではなく「いかに」考えるか、、
の瀬戸際に今の時代はさしかかっているように
思われます。
「何を」で考えるとどうしても常識的になります。
「いかに」考えるということで、そんな常識から自由に
なることができます。
ユダヤ人女性思想家であるハンナ・アーレントはアイヒ
マンの裁判を傍聴して「悪の凡庸さ」を説きました。
アイヒマンに極悪人の烙印を押して済むわけではなく、
ホロコーストの残忍さは人の凡庸さが生み出したものに他
ならないと断じました。立場が違えばあなたもアイヒマン
になったかもしれないと・・・もしあなたが凡庸な人間
であればです。であれば、同じことが繰りかえされる。
それはひきもなおさず、彼女の意見に反発する多くの人間
(旧知の友人たちも含めて)を凡庸と判ずることにつなが
りかねないので、孤立し、ドイツからの亡命を余儀なくさ
れました。そんな勇気が必要な時代が今まさに到来してい
るのであり、精神の自由とは、政治的な圧力から自由であ
ることもさりながら、同時に己の凡庸さからも自由である
ことでもある、と言われているような気がします。
今の私たちの立場をいえば、カゴの中の鳥のように見えま
す。いや、卵の殻の中の鳥のようなものですか。
鳥は卵の殻から抜け出ようと戦う。
鳥の名をアブラクサスという。(ヘッセ作デミアン)
アブラクサスとは選ばれしものを天国に連れて行く存在。
「何を」でなく「いかに」考えるかが、現代にいる私た
ちにとってのアブラクサスに他ならないような気がします。
人間は凡庸である方がラクですから卵の殻の中に閉じこも
ろうと思いがちです。でも、それで心が満たされるかとい
えば決してそうではないでしょう。
卵の殻から自由になったかといえば、またいつの間にか新し
い卵のからに閉じこもろうとするのはひとの性のようなもの
です。失敗や挫折を繰り返し、何度も卵の殻から抜け出して、
初めて鳥は大空を飛ぶことができるのでしょう。
なぜ人は詩を書き絵を描くのか?それは何かが人たちを駆り
立てるから。その何かとは時代であり、世界であり、そして
自分のありかたなのかもしれません。



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2024年03月17日

AIの正体とは?

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1人、子供、テキストの画像のようです

AIの正体とは?




「2045年問題」ってのが盛んに取り沙汰されています。
つまりどういうことかといいますと、AI(人工知能)が
人間にとって変わるのじゃないかってことのようです。
そんなの心配性の方達の取り越し苦労のような気がしま
す。だって、欧米風の近代の文明自体がすでにAI的であっ
て、今私たちの身も心もかなりそんな風潮にどっぷり浸
かっていると思うからです。
そしてそういう傾向に大分赤信号が点滅し始めて、反省や
ら見直しの機運が出始めているような気がします。二十
一世紀は人類史の大転換の時代と言われていますが、ど
うもAIという極端に近代的なものをもってそんな近代の危
機を乗り越えようとする思い違いがあるようにしか見え
ないのです。
「客観性」というと公平という語感が伴うためについ懐が
ゆるくなってしいますが、その客観性が不公平な世の中を
作り出しているのがどうも事実のように思われます。
「客観性」という述語に僕はちょっといかがわしい匂いを
感じ続けていました。いうまでもなく現在は過去の歴史の
積み重ねでできていますが、その過去の歴史というやつが
どうも客観性の塊でしかないような気がしてならないので
す。
客観性は具体的には情報データのすり合わせで導き出され
ます。そして情報万能という思い込みから私たちの世界の
技術、経済、政治などの領域が成り立っているようです。
ただそこには大きな落とし穴が大きな口を開けて待ってい
ました。それは何かというと、生命への真摯なアプローチ
です。意に反してなのか、それとも思惑通りなのかは分か
りませんけど、、、。
Aという人からみえるあなたと、Bという人からみえるあな
たは違います。違って当然なのです。どちらかが正しくて
どちらかが誤っているということは多分ないのでしょう。
そうやって正邪を積み重ねていくと正しいことは段々と針
の先ほどになっていきかねません。
そんな関係性の中に自分を投げ込んで、自分とは何か、自
分という存在とは何か、つまり生命とは何かを、いわば相対
的に問い直すのが「空」の意味だと大乗仏教ではいってい
るような気がします。
人間の物事の理解の仕方には二つっきりしかありません。
AとBは違う、でなければAとBは同じ、の二つです。
客観性は後者からは導き出されても、前者からは絶対に導
き出しえません。それがすなわち生命なるへのアプローチ
の第一歩なのではないかと思われるのです。
客観性によって生命の営みにアプローチするのではなく、
逆に生命の営みから遠ざかっていっているような気がして
なりません。現に技術も、経済も、政治もそのようになっ
てきています。
万事を(森羅万象をも)共通点で括って(分類して)”分か
った”という気分になるのが科学だとも言えます。分かった
というのは分けるというのと同義なのです。僕たちが学校で
習った物事の理解の仕方もそのようになっています。ですか
ら優等生ほど冷たく人を見る目がないということにもなる
のでしょう。
そんな優等生たちが寄ってたかってこね上げたのがAIである
ような気がするのです。



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2024年03月09日

パラドックスの階段


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写真の説明はありません。


パラドックスの階段
Whatever Will Be Will Be





存在とはそこに”ある”もののことではない。そこに”なる”
もののことであり、ならしめているのはただひとえに意
識のわざである。
物質の最小単位である素粒子は普段は姿も形もないが、
電荷同士が引き合ってたまに一瞬膨大なスペースを奇跡的
に発現することがある。つまり私たちの存在とはそんな奇
跡によってできている。
ありとあらゆるモノ、ヒト、地球、宇宙、現象、人生など
などは意識が引き金となって現れる、達磨大師は死んだら
ひたすら何もないと言ったが、生まれる前には何もなかっ
たのだから死んだら何もないのは当たり前の話ではある。
であるとすれば、、、有が無になるように無が有になるこ
とだってあるのかもしれないなどと意識はしょうもないこ
とを考えたりする。
確かにしょうもないことなのではあるが、艱難辛苦の渦中
で逃げ場を失って意識が朦朧となったとき、今まで思いも
しなかった有が突如として発現することがある。
貧が貧でなくなり、苦が苦で、悲が悲でなくなる。そうや
って私なるものは”ある”が”なる”へ、そして新たな”ある”
へと突然変異する体験をすることがある。そういうパラド
ックスに満ち溢れているのも人生、というふうに僕はしょ
うもない考えを持っている。
私なるもの生長とはパラドックスからパラドックスへの階
段をよじ登ることのような気もする。私を世の中に言い換
えても多分いいだろう。ニュートン力学だけでは抑えるこ
とのできない力学があなたのすぐそばにあるかもしれいな
いということは頭の隅っこに入れておいても損はない。
所詮はしょうもないことかもしれないが・・・。
どんなに力を尽くしても一歩も前に進めない時には、パラ
ドックスの階段に足をかけてみるのも一理ではある。
♫ケセラセラ,Whatever Will Be Will Be.♫




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2024年03月07日

AIは無知である

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ハートの画像のようです


AIは無知である



AIは無知である。
文字通り知がないという意味での無知である。
もし知があるというならば、知とは何であるかについ
て知っていなければならない。知のための知などある
はずがない。そういう意味合いからいえばクイズ番組
の模範解答者も無知なのかもしれないのだ。
では、知とは何かといえば、それは生の実践に関わる
真摯な問いでなければならないだろう。したがってみ
んなの意見だから正しいというのは厳密な意味では知
とはいえない。AIはそんな最大公約数の知見の代弁者
にすぎない。
知とはみんなの意見ではなく、私の、またはあなたの
意見でなければならない。一人一人のかけがえのない
試行錯誤の人生から紡ぎ出された紋様みたいなもので
ある。頭でなく心に刻まれた皺である。人の心という
ものの深奥に、未知の世界にアプローチしていく試み
である。万巻の書を紐解いてどうにかなるものでもない。
消しゴムでたやすく消せるような文字の羅列を知と呼
ぶのは人間の否定にもつながりかねないだろう。今の
時代が切望しているのはAIの知ではなく人間の知であ
る。あるいは利としての知ではなく理としての知であ
る。文明の利器の最後の打ち上げ花火のようなものが
AIの知であり、それ以外の何ものでもない。
真円はどんなに精巧な機械でも描けない。職人の熟練
した技でなければ描けない。完全な球体を内蔵するも
のは半永久的に機能し次に繋がっていくが、機械が作
った不完全な球体を内蔵するものはその場限りでしか
ない。
そしてAIはついに芥川賞を選んでしまった(東京都同情
塔)。あれは(幸いに)AIが書かせたという小説でなく、
AI時代が選んだ小説なのだろう。
AIは決して”私は何も知らない”とは言わない。言った時
が運の尽きだからだ。しかし、何もかもを知ったかぶり
の小説など誰が読むものか。入学試験の問題じゃあるま
いし。
芸術がこの先バベルの塔になってしまわなければいいの
だが・・・・。



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2024年03月02日

人間としての自由


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1人、水域の画像のようです


人間としての自由




アートはレベルが上がれば上がるほどシンプルになっ
ていきます。
限りなく単純化される。ゼロに近づくといってもいい。
象徴化されるといってもいい、でしょう。
でなければ、無限なる存在は表現できないからです。
言葉を並べれば並べるほどそこから離れていきます。
そしてヒトは、否、生きとし生けるものは意識しないう
ちに無限なるものを求めているのだと思います。だか
ら寿命なるものに故なく怯えるのでしょう。
俳句とか能はその一つの到達点なのでしょう。あのフラ
ンシス・ジャムですら俳句に出会った時無力感にとらわ
れたほどですから。幾星霜も読み継がれる物語も問わず
語りに永遠なるものを感じさせるからなのでしょう。
それに比べると一般的に諸学というものは元来が単純な
ものでも半ば恣意的に複雑化し、あげく複雑な網の目に
絡めとられて訳がわからなくなります。お喋りな人がそ
のうちに自分でも何をいっているのか分からなくなるよ
うなものでしょう。政治と経済がその典型です。そして
存在からどうしようもなく遊離していきます。
巧緻化されればされるほどコンセプトから遠ざかってい
きます。・・・闇に鴉、雪に鷺。
一つの思案もこの網の目に翻弄されて、あってもなくても
ないようなものへと化けてしまいます。そのうちに一人
一人の人間もあってもなくてもいいようなものへとなって
いくのかもしれません。
今、私たちが直面している真の危機は世の中が網羅的にな
っていくことだと思います。生成AIなどはそれを加速させ
ていくのでしょう。そうなりますと人間はいよいよ人間ら
しさ失っていくことになるでしょう。なぜなら人間の本質
とは部分的で有限的であるからです。
国家なるものができてから戦争が激増し格差が拡大したの
は、国家の運営は、例えば法律がそうであるように網羅的
でなければ成り立たず、その結果として、部分的で有限的
な人間の本質から乖離したからなのだと思われます。部分
的で有限的であるからこそ、そこに個性というものが生ま
れてくるのでしょう。個性という通路によって人と人は柔
軟な形で分かり合えますが、網羅的になると特定の立場や
見解に固執し通路は閉ざされていき、カタチばかりで中身
のない世の中になっていきます。つまり現代とは・・・
左脳偏重=言語=観念=本能的感性との乖離
あるいは・・・・
合理主義=合理の過剰=法律組織の緻密化拡大化=手続至
上主義=手続きによる人間支配。
つまり、人間の自己疎外です。
お互いの個性を受け入れなければ個性というものは成り立ち
ません。個性とは相対的であろうとする根源的欲求に他な
らないのです。
そうやって網羅的な社会は何も生み出せないのに、何もかも
を生み出そうとしているかのように見えます。
最後に・・・・・・・・・・
「松(私)が竹(あなた)にならぬというのは、人間の判断
で、松(私)からいえば、いらぬお世話である。松(私)は
あなたやその他人間の規則や原理で生きているのではない。
こういうのを自由というのである」
               <鈴木大拙>



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2024年02月13日

禍いの科学


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お茶、テキストの画像のようです


禍いの科学




帝のいない国はなかった。帝は常に神と繋がっていた。
国は神話の上に成り立っていた。長い間人々は神を畏
れ敬っていた。しかし、そんなステレオタイプはダーウ
ィンの進化論あたりから崩れ始めた。それを人々は科学
と名付けた。
科学的な合理主義によって人々は神話から、あるいは呪
術の世界から解放された。人類は神によって創造された
のではなく、ゴリラから1%だけ進化してヒトになった。
そうやってヒトは自由を獲得した、、、はずだった。
そうやって初めてヒトはヒトとなった、、、はずだった、
のだが、現実はどうなったかというと、それは新たな神
話の、新たな呪術の始まりでしかなかった。
進化の頂点に君臨し始めるやいなや今度はヒトという
”種”が神になってしまったのだ。地球という生態系の(絶
対的な)支配者、百万に及ぶ生物種の支配者となり、やり
たい放題の暴君となってしまった。
つまり科学はわずか1%の生物的進化をもって人類を神の
玉座に祭りあげてしまった。いや正確には科学が、ではな
く科学者が、であるのだろう。科学とは何であるのかが多
分ヒトにはわかっていない。それはおそらく自然であり、
宇宙であり、あるいは宇宙の果てでであり、生であると同
時に死でもあるのかもしれないし、そうでないかもしれな
い。
忘れてならないのは、科学イコール科学者では断じてない、
ということ。科学は深淵そのものであるのだろうが、科学
者はたかが1%の進化そのものであり、職業という生業であ
り、生臭い人間世界における特定の社会的地位でしかない
ということである。したがって科学者が必ずしも科学的で
あるとは言えないし、ひょっとすると非科学的な科学者だ
っているのかもしれない。
念の為に付言しておくと、以上はあくまで西洋の物語であり
そのほかの文明圏の物語ではない。中国はほんの百年前ま
で帝たちの国であったし、中近東やアフリカ大陸の多く
(ほとんどが遊牧や狩猟の民族、農耕民ではない)にはそも
そも国というもの自体が存在していなかった。植民地時代が
終わったとき、有力な民族の首長たちが西洋人のアドバイス
によってパズルのように分割したものだった。
したがって、西洋以外の国々では科学を核にした物語ではな
い物語があるのだろう。ひょっとするとそこには近代の神話
や呪術に毒されていない人々がいるのかもしれない。
だとすれば、西洋が没落した後の二十一世紀には、私たちの
思いもよらない未来が待ち受けているのかもしれない。



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2024年01月20日

逆説の時代





テキストの画像のようです


逆説の時代




そもそも既成の経済学では今起きているスタグフレーショ
ンがどうすれば収束するかどころか、どういう原因で起き
てるかさえ碌に説明できません。
給与が下がり、失業者が増えるのに、物価は上がる、とい
う悪循環のどこをどう抑えれば止められるのか、全くといっ
ていいくらい処方箋が見つからないというのが現状です。
なぜなのでしょう?それは当然ながら今の経済学、いや
経済のあり方には根本的な欠陥があるからです。にもかか
わらず、現代経済学の大前提になっている諸々を人々は決
して疑うということを知らないか、知らんふりをしている
のです。
目の前に分厚い壁が立ち塞がっているのに、前に進め(発
展)ばかりでは話にならないのに、ナントカの一つ覚えみ
たいになっているようです。
そもそも、その分厚い壁とは何なのでしょうか?そういう
問いを発するべき時が来ています。
その分厚い壁とは自分(あなた)自身に他ならないのだと
思うのです。ですから自分(あなた)自身を変えれば嘘の
ように消えてなくなるし、変えない限り消えてなくならな
いのだと思います。もしどうしても進歩という言葉を使い
たいのなら、そういう場面にこそ取っておくべきなのでし
ょう。
順境についてはいくらでも語れるが、逆境となるとみんな
口をつぐんでしまいます。右往左往するばかりで思考停止に
なってしまいます。ですから怖いのはスタグフレーション
ではなく、そういう条件反射ではないかというのが僕の偽
らざる感想です。
これは経済に限らず今の社会生活の全般においていえます。
たとえば家庭においてもです。親が会社をクビになった、倒
産した、子どもが非行化した、閉じこもりになった、落ちこ
ぼれた、、、その度に途方にくれるばかりで、悪い方に悪い
方に突っ走ってしまう。そして結局は、取り返しのつかない
ハメに自ら陥ってしまいます。なぜなのでしょうか?
それは多分、一人一人が自分のことしか考えていないとそう
なっていくということなのだと思います。エゴで成り立って
いる人間の集合体はそういうことにとても脆いのです。
うまくいっている間は目立たなくても、都合が悪くなればな
るほど一人一人のエゴが表面化して二進も三進もいかないこ
とになります。エゴとエゴを都合よく両立させる処方箋なん
てどこを探してもあるはずがないのです。
大体がデフレやインフレもどうして発生し、どうすれば収束
するかも碌に解明できないのです。ケインズは解決法を示し
ましたが、既成の学説に相反するもであったので屑箱にポ
イ捨てされ、その挙句に破れかぶれで世界大戦という愚行に
走ってしまったのです。
おまけで言えば、財務省の人たちは(東大)法学部出身で、
経済には素人同然で、関心があるのは国の経済状態より、
国庫の財務状態なのです。視野がとても狭いのです。
冷たいヒステリーで、思想を全く理解せず、勉強といえば、
事実学の羅列=パターン知と丸暗記でしかない。成績優秀
者ほど「本質バカ」でしかないのがわが日本の現実ですが
(東大病という精神の病)、「技術知」だけをためこんで
《思想を育てる》ことのできない人間では、生きている意
味・価値に乏しいのだと思います。
パラダイムシフトの時代には、技術知は無力で、思想の力で
しか未来をひらけないでしょう。スタグフレーションを契機
にして経済のあり方を根本的に問い直す時代が来ているよう
な気がします。ですから、スタグフレーションはこの世の終
わりでなく、むしろ始まりだと考えるべきなのです。
まして世は金融資本主義の真っ盛りで、そういう主客転倒の
社会状況がいよいよ問題をわかりにくくしているような気が
します。
そもそもが金融資本主義などと勿体ぶった表現になっていま
すが、それはなんてことはない、言い換えれば金貸し資本主
義以外の何者でもありません。
金貸しといえばどうしても思い出すのが、あのシャイロック
です。鷲鼻の強欲なユダヤ人である、あの人物です。
シェイクスピアの時代(16世紀後半)には金貸し(金融)
ほど忌み嫌われていたものはなく、それがシャイロックとい
う人物像になったのでしょう。そのシャイロックが今の金融
資本主義の元祖、本家本元であることはもう疑う余地のない
事実であると僕は思います。いやいやそれどころか、現代の
シャイロックである銀行や投資家と比べれば400年前のシャ
イロックなんて他愛のないものです。まして金貨が紙幣にと
って代わり、信用創造とやらで架空のおカネを貸しまくって、
利息や配当で巨大化し、世界の支配者然となっているので
すから、何をかいわんやといったところです。
ではどうして金貸しが嫌われたかといえば、何か得体の知れ
ないものだったからなのでしょう。
当時の富といえばどんなものだったのでしょうか?それは、、、、、
田畑や牧場や森や羊の群れや城や村、胡椒や紅茶を満載した
船や葡萄酒で溢れそうな貯蔵庫などなどのことでした。いつ
でも目で見、手で触れ、匂いを嗅ぐことができるものでした。
それは目に見えて手で触れるものでした。
それに対しておカネとはモノでもなく、文字が書かれた一片
の紙切れに過ぎなかったのです。何かの怨霊のようにどこか
らかぬ〜と現われては借金のカタになにもかもをかっさらっ
ていく薄気味悪いものだったわけです。、、
この危機を乗り越えるには「偉大なるアマチュアリズム」
つまり頭が硬くてご都合主義の経済学者や欲の皮の突っ張
った資本家や実業家ではなく、偉大なる商人(あきんど)
がいればいいのだと思います。
むかしから私たちの国では労働という言葉はなく(明治以降
の外来語の和訳みたいなもの)生業(なりわい)といってい
ました。生業によって確かに対価を得て、それで生活をして
いくのですが、お金儲け自体が目的なのではなく、いい仕事
をした報酬としてお金が入ってくるという感覚でした。
ですからいい加減な仕事ばかりしていると信用をなくし、信
用をなくしますと仕事が入ってこなくなり、生計が立たなく
なります。その背景にあるのは自分がされて嬉しいなと思うこ
とを他人にもするという思いです。いいもの、美味しいもの
長持するものを、できるだけ安く提供する。少しくらい景気
が陰っても余力がある限り、給与を下げず、使用人を解雇せず
値上げをせず、下請けの面倒を見、みんなの力を合わせて危機
を乗り越えるという気概が必要なのです。
そういう思想はお金儲けばかりが先走ったビジネスの世界で
は育ちようがありません。エゴとエゴを都合よく両立させる
処方箋なんてどこを探しても見つかるはずがないのです。、、
最後にいっておきますが、地球の破滅は決してSFなんかで
はないのです。そして破滅させるのは余人ならぬあなた自身
なのです。自分だけが助かればいい、というのではなく、死
なばもろともという気持ちになった時道が開けるような気が
します。
  


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2023年12月30日

不自然な自然



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不自然な自然




ヒトが論理を好むのはなぜなのでしょうか?それは論理は
とても自然(すぎる?、数学や物理と一緒)だからなので
しょう。人工的な社会の現実の不自然さ(不条理)への反
作用みたいなものかもしれません?一種の現実逃避?
ですから、自然と共存している社会や原始的共同体では論
理などという面倒なものは必要ないし、したがってボキャ
ブラも乏しい(ノンバーバル)。主語述語目的語もはっき
りしません。言葉なんて必要最小限あればいいってところ
なのでしょう。
西洋世界や中華(あるいは多くの民族が境界を接している
大陸世界)では現実世界がいちはやく不自然な人工社会に
なったので、逆に彼の国の人々は論理を嗜好するようになっ
たのかもしれません。実際、西洋人くらいお喋りな人たちは
いません。神様もお説教が大好きです。言葉で説明できない
ものは存在しないとでも思ってるみたいです。
生きるための根拠みたいなものを現代に生きる僕たちはうま
く言葉で説明しなければいけないと思いがちです。少なくと
も僕はそうでした。しかし、説明しなければわからないこと
はきっと説明してもわからないのだと思います、
さらに問題なのは、そんな自然であるべき論理が、水と油の
ような関係にある不自然な人工社会の現実に無遠慮に首を突
っ込むようになったことでしょう。それで世界はたちまち誤
作動を始めたような気がします。不自然なものがまるで古今
東西の自然であるかのように振る舞い始めたのだから大変で
す。とんでもない錯覚が世の中を覆うようになりました。
所有するものが多ければ多いほど、豊かになればなるほど
心も豊かになり、幸福になれる、という思い違い。それが
資本主義的な市場経済の論理に他なりません。ひょっとする
と、皆さんもそう思い込んでいませんか?
本阿弥光悦の母親である妙秀尼は京都屈指の富豪であったに
もかかわらず無欲と無所有のお手本のような人でした。九十歳
で亡くなった時残したものは身に着けるものと木綿の布団だ
けだったとか。そしてこんな言葉を残しています。
「身の貧なることは苦しからず」
人は所有するものが多ければ多いほど、かえって心の本当の
豊かさを見失う。
そこんところをきちんとわきまえていないと、行き詰まった
二十一世紀の分厚い扉が開くことはないように思われます。





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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 13:15Comments(0)社会問題アカデミー

2023年12月27日

経済と歴史の深層


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2人、、「経済 人類学 入門 Introduction to Economic Anthropology 【理論的基礎》 鈴木康治 作品社」というテキストの画像のようです


経済と歴史の深層




歴史というのはいつも自明の事実のように語られます。
しかし、それは私たちの世界で起こった出来事のほん
の表層だけをつまみ食いしただけの話なのだと思いま
す。
歴史というのは集団記憶で成り立っていますが、その記
憶は”やった(加害者)側の記憶”と”やられた(被害者)
側の記憶”とに大別することもできるかなと思います。あ
る記憶とその正反対の記憶。
”やられた(被害者)側の記憶”は表面に出ないので深層
化していきます。そしてそれは親から子へ子から孫へと受
け継がれていきます。遺伝のようなものですね。そしてそ
れらの記憶が積み重なって巨大なエネルギーとなっていき、
なんらかの契機で歴史に地殻変動を起こすような気がし
ます。
洗脳されている人たちはそのことを認めたがりませんが、
それは丁度天動説の無謬性を疑いながら、天動説を受け入
れなかった人たちのようなものに思われます。
ユングは、”影のない光はなく光のない影はない”、
といっていますが、この世の中の森羅万象はすべからく微
妙なバランスの上に成り立っているような気がします。あ
るものが強大になれば必ずその対抗モーメントが現れます。
もし現れなかったらその時がこの世の終わりになるのだと
思います。
サクセスストーリーの覇者は英雄になり、歴史の主役にな
りますが、それは裏側から見れば世の中の加害者になると
いうことに他ならないような気がします。競争原理という
上からのメッセージにまんまと乗せられて裏側の世界は霧
の中に佇んで見えなくなっているようですが、本当のとこ
ろは深層化しているのだと思います。
まず所有権という概念が生まれ、そこから利息のつくお金
が派生し、利息のつくお金が投資されて利潤追求のための
資本主義的な市場経済が生まれました。しかしそれはいう
までもなく、モノが飽和状態になり商品が利潤を産まなく
なれば衰退してゆくしかありません。それが二十一世紀と
いう時代に当たるのだと思われます。サインはゼロ金利、
あるいはマイナス金利です。そうなった時何が起こるかと
いえば、対抗モーメントが働き出し、世の中がバランスが
蘇るのではないか、どうもそんなふうに思えてなりません。




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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 12:03Comments(0)社会問題アカデミー

2023年11月26日

繁栄のパラドックス

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テキストの画像のようです


繁栄のパラドックス



二十一世紀とはどのような時代なのかと言うと・・・
まさに”パラドックス”の時代なのだろう。
一に、アダム・スミスの時代のパラドックス、
二に、男性原理が支配する時代のパラドックス、
である。
市場経済の”神の見えざる手”は、マジシャンの限りなく怪
しげな手に化け、あるいは、ブレーキとアクセルを踏み間
違える高齢ドライバーの(足の)指先さながらになった。
男どもはというと、、そんなアダム・スミスの古ぼけた蜘
蛛の巣に絡め囚われて右往左往しているだけの情けない存
在でしかなくなった。
パラドックスとは、、、、
正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れが
たい結論が得られる事を指す言葉である。
正しく二十一世紀という時代のためにあるような言葉では
ないか。
それにしても、アダム・スミスの方はたかだかこの3,4百年
ほどの近代という時代のパラドックスでしかないが、男性
原理の方はどうやら文明史の彼方まで遡るしかないようだ。
それでも人類史という点から考えると99.99%分の1くらい
のもの。驚くなかれ、人類史の99.99%くらいは女権の時代
だったのだ。女権といっても女尊男卑ということではない。
男尊女卑というのは、男性の女性に対する劣等感コンプレッ
クスの所産なのだろう。
男であれ女であれ人間というのは本来は両性具有的らしい
のだが、男尊女卑のなかで、他人(女性)から男らしく
思われたいというペルソナ(仮面)が硬化しすぎるあまり、
男性諸君は人間としての味を失い、非個性的な存在になっ
ていったのだと思われる。
まあ、確かに今どきの野郎どもほど面白くもおかしくもない
社会的存在はない。ガッコーの優等生がそのまま社会人に
繰り上がったようなものだから仕方がないか。
では、男尊女卑は具体的にいつからはじまったかというと、
アダムとイブからなのだろう。イブ(女性)はアダム(男性)
の肋骨から生まれたということになっているらしいが、ちょ
っと何が何だかわからないオハナシである。それに対して男
は女の胎盤から産まれた、これは確かなハナシである。
さてと、そこでである、
女性は自然受容志向で男性は自然改変志向である。
太陽神崇拝は男性で、女性は大地神崇拝である。
天空は男性の、大地は女性のメタファである。
natureの語源(ラテン語)は女性で、
豊穣、原理、創造、前提、出発点などの象徴である。
”自然”は女性で”人工”は男性である。
したがって人類史の99.99%は当然ながら、大いなる自然に
人間が適応して生きてきた。それが男性原理の社会になる
や否や、人間の都合に合わせてひたすら自然を作り変えて
きた。
都市化した現代人の日常世界は、ゴキブリとペットと人間サ
マしか住めない異様なる人工空間である(唯脳史観・マック
スウエーバー)。
だがその人間サマときたら実のところゾウリムシ一つつくり
だせない、文明とは人間がゼロから何かを産みだしたという
わけではない。(一握りの)人間(男)たちが天地のありと
あらゆるものを収奪し尽くして出来上がった。
それは男性原理による文明社会である。要するにモノをA地
点からB地点に移動しただけ、車の窓からごみをポイ捨てし
たようなもの。所詮儚いゼロサムゲームでしかなかったのだ
った。
であるから、ニッポンのような市場経済のトップを走る(ア
メリカの経済はズルばかりしてる偽物のトップランナー)
国から、溜まりに溜まった男性原理の膿を出すのは仕方のな
いことなのだろう。GDPが下がり続け、円安が止まらなくな
るのは、膿が出ているというメルクマールにほかならない
のだろう。市場経済のトップランナーはポスト市場経済の
トップランナーにもなるわけだからご心配なく、とボクとし
ては言いたいわけである。



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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 12:39Comments(0)社会問題アカデミー