2024年07月20日
時間泥棒

時間泥棒
「モモ」(ミヒャエル・エンデ作)には、時間泥棒なるもの
が登場する。この灰色の男たちは”よい暮らし”のために時
間の節約を勧める。その結果は・・・モノは豊かになり、
食卓は賑やかになったけど、心の中は空っぽになった。
”よい暮らし”とはなんなんだろうとモモは私たちに問いかけ
る。でも私たちはいつまでもその問いに答えることが出来な
い。学校のテストには答えることが出来ても、”よい暮らし”っ
てなあに、という質問には答えることが出来ない。
時間とは生き物であり、時計の針なんかで測れない。そんな
生き物である時間の眼に映っている私たちの人生とはなんな
のだろう?なんだったのだろう?
老人たちにそんなことを訊いても手遅れかもしれないけど、
小さな子どもたちは違う。友だちと競争したら友だちを喪う
ように時間と競争したら時間を喪う。そして時間を失ったら
すべてを喪うということに早く気づいて欲しい。
2024年07月15日
関心領域

関心領域
優雅な暮らしをしている人々が、悲惨な暮らしを余儀なく
されている人々に目を向けることはない。のみならず優雅
な暮らしに憧れている人々にしても、底辺の人々から目を
背けることはあっても、その人たちに目を向けることはな
い。目を向ける真似はしても、、、ね。人の視線は弓から放
たれた矢のようなもので、いつも一つの的に向けられてい
る。とりあえず眼前の的を射るために向けられるのが人の
視線である。
絶滅収容所の近辺で暮らしていても、人々は己の優雅な暮
らしに何の痛痒も覚えない。ナチスで起こったことはナチ
スの外部でも起きるし、時を隔てた時代でも起きる。つま
りどこでもいつでも起こりうる。
有罪というならヒトラーやナチスの幹部だけでなく、見て
見ぬふりをしていた不作為も広義の有罪であるだろう。だ
からといってそれを責めることができるかといえばできな
い。なぜなら私もあなたも多分現代の収容所の近くで似た
ようなことをしているかもしれないからである。
ではそういう私やあなたを誰かが責めることができるかと
いえば、それもできない、というより詮ないことであるだ
ろう。なぜなら、それが人間の関心領域に他ならないから
だ。だからいつの時代も人間たちは同じようなことを飽きも
せずに繰り返してきたのだろう。
水野和夫さんはこんなことを言っている。もうこの世のな
かは、
「より遠く、より速く、より合理的に」
ではやっていけない。
「より近く、よりゆっくり、より寛容に」
でなければならないし、そうならざるをえない。
映画は不特定多数の人が時空を超えて鑑賞できるが、演劇は
どうであろうか。舞台の上で限られた時間に限られた人々
が演じ、客席ではやはり限られた時間に限られた人々しか鑑
賞できない。
映画は近現代という時代の鏡であり、演劇はこれからの時代
を映すべき鏡である。そこにはヒトが生き物としての限界を
自覚し、ちがいを楽しみながらどうにか一緒にやっていくた
めの知恵がある。舞台の上の人たちも、観客席にいる人たち
もである。
ケインズのいう善とは、快楽ではなく、心のある状態をいう。
「人間の交際の楽しみと、美しい対象の享受にあるといえよ
う。この問題をわが心に問うたことのある人なら、おそらく
誰しも、個人的な愛情と、芸術や自然における美しいものの
鑑賞とが、それ自体善いものであることを疑わないであろう。」
(ケインズ『若き日の信条』)
あらゆるものが「過剰・飽満・過多」となった。そういう
時代においては「ますます多く」を求めれば求めるほど、弊
害が大きくなるだけだろう。
東洋には西洋と異なり虚無とか空という哲学がある。では私
たちが生きているこの世は何かといえば、フィクションであ
る。そのフィクションが絶滅収容所と化しつつある今、フィ
クションは私たちの関心領域の舞台で演じられなければなら
ないのだろう。
・・・より近く、よりゆっくり、より寛容に。
2023年11月28日
幸福人フー

幸福人フー
いろいろなものを失い続けていくことで、かえって失うこ
とのないものが見えてくる。何もかもを失った、というの
は言葉の綾みたいなもので、実際には人は全てを失うこと
などない。上着を脱ぎ捨てていくようなもので最後は真っ
裸の自分がいるだけである。
むしろ、”存在”とはいろいろなものを得ることではなくて、
不要なものを捨て去った先に見えてくるものなのだろう。
”存在”とはきっと殺しても死なない大木の根っこみたいな
ものなのだろう。
全てのことは一人の人間としての営みから始まる。天から
与えられた地に家らしきものを建て、狩り、耕し、火を熾
し、料理をし、身につけるものを織り、掃除をし、夜明け
ともに起き、夜更けとともに寝る。全てのことはそこから
始まり、そこからいろんなものが派生してくる。
そんな派生したものにすぎない諸々ありきで、そこから始
めようとすると、何かを勘違いして、本当に大切なものを
見失ってしまう。そうやって近現代人は迷いの世界に踏み
込んだのだろう。
私たちの人生は否応なく何かに所属するところから出発す
るが、そのために人間という存在の原点が見えなくなるの
だろう。何かに所属していないと不安でたまらない。どこ
そこのなにがし、ということだけがあなたの存在証明にな
ってしまうのは哀しいことである。そしてそのことに何の
疑いも持たない。何の疑いもない代わりに、生きていると
いう実感も薄れてゆく。また、とるに足りないような不和
や諍いもそこから産まれてくるような気がする。
私たちの未来について一向に実りある議論が出てこないの
はそんなことのためなのだ思われる。下流ばかりを見てい
るから未来が見えてこない。上流に遡って考えてみるとい
う発想が皆目出てこない。上流には何があるかというと、
何者にも依存しない自分が息づいている。生命は細胞から
できていて、その細胞とは一つの完結した生命体なのだ。
熊本の坂口恭平さんは、そんな発想ができる数少ない一人
だ。「ゼロ円ハウス」なるものを提唱した。誰の所有物で
もない(土地登記簿の真空地帯、私有地でも公共用地でも
ない)土地に小屋を建てる。申し訳程度の車輪を付ければ
建物でもないし車両でもないから税金はかからない。
そのうちに共鳴する人が出てきて古民家を無償で提供して
もらったので、そこには誰でも住めるようになっている。
坂口恭平さんの妻、”フー”さんは強度の躁鬱病で苦しむ夫を
平気の平左で受け止めてくれた女性らしい。
彼女は「私は私でしかない」、「人のことはわからない」と
いう独自の距離感で人に接することができる。(坂口恭平著
”幸福人フー”、祥伝社)
「人のことはわからない」という割り切り方は自分のことも
わかってもらえなくて当然だという境地に繋がってくる。
だから「私は私でしかなく」他の人とは違う独自の存在とい
うことになる。
私たちには一人一人に名前があるが肝心の自分というものは
どうなのだろう?
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、人と
人のふれあいも「間合い」で決まる。
だが、人たちにはその「間合い」が抜けている、いやいくつ
かのアンチョコがあれば概ね間に合う。
それは多分、彼ら彼女らが世界の「間合い」に呼吸を合わせ
るだけで生きてるからだろう。
それに比べると、”フー”さんみたいな人たちには、一人一人
の「間合い」が必要だ。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まらない。
勝者でなければ敗者、
正しくなければ誤っている、
肯定でなければ否定、
富貴でなければ貧者か。
普通でなければ心の病
まさかね・・・・、
自分が自分であれば、そんなことからも自由になれる。
いろいろなものを失い続けていくことで、かえって失うこ
とのないものが見えてくる。何もかもを失った、というの
は言葉の綾みたいなもので、実際には人は全てを失うこと
などない。上着を脱ぎ捨てていくようなもので最後は真っ
裸の自分がいるだけである。
むしろ、”存在”とはいろいろなものを得ることではなくて、
不要なものを捨て去った先に見えてくるものなのだろう。
”存在”とはきっと殺しても死なない大木の根っこみたいな
ものなのだろう。
全てのことは一人の人間としての営みから始まる。天から
与えられた地に家らしきものを建て、狩り、耕し、火を熾
し、料理をし、身につけるものを織り、掃除をし、夜明け
ともに起き、夜更けとともに寝る。全てのことはそこから
始まり、そこからいろんなものが派生してくる。
そんな派生したものにすぎない諸々ありきで、そこから始
めようとすると、何かを勘違いして、本当に大切なものを
見失ってしまう。そうやって近現代人は迷いの世界に踏み
込んだのだろう。
私たちの人生は否応なく何かに所属するところから出発す
るが、そのために人間という存在の原点が見えなくなるの
だろう。何かに所属していないと不安でたまらない。どこ
そこのなにがし、ということだけがあなたの存在証明にな
ってしまうのは哀しいことである。そしてそのことに何の
疑いも持たない。何の疑いもない代わりに、生きていると
いう実感も薄れてゆく。また、とるに足りないような不和
や諍いもそこから産まれてくるような気がする。
私たちの未来について一向に実りある議論が出てこないの
はそんなことのためなのだ思われる。下流ばかりを見てい
るから未来が見えてこない。上流に遡って考えてみるとい
う発想が皆目出てこない。上流には何があるかというと、
何者にも依存しない自分が息づいている。生命は細胞から
できていて、その細胞とは一つの完結した生命体なのだ。
熊本の坂口恭平さんは、そんな発想ができる数少ない一人
だ。「ゼロ円ハウス」なるものを提唱した。誰の所有物で
もない(土地登記簿の真空地帯、私有地でも公共用地でも
ない)土地に小屋を建てる。申し訳程度の車輪を付ければ
建物でもないし車両でもないから税金はかからない。
そのうちに共鳴する人が出てきて古民家を無償で提供して
もらったので、そこには誰でも住めるようになっている。
坂口恭平さんの妻、”フー”さんは強度の躁鬱病で苦しむ夫を
平気の平左で受け止めてくれた女性らしい。
彼女は「私は私でしかない」、「人のことはわからない」と
いう独自の距離感で人に接することができる。(坂口恭平著
”幸福人フー”、祥伝社)
「人のことはわからない」という割り切り方は自分のことも
わかってもらえなくて当然だという境地に繋がってくる。
だから「私は私でしかなく」他の人とは違う独自の存在とい
うことになる。
私たちには一人一人に名前があるが肝心の自分というものは
どうなのだろう?
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、人と
人のふれあいも「間合い」で決まる。
だが、人たちにはその「間合い」が抜けている、いやいくつ
かのアンチョコがあれば概ね間に合う。
それは多分、彼ら彼女らが世界の「間合い」に呼吸を合わせ
るだけで生きてるからだろう。
それに比べると、”フー”さんみたいな人たちには、一人一人
の「間合い」が必要だ。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まらない。
勝者でなければ敗者、
正しくなければ誤っている、
肯定でなければ否定、
富貴でなければ貧者か。
普通でなければ心の病
まさかね・・・・、
自分が自分であれば、そんなことからも自由になれる。
2023年03月20日
マザーツリー

マザーツリー
カナダの女性の森林生態学者いわく。
「木と木がつながりあい、お互いを認識し、栄養を送り合
っている」
特に古い木をマザーツリーと呼んでいる。なぜかというと
マザーツリーは他の木に多くの炭素を送っているから。
人間だって同じですね。自分自身の生涯を振り返ってみる
と、母親から幼児期はお乳をもらい、大きくなっても母親か
ら貰ったものは少なくない。それに対して僕の方からあげた
ものとなると、、、母の日のカーネーションくらいか。
何かを上げる、無償で贈与することで人は老いてゆく。
だからきっとそれは美しいはずだ。目尻のシワは心のシワで
もあるのだろう。
また曰くには、、、、
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
こんな含蓄ある言葉(特に前段)は女性のそして母親でもあ
る人の唇からしか出てこないんだろうな。
「死が生きることを、、、」なんて、命がけで命を生み出し
た人からしかでてこない言葉かな。
いや森の中では多分そんなこと当たり前なんだろう。
カナダの女性の森林生態学者いわく。
「木と木がつながりあい、お互いを認識し、栄養を送り合
っている」
特に古い木をマザーツリーと呼んでいる。なぜかというと
マザーツリーは他の木に多くの炭素を送っているから。
人間だって同じですね。自分自身の生涯を振り返ってみる
と、母親から幼児期はお乳をもらい、大きくなっても母親か
ら貰ったものは少なくない。それに対して僕の方からあげた
ものとなると、、、母の日のカーネーションくらいか。
何かを上げる、無償で贈与することで人は老いてゆく。
だからきっとそれは美しいはずだ。目尻のシワは心のシワで
もあるのだろう。
また曰くには、、、、
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
こんな含蓄ある言葉(特に前段)は女性のそして母親でもあ
る人の唇からしか出てこないんだろうな。
「死が生きることを、、、」なんて、命がけで命を生み出し
た人からしかでてこない言葉かな。
いや森の中では多分そんなこと当たり前なんだろう。
2023年02月09日
ありのままで(Let it go)
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ありのままで(Let it go)
きっと、そうなのだろう。
”ありのままで”という、それが胸に響いた。
自分探しの旅に出て、大抵はチンプンカンプンのまま、
また日常に帰ってくるしかなかった。
なぜなのか、それは多分あるかないかわからないも
のだったから。シンデレラ探しの旅。
でも、、、、シンデレラはあなたではなかったし、王
子様もいるはずがない。しかし、オーロラ姫はまさにあ
なた自身だった。だから、、、なのだ。
それは「あの世」みたいなもんだ。歳をとってくるとそ
う思う。「この世」が「あの世」と重なってくる。
まあ、量子論風にいうならば、「あの世」とは場所(物
質の性質?)のことではなく、波動(状態の性質)のこと
かな。この世とあの世は、別々の世界でも、別々の時代で
もない。そうして人間らしくなり、孤独でなくなり、穏や
かになる。ってなわけで妻は時々お化粧をするのも忘れる。
僕たち団塊の世代は未来志向だった。努力すればなんだっ
て叶うのだと教わった。でもバブルはプッチンし、僕たち
の夢もどこかへ行った。
だから若い人たちは夢のかけらの上を旅するしかない。
そういう人たちへの応援歌なのかもしれない、この映画と
この歌は、、、
だって自由よ、なんでもできる。
ありのままで、ありのままで、
Let it go
ありのままで、ありのままで、
Let it go
2023年01月08日
峠
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峠
”形こそ 深山がくれの 朽木なれ 心は花に
なさばなりなん”
主人公の辞世の歌、古今和歌集からの引用らしい。
歴史の表舞台に現れた人物がすべからくこういう歌を愛す
る人であったらな、なんて思います。
しかし現実はどうもその逆であるような気がします。
形が全て、自分が全て、今が全て、、、?
維新の動乱期にも、この映画の主人公である河井継之助の
ような人物(知られざる偉人)は少なくなかったと思いま
すが、残念ながらというか、なぜかというか、ほとんどが
早世したようです。
こうしていますと、あの名この名が浮かんできます。幕府の
中にもいました。
「幕府のことは最早語るに足るものがない。」
と喜多村瑞見は嘆息して、罪せられた岩瀬肥後守を憐れみ
ました。
岩瀬肥後守は軽賤の身の上から幕府目付の一人に抜擢された
人物。黒船到来の一大事変に当たって、無力無策の幕府列閣、
諸侯に成り代わって一身を投げうち、無謀の戦から国を守り
ました。
彼なくせば、この国は列強によってバラバラに切り取られてい
たかもしれないと言われています。勝海舟や江川太郎左衛門、
杉田玄端などを小禄から取り上げたのも彼です。彼がいなか
ったら、この映画の主人公河井継之助もいなかったでしょう。
だが14代将軍後継問題紛糾の中で、井伊大老によって罰せ
られました。大老曰く。
「軽賤の身も省みず、幕府の柱石たる我々を差し置いた罪
は大逆非道に値する」
これが政治というものの現実だと思っていいでしょう。それ
は昔も今も大同小異といったところでしょう。
挙句の果ては、ケツの穴の小さい、非才の人物だけが生き残
りました。
河井継之助の平和的解決の心を尽くした提案をにべもなく拒
否し、奥羽を戦乱の血にまみれさせた岩村精一郎。
当時二十歳そこそこの若造で、キョロマ(短気なだけで浅才
浅慮の持ち主のこと)を東征軍の指揮官にしたのですから
よほど人材がいなかったのでしょう。
で、結局この”キョロマ”君は、新政府になってからも佐賀の
乱をひきおこし、佐賀の乱がついに西南の役という大乱の火
種と成りました。
維新から薩長藩閥政治、そして結局あの敗戦にもつながって
いった時代というものの八割がたは、こんなあまり望ましく
ない人たちでつくれらてきたような気がします。だからいつも
ギクシャクして、要もない諍いも起きます。
現代がまさにそうなのですが、出世そのものを人生の目的の
ように思っている人が多いですね。
そんな人が人臣位を極めた時どうなるかなんて今更説明する
までもないでしょう。
この映画の題材となった戊辰戦争もそうでした。大政奉還
(僕の大好きな小松帯刀の奔走によって実現しました)で平
穏に三百年近く続いた徳川幕府時代も終わり、お侍も姿を消
してしまうはずだったのが、そうはならなかったのが戊辰戦
争でした。日本が西と東に分かれて戦ったのです。
個人的に言えば、僕は九州生まれの九州育ちですが、この戦
争に関しては東の方に共感を覚えます。
長男夫婦は今福島に住んでいるからというのではなく、新政
府軍によって滅ぼされた会津が好きです。身を挺して節を通
した、そんなところには惹かれます。
維新といえば尊皇思想であり、尊皇といえば、平田篤胤、ま
たその師本居宣長ですが、彼らが説いた教え、思想とは、、
「自然に帰れ」でした。
自ずからの道を辿れば、自ずから正しい未来はひらける(ル
ソーも同じこと言ってた)。
でも夜が明けてみて待っていたのは、日本人が起き去りにさ
れ、捨て去られ、ついにはそのことさえ忘れ去られるという
結末でした。
近代国家とは、いかに美辞麗句を重ねようとも、人倫の道に
背き伝承を断ち切った、無残な中央集権と官僚的軍事支配と
重税の世の中に他ならなかったように思われます。
”形こそ 深山がくれの 朽木なれ 心は花に なさばなり
なん”
ああ、全くその通りですねえ。
”形こそ 深山がくれの 朽木なれ 心は花に
なさばなりなん”
主人公の辞世の歌、古今和歌集からの引用らしい。
歴史の表舞台に現れた人物がすべからくこういう歌を愛す
る人であったらな、なんて思います。
しかし現実はどうもその逆であるような気がします。
形が全て、自分が全て、今が全て、、、?
維新の動乱期にも、この映画の主人公である河井継之助の
ような人物(知られざる偉人)は少なくなかったと思いま
すが、残念ながらというか、なぜかというか、ほとんどが
早世したようです。
こうしていますと、あの名この名が浮かんできます。幕府の
中にもいました。
「幕府のことは最早語るに足るものがない。」
と喜多村瑞見は嘆息して、罪せられた岩瀬肥後守を憐れみ
ました。
岩瀬肥後守は軽賤の身の上から幕府目付の一人に抜擢された
人物。黒船到来の一大事変に当たって、無力無策の幕府列閣、
諸侯に成り代わって一身を投げうち、無謀の戦から国を守り
ました。
彼なくせば、この国は列強によってバラバラに切り取られてい
たかもしれないと言われています。勝海舟や江川太郎左衛門、
杉田玄端などを小禄から取り上げたのも彼です。彼がいなか
ったら、この映画の主人公河井継之助もいなかったでしょう。
だが14代将軍後継問題紛糾の中で、井伊大老によって罰せ
られました。大老曰く。
「軽賤の身も省みず、幕府の柱石たる我々を差し置いた罪
は大逆非道に値する」
これが政治というものの現実だと思っていいでしょう。それ
は昔も今も大同小異といったところでしょう。
挙句の果ては、ケツの穴の小さい、非才の人物だけが生き残
りました。
河井継之助の平和的解決の心を尽くした提案をにべもなく拒
否し、奥羽を戦乱の血にまみれさせた岩村精一郎。
当時二十歳そこそこの若造で、キョロマ(短気なだけで浅才
浅慮の持ち主のこと)を東征軍の指揮官にしたのですから
よほど人材がいなかったのでしょう。
で、結局この”キョロマ”君は、新政府になってからも佐賀の
乱をひきおこし、佐賀の乱がついに西南の役という大乱の火
種と成りました。
維新から薩長藩閥政治、そして結局あの敗戦にもつながって
いった時代というものの八割がたは、こんなあまり望ましく
ない人たちでつくれらてきたような気がします。だからいつも
ギクシャクして、要もない諍いも起きます。
現代がまさにそうなのですが、出世そのものを人生の目的の
ように思っている人が多いですね。
そんな人が人臣位を極めた時どうなるかなんて今更説明する
までもないでしょう。
この映画の題材となった戊辰戦争もそうでした。大政奉還
(僕の大好きな小松帯刀の奔走によって実現しました)で平
穏に三百年近く続いた徳川幕府時代も終わり、お侍も姿を消
してしまうはずだったのが、そうはならなかったのが戊辰戦
争でした。日本が西と東に分かれて戦ったのです。
個人的に言えば、僕は九州生まれの九州育ちですが、この戦
争に関しては東の方に共感を覚えます。
長男夫婦は今福島に住んでいるからというのではなく、新政
府軍によって滅ぼされた会津が好きです。身を挺して節を通
した、そんなところには惹かれます。
維新といえば尊皇思想であり、尊皇といえば、平田篤胤、ま
たその師本居宣長ですが、彼らが説いた教え、思想とは、、
「自然に帰れ」でした。
自ずからの道を辿れば、自ずから正しい未来はひらける(ル
ソーも同じこと言ってた)。
でも夜が明けてみて待っていたのは、日本人が起き去りにさ
れ、捨て去られ、ついにはそのことさえ忘れ去られるという
結末でした。
近代国家とは、いかに美辞麗句を重ねようとも、人倫の道に
背き伝承を断ち切った、無残な中央集権と官僚的軍事支配と
重税の世の中に他ならなかったように思われます。
”形こそ 深山がくれの 朽木なれ 心は花に なさばなり
なん”
ああ、全くその通りですねえ。
2022年12月10日
夢なんかありません (銀の匙より)

夢なんかありません
(銀の匙より)
学生食堂の入り口に飾ってある「銀の匙」を毎日欠かさ
ず磨いている校長先生が、進学校から入学したという。
ハチケンに尋ねます。
「君はこの学校にきて何をしたいの?」
「僕は他のみんなのように、目標もないし、夢なんか
ありません」
「夢がないか?、、、いいですねえ」
「はあ、、、、?(この校長、オレ、バカにしてんの
とちゃうか)」
「実にいい、ねえ、そう思いせんか?○○先生(担任の
オトコセンセー)」
「はあ、、、」
ここんところは以心伝心。
夢なんてものは安易に大人社会から与えられるもんじゃ
ない。日々のなりわいの苦楽の中から、矛盾でいっぱい
の人間と社会のなかで、一人一人が掘り出すようにして
見つけ出すものかも。
だいたいこの学校に通う生徒たちはそんな風に思ってい
るらしい。
現代のシャバでは、夢がないってことは、人間から離れ
ることではなくて、人間的な世界へのとば口に立つとい
うことなのかもしれない。
、、、なんて思うとなんかすごく涙ぐみたくなったの
であった。
(銀の匙より)
学生食堂の入り口に飾ってある「銀の匙」を毎日欠かさ
ず磨いている校長先生が、進学校から入学したという。
ハチケンに尋ねます。
「君はこの学校にきて何をしたいの?」
「僕は他のみんなのように、目標もないし、夢なんか
ありません」
「夢がないか?、、、いいですねえ」
「はあ、、、、?(この校長、オレ、バカにしてんの
とちゃうか)」
「実にいい、ねえ、そう思いせんか?○○先生(担任の
オトコセンセー)」
「はあ、、、」
ここんところは以心伝心。
夢なんてものは安易に大人社会から与えられるもんじゃ
ない。日々のなりわいの苦楽の中から、矛盾でいっぱい
の人間と社会のなかで、一人一人が掘り出すようにして
見つけ出すものかも。
だいたいこの学校に通う生徒たちはそんな風に思ってい
るらしい。
現代のシャバでは、夢がないってことは、人間から離れ
ることではなくて、人間的な世界へのとば口に立つとい
うことなのかもしれない。
、、、なんて思うとなんかすごく涙ぐみたくなったの
であった。
2022年12月01日
グリーンマイル

グリーンマイル
”グリーンマイル”とは、、死刑囚の獄舎から電気椅子へと通
じる緑色の床の”遠い道”のことです。
その遠い道をたどる短い時間の間にどんな思いが駆け巡るの
でしょうか?平常心でいられる人はまずいないでしょう。
勇気があるとか臆病であるとか、そういう問題でもありま
せん。人は死ぬのが怖い。それが当たり前です。もしそうで
なかったら自らの命を絶つ人あとをたたないでしょう。誰だ
って一度や二度は死んだほうがマシなんて思った経験がある
はずですから。
そうならないための自然の抑制装置みたいなものとして死へ
の恐怖がセットされているのかもしれません。
また、私たちはこの物語を他人事として聞き流すわけにいき
ません。なぜって私たちは皆この世に生をうけたその日にす
でに死を宣告されているようなものだからです。例外は万に
一つもありません。それがつまり生きるとということに他な
らないのでしょう。
誰もが自分のグリーンマイルを持って生まれてきました。冥土
への旅路を辿るのです。さてその旅路の長さですが、何で測れ
ばよいのでしょう?
距離(distance)でしょうか、それとも時間(time)、、、?
または距離と時間を一緒にしたもの、、、?
はたまた、距離とか時間とかが生きとし生けるものの迷妄に
すぎないのでしょうか?
僕にはどうも最後の、、、であるような気がします。
だとすれば、迷妄でないものとは何なのか?そんなものが果
たしてあるのかないのか?
あるのだと僕は思います。だってそうじゃなければ生まれて
きた意味が皆目なくなってしまうからです。
じゃあ、それとは何であるのか、というと、『思い』なので
はないのかと、、、。
黒人死刑囚のジョン・コーフィーにとってこの世は頭を絶え
間なくガラスの破片で突き刺されるような毎日でした。
繊細で純粋な心の持ち主にとって、生きるということは煉獄
のような苦痛以外の何物でもないのかもしれません。
とても悲しい話ですが、またこれほどの深い『思い』という
ものもないような気がします。
社会的ステータスなどとは無縁のところで優れた人の眼差し
には静かな悲しみの色がたたえられているような気がします。
そういう人にとってはグリーンマイルとは距離(distance)でも
時間(time)でもないような気がするのです。
またそういう人にとって生きることは死ぬことに限りなく近
くようなもので、そうやって迷妄から目覚めようとしている
かに見えることさえあります。
言葉は思いのたけを伝えるには余りに不完全で、知識は真理
を説くには余りに浅薄すぎる気がします。
だからして、深い喜びや悲しみは他の人たちと分かち合うこ
となど出来ません。
喜びは一人ぼっちになって初めてかみしめ、悲しみは結局一
人自分の胸に抱きしめていくしかないのだと思えるのです。
2022年11月29日
川っぺりムコリッタ
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川っぺりムコリッタ
山も川も、空も星も、
自分にふさわしいものを求めている
ような気がする。
そしてもちろん人も、、、。
生と死のあわいにある時を
ムコリッタというらしい。
長かろうが、短かろうが、
デコボコだろうがノッペラだろうが、
ムコリッタというらしい。
2022年10月19日
天才・秀才・凡人

天才・秀才・凡人
天才は「創造性」という軸で、ものごとを評価します。
秀才は「再現性(≒ロジック)」という軸で、
凡人は「共感性」という軸で評価します。
天才は「世界を良くするという意味で、創造的か」で評価
をとります。
凡人は「その人や考えが、共感できるか」で評価をととり
ます。
したがって、天才と凡人は「軸」が根本的に異なります。
この「軸」自体に優劣はないし、また天才、秀才、凡人を
分けるのは必ずしも生来の素質ではないと思います。
分岐点となるのはどの軸で感化され、学び、生きるかなの
でしょう。
しかし、人数の差はあります。
圧倒的に凡人が多い。だから凡人が凡人を生み、天才を嫌
がり孤立させます(共感できないから)。
時代が創造性を必要としない(かえって邪魔になる)場合
は何の差し障りもないのでしょうが、時代が創造性を求め
創造性なくして一歩も前に進めない場合はどうなのでしょ
う?時代への共感性が大きな壁となり足かせとなります。
ではありますが、、、
私たちが暮らして居る世の中において「再現性(≒ロジッ
ク)」が崩壊し始める時はどうなのでしょうか?
凡人の共感性は大きくシフトすると思います。
「再現性(≒ロジック)」から「創造性」の方向へ、です。
若い世代に少しづつその萌芽が見えてきたように僕には
思われます。
たとえば、おカネとか所有の観念とか社会的ステータスと
かに淡白になってきています。
僕たちの世代は凡人と秀才の群れみたいなもの(まあ、
ゾンビみたいなものですか)で期待はできませんが、、。
2022年10月08日
クライマッチョ、野心とこころざしと

クライマッチョ
・・・野心とこころざしと
若い時分には野心があります。まあ、あくまで大なり小な
りという話ですが。ないよりあるほうがマシというのが野
心というやつかなと思います。
いずれにしろそのうちにアホらしくなってきます。野心に
手がとどくほどにわかってくるからです。スケベ心を見透か
された女性を懲りもせずに口説きまくる輩のようなもので、
まことにもって情けないったらないということが。
強引に我が物にしたと思っても必ずや嫌われます。それが
野心というものだというのが七十三歳になる老いぼれの偽ら
ざる実感といったところです。
志(こころざし)という言葉もあります。野心とよく似てい
るようで全く異なるものかな、なんて最近思います。
どこか漠然とした言葉でいろんな解釈ができるでしょうが、
字義からいうとこういうことになりますか。
「心」の上に「之」(=向かい行く)がのった漢字で、
「之」の音でシと読み、心の向かうところ、心の目指すとこ
ろという意味。
これならとっても自然な風味があって、何かスッキリと入っ
ています。それも齢を重ねれば重ねるほどにです。
野心をいわば重たい自我の塊のようなものだとすると、それ
は逆に自我がだんだんと削りと取られて身軽になっていくよ
うな感じとでもいうのでしょうか。
空気というのはあって当たり前のくせに、いざなくなってし
まうとその存在が身にしみてきます。
そんなタイプというのは多分こころざしを胸の奥に秘めて
いる人なのかなあ。
ちょっとユーレイみたいにも見えますけど、長い目で見ると
人間はみんなユーレイですから、そんなものでしょう。
映画「クライマッチョ」の中でクリントイーストウッド扮す
る九十一歳の元ロデオのスターがこんなこと言ってました。
「マッチョは過大評価されすぎだ。人はすべての答えを知っ
た気になるが、老いと共に、無知な自分を知る。気づいた
時には手遅れなんだ」
2022年09月18日
コインからアートへ (太陽の棘)

コインからアートへ
(太陽の棘)
漱石が暗い懐疑を心中に抱き、鴎外も折口もさらにあの
南方熊楠がこの国に未来に大いなるを災いを見ました。
スエ―デンの少女グレタさんは、
このまま何もしなければ地球の未来はない、と国連で声
高らかに訴え、
ポップカルチャーのアイコン、ジョン・レノンは
”I think our society is run by insane people
for insane objects."
「僕らの世界は狂った人たちのものなのか」と歌い、
ケインズは2030年には週の労働時間は15時間になると予
測したが、そんな「本当の豊かさ」を実現したのは、南部
アフリカのブッシュマンでした。
すべてはコインのインフレ(膨張、横暴)から始まり、
その反作用としての精神(アート)のデフレを生み出しまし
た。二十一世紀における私たちの絶望感は、この焦土と化
した精神の風景の反映にちがいないと思えてなりません。
さて、原田マハさん(作家)は、沖縄のニシムイ美術村の存
在を知った時、”これは書かなければならない”と思いました。
そして出来上がったのが「太陽の棘(Under the Sun and
Stars)」という作品です。
実話に基づいた物語で、戦後すぐの米軍占領下の沖縄那覇に
赴任してきた若き精神科医エド・ウイルソン(実在)と美術
村の沖縄の若き芸術家たちとの交流を描いたものです。
無論、戦勝国であり加害者であり支配者であるエドたちと
敗戦国であり被害者であり被支配者である美術村の住人との
間の友情ですから単純にはいきません。
にもかかわらず、そこに類まれなる友好を成り立たせたもの
とは何であったのか、、、というのがこの作品の主題なので
しょう。
それにしてもそれだけが彼女をして”書かなければならない”と
思わせたのか?いいえ、そうじゃないでしょう。
彼女は何よりも「アート」を描きたかったのでしょう。アート
の持っている”普遍の力”を、読者にほんの少しだけ感じさせ
たかったのだと思います。
私たちが当然と思っている、社会現象のなにもかもがこころの、
闇に閉ざされた深層に収れんしていきます。そしてそこから外
部世界へと拡散していきます。
そのプロセスで、この世のありとあらゆる善と悪は浄化され
ていくのだと思うのです。
コインのインフレは過剰と飽満をもたらすだけですが、アー
トは心の中の蓄積と豊かさをもたらします。
地球の面積にも容積にも限りがありますが、心の中は無限で
す。五感が感受するものは、生命の存在そのものであり、生
かす力に他ならないと思うのです。
というわけで作者は欄外でこう書いています。
「それらがいかに困難なものであっても、対話や友情は成立
し得た。なぜならアートがあったから。そういう物語です。
対立する者同士、支配する側とされる側を隔てる壁や境界線
を、アートは取り払ってしまう。アートがあることで、人類
が助けられた局面は何度もあったはずです」
二十一世紀という時代は創造の時代でなければなりません。
もしこのままコイン(カネ)の時代が続けば、人類だけでな
く地球そのものが滅びるでしょう。
危機の世紀を人類は何度か類い稀なイメージの力で乗り越えて
きました。現実と創造を一体化し新たな現実を創り出してい
くのもの、それこそ芸術に内在する力なのだと思うのです。
ミライがミイラになってゆく時代を、ミイラをミライへと反
転させる力こそアートなのだと思うのです。
カントは「これでよし」といって死んだらしいが、ゲーテは
「もっと光を!」といって死にました。敬愛する詩人、ヘル
マン・ヘッセは夫人の弾くショパンをききながら眠るように
息をひきとりました。
彼らの思想や芸術は廃墟の上で輝いているのです。
2022年07月25日
学校と寅さんと山田洋次

学校と寅さんと山田洋次
夜間中学なんてあったんだ、この映画観るまで知らなか
った。東大卒の山田監督が、夜間中学を通じて学校そ
のものありかたを模索した。稀代のヒューマニストの面
目躍如と言ったところ?
夜間高校でもない、まして夜間大学でもない、なにしろ
中学である。読み書きソロバンができない人だってくる、
五十歳過ぎて・・・。
もちろん非行少女や登校拒否、知能障害、人種差別、なん
でもありだ。その一人ひとりのドラマを実に丁寧に描い
てゆく。
「学校」シリーズIIでは高等養護学校、IIIでは職業訓練校
IVでは不登校が舞台とかテーマになってる。
結論から言えば、このシリーズは学校そのものについてと
いうより、学校というテーマを媒体にして、人間関係の真
実にアプローチしようとしている気がするのだ。それは、
パッケージになったチャチな知識や情報自体でなく、生身
の人間の語る一言半句の中にあったりするものだ。
砂浜の白い砂に埋もれた貝殻のように。
学生生活の中で(特に進学校)一生を通じて忌憚なく付き
合える親友と巡り会えた。いまどき、そんな奇特な人が一
体どれくらいいるものだろうか?
あるいは師なんて大げさなものでなくとも、ウンとうなづ
けるような教師に出会えた青年はどれくらいいるだろう。
ラストのホームルームの後で、えり子がクロちゃん先生
に、将来教師になると打ち明けたのと打って変わって、
僕は中学時代に教師にだけはならないと誓った。
どうして?えり子とは遠く隔たった嫌なものを見てしまっ
たからとでも言っておく。
話は変わるが、
メジャーリーグに挑戦して挫折する選手が多い中で、突出
した選手には、どうもある種共通した要素があるようだ。
それは「修正能力」。
スポーツのみならず、生き馬の目を抜くようなシビアな世
界では、生半可な素質のみでどうにかなるものではない。
素質に上乗せされるプラスアルファがモノをいってくる。
それ次第で年棒数十億円のスター選手と、
ロッカーに自由契約(クビ)の通知の張り紙を張られる選
手に峻別される。
「修正能力」の対語はといえば「再現能力」。
コーチに教えられた通りにプレーできる能力。
"コーチにとっての優等生"
それでも大したものかもしれないが、だけでは到達できか
ねるのが「天才」という存在。それは、天から降ってくる
(天然)から天才なのであって、天の祝福はそれぞれのア
タマとココロのなかに標準装備されている。そ
れを有り難く頂戴するのはあなたの掌であって他の人の掌
ではない。
良いコーチというのはそういう事情を熟知していて、
悪いコーチというのはそうでない、言い換えれば折角の
天与の才を殺してしまう。
そしてそんな悪いコーチが今の世にはいかに溢れている
ことか。
「学校」なんてところはその格好のモデルになってしまっ
たのではないか、というのは僕の経験からきた実感だ。
「学校1」はクロちゃん学級の八名のクラスメートのプレ
ゼンテーションを前半部分にして、やがて五十歳代の同級
生イノさんの生と死をめぐる展開へとなだれ込んでいく。
井上某という実在の人物をモデルにしたストーリーらしい。
そんな着眼がこの物語の核になっていることに、時ととも
に観客は感付き始める。
不遇を絵に描いたような人生。
小学校もロクに出ていない初老の男が、夜間中学で始めて
心が通じ合う仲間と出会い、学ぶ喜びを満喫する。
しかし彼の悲しすぎる人生は、その肉体深く蝕んでいた。
そして卒業を目前にして儚い命を閉じるのだ。
山田洋次監督はこの切ない物語を、お涙頂戴では流したく
なかった。それでハイライトはホームルームでのディベー
トととなる。
テーマは「幸福」について。
イノさんは果たして本当に不幸だったのか、それとも?
自分自身の人生に照らし合わせながら、ひとりづつ答えを
探してゆく。
これは誰にとってもとても難しい問題。
勉強ができるからといって解けるでもなく、
年齢を重ねたから、知性なるものがあるから解けるもので
もない。
多分生と死の問題が、一度死んでみなけりゃトンとわから
ないように、生きてる間は永遠の謎々なのかもしれない。
だから一人一人が手探りで近づいていくしかない。
だが他方で一生をかけてわざわざ遠のいていく人だって
いる、ってよりだんだんそんな人だらけになってきたような。
残念ながら、この物語はどうやら、そんな人だらけのもの
ではないようだ。
それではディベートの様子を眺めてみましょうね。
重労働をしながら通学しているカズは、
あんな惨めな人生が幸福だったはずがない。
かりそめの幸福感があったとしたら、そのこと自体が悲し
すぎるだろう。もっと世の中を恨めよ、
という。
焼肉店を経営して、子どもを育て上げ、イノさんと同じよう
に五十歳を過ぎて入学した、在日朝鮮人の女性、オモニは
いう。
不幸でない人生なんてない、ならば自分が幸福だと思えば、
それでいい。イノさんは幸せだったし、自分だってそうだ。
じゃあ、そう思えればいいということは、幸福も不幸も
錯覚なの?
という反論が当然のように出てくる。
人生とは単なる錯覚なのか?こうも不幸も。
確かにそうなのかもしれない。
ここで教室に一旦沈黙が訪れる。
それを破ったのが、少年院出の非行少女だったみどり。
学校に戻れば、先公はよってたかって犯罪人扱いだし、
家にもどればアル中の父親だ。
自暴自棄になったみどりは、シンナーをやり身体をぼろぼ
ろにして、恐喝や売春やればどうにか生きていけるし、
そんなもんだとしょんぼり夜間中学の校門の電柱に座り込ん
でいたところに、
「どうしたの?この中学に入りたいの?」
と優しく声をかけてくれたのが・・・・
「このくろちゃんだったんですけど・・・」
と涙なんか見せたこともないみどりが涙ぼろぼろで、
担任の黒井先生(西田敏行が好演)を指さす。
その時こんな私でも幸福になれるかもしれない、
と思ったんだよ。
あたたかな眼差しは陽射しのようなもんで、氷のようなかた
くなな心を溶かす、一瞬にして。
くっちゃべるなよ、ねえ、そんな時はさ。
オサム、君はどう思う?くろチャンこと、黒井先生はたずねる。
知能障害のオサムは少し考えて
「幸福って、・・・・やっぱりお金かな・・・」
失笑が洩れる。
黒井先生はオサムを庇うようにいう。
「いやいや、おかしくはないよ。そうだよ、お金は大切だよ、
オモニだっていつもいってるだろう、お金さえあればなあって」
そりゃそうだ、皆幸福はお金で買えるなんて平気で思ってい
る時代だから。
しかし、誰よりも貧しい境涯にある彼らに、そうじゃないよ
とい言わせているのはなにだろう?
単なる負け惜しみ・・・?まさかね。
じゃあ、なあんだ?と問いかけたまんまエンドロールとなる。
僕の「学校」の投稿へのコメントで、
Mさんは、山田洋次作品の中での最高傑作はこの作品だと。
またNさんは「霧の旗」(倍賞千恵子さん主演の松本清張
原作の作品)だと。
まあ他にも「幸福の黄色いハンカチ」だとか、「同胞」、
「小さいおうち」だとか、甲乙つけがたい作品が目白押し
です。それでいてオリジナルシナリオ作家で、稀に見る多
作ですから、間違いなく映画界のレジェンドとなる監督
だと思います。
そこで僕はというと、やはりシリーズを一本の作品と見立
てたら、「男はつらいよ」をナンバーワンに挙げたいなと
思います。
シリーズのスタートは、七十歳の僕がテイーンエイジャー
だった頃、高度経済成長に向けてエンジンがかかりだした
時代、そして世はまさに学歴社会プラス一億総サラリーマ
ン化へと大きな変容を遂げ始めました。
そういう時代背景とは無縁の、自由気ままともいえる寅さ
ん的存在というのはだから、僕も含め多くの一般人にとっ
て、一種の憧れというか、現実とは異なるもう一人の自分
を投影できる良きモデルでもあったわけです。
それが半世紀近くのシリーズの中で次第に変遷していくの
が見て取れるような気がするのです。
寅さん自身が変わったのではなく、周りが、僕たちの方が
変わった。そうして当然のように寅さんの見方、受容のス
タンスが、ある意味百八十度変わってしまった。
宿無しがホームレスになり、放浪者が落ちこぼれになって
いった。
もう憧れの存在ではなく、あんな人になっちゃダメよって
子どもに言って聞かせるような反面教師的モデルに落ちて
いくのです。
それをただ時代の流れだ、どうしようもないことだで片付
けてしまうるのか、それとも・・・。
山田洋次監督はそういう諦め方に対して、はっきりNOを
突きつけ、警鐘を鳴らしているのではないか。
それがこの「学校」という作品ではないかとも思うのです。
世の中は確かに変わる(変わりすぎ?)、そしてそれは不
可抗力なのかもしれないが、その一方でどんなに世の中が
変わろうとも、変わらない、変えてはいけないものがある
のだと主張している。
そこで学校という舞台をあえて選んだのは、そこが時代の
出発点、僕たちが生きている社会という情報系の司令室に
なっているからではないのか、という気がするのです。
2022年07月07日
クッツエ―という思想

クッツエ―という思想
(モラルとは単なるお説教ではない。目の前の弱者に、
考える暇もなく反応してしまう心の動きだ。)
クッツェーは作品を通して、現代社会を覆う思考法
と闘ってきた。効率のためにはどんなことも許される。
だから生まれたばかりの雄のヒヨコが膨大な数、
殺されても問題ない。
だが彼は言い返す。そんな世界は嫌だ。
こうした社会の中心には、人間だけが価値がある、
という思想がある。
だがそのために、動物たちだけでなく、多くの人間た
ちもまた、戦争や奴隷制のなかで、動物扱いされ殺さ
れてきたのではないか。
こうして、クッツェーは西洋の全歴史と敵対し常に負
ける。なぜなら彼の言うモラルは、現代を支配する力
の外側にあるからだ。
だが彼の作品は命への配慮の感覚を読者の心に残す。
「あなたは人に感じ方を教えている」
という娘のコステロへの言葉は、そのままクッツェー
自身にも当てはまるだろう。
モラルとは単なるお説教ではない。目の前の弱者に、
考える暇もなく反応してしまう心の動きだ。
このクッツェーの思いに、僕は今を超えていく力を
感じる。
2022年06月21日
カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で
過って改めない、これ過ちといいます。
ひたすら過たない、これまた過ちといいます。
大いに過って大いに改める、これを学ぶといいます。
機械だって過って改めます、これイノベーションといいます。
かくして人間は機械に振り回されます。
機械を利用しているつもりが、いつしかイノベーションに縁
のない機械に自分がなってしまった、これをおそらく(ホ
ントの意味で)精神疾患というのだと思いますが、精神病
院とは狂いを認めない機械のシステムのことで、かくして入
院患者は狂った機械のことということになります。
不思議なことに、その病棟の窓から見える外部の人たち
には名前というものがありません。
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、
人と人のふれあいも「間合い」で決まるはずです。でも、
その病棟の窓から見ますと、人たちにはその「間合い」が
抜けています。
いやいくつかのアンチョコがあれば概ね間に合うのです。
それは多分、彼らが世界の「間合い」に呼吸を合わせるだ
けで生きてるからでしょう。
それに比べると、ここの人たちには、一人一人の「間合い」
が必要になります。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まりません。
過って改めない、これ過ちといいます。
ひたすら過たない、これまた過ちといいます。
大いに過って大いに改める、これを学ぶといいます。
機械だって過って改めます、これイノベーションといいます。
かくして人間は機械に振り回されます。
機械を利用しているつもりが、いつしかイノベーションに縁
のない機械に自分がなってしまった、これをおそらく(ホ
ントの意味で)精神疾患というのだと思いますが、精神病
院とは狂いを認めない機械のシステムのことで、かくして入
院患者は狂った機械のことということになります。
不思議なことに、その病棟の窓から見える外部の人たち
には名前というものがありません。
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、
人と人のふれあいも「間合い」で決まるはずです。でも、
その病棟の窓から見ますと、人たちにはその「間合い」が
抜けています。
いやいくつかのアンチョコがあれば概ね間に合うのです。
それは多分、彼らが世界の「間合い」に呼吸を合わせるだ
けで生きてるからでしょう。
それに比べると、ここの人たちには、一人一人の「間合い」
が必要になります。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まりません。
2022年05月28日
モダンタイムズ
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モダンタイムズ
チャップリンの”モダンタイムズ”では、貧しい労働者が、
大金持ちの資本の大きなシステム(歯車)に巻き込まれ
てしまう。
しかし金利(利息=利潤)がゼロからマイナスになる
二十一世紀では立場は逆転する。
資本の大きなシステム(歯車)に代わって、大自然の歯車
が大金持ちを巻き込んでいく。
2022年04月22日
樅の木は残った
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樅の木は残った
三島由紀夫は福田恒存(かっての保守論壇の大御所)に向
かって「暗渠(地下水路)で西洋につながっている」と
評しました。
それに対して福田はこう言いかえしました。
「俺が暗渠で西洋につながっているなら、三島は暗渠で日
本につながっている」
ちょっと聞きにはワケがわかない表現ですが、多分福田の
言った「日本」とは明治維新後の日本のことだったのでし
ょう。つまりお前だって西洋に毒された日本につながって
いるじゃないか、というくらいの含意だったのでしょう。
なんてことない、右翼も左翼も西洋につながっているから
右翼であり左翼に過ぎない。
宿命的にニュートンの亡霊を背負って彷徨っている。
りんごの果実は同じように一直線に地上に向かって落下す
るが、りんごの葉っぱは違う。
風やら雨やらの影響を受けて、一枚々々落下の仕方が違う。
ひとりびとりの人間も、世の中もそう。
保守とはそういうものの見方ができる人のことなのでしょ
う。だから、
味方でなければ敵だとは考えない。all or nothingで一事が万
事をぶち切ってしまわない
今時自動車学校の学科試験でも三択問題ですからねえ。
だから三島は小説が書けなくなった(慎太郎と同じパターン)
それに対して山本周五郎は晩年になるほど名作をものした。
保守とは山本周五郎のような人物の事を言うのでしょう。
葉っぱは時季が来れば舞い落ちるが、樅の木は残った。
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樅の木は残った
三島由紀夫は福田恒存(かっての保守論壇の大御所)に向
かって「暗渠(地下水路)で西洋につながっている」と
評しました。
それに対して福田はこう言いかえしました。
「俺が暗渠で西洋につながっているなら、三島は暗渠で日
本につながっている」
ちょっと聞きにはワケがわかない表現ですが、多分福田の
言った「日本」とは明治維新後の日本のことだったのでし
ょう。つまりお前だって西洋に毒された日本につながって
いるじゃないか、というくらいの含意だったのでしょう。
なんてことない、右翼も左翼も西洋につながっているから
右翼であり左翼に過ぎない。
宿命的にニュートンの亡霊を背負って彷徨っている。
りんごの果実は同じように一直線に地上に向かって落下す
るが、りんごの葉っぱは違う。
風やら雨やらの影響を受けて、一枚々々落下の仕方が違う。
ひとりびとりの人間も、世の中もそう。
保守とはそういうものの見方ができる人のことなのでしょ
う。だから、
味方でなければ敵だとは考えない。all or nothingで一事が万
事をぶち切ってしまわない
今時自動車学校の学科試験でも三択問題ですからねえ。
だから三島は小説が書けなくなった(慎太郎と同じパターン)
それに対して山本周五郎は晩年になるほど名作をものした。
保守とは山本周五郎のような人物の事を言うのでしょう。
葉っぱは時季が来れば舞い落ちるが、樅の木は残った。
2022年02月03日
アメリカンスナイパー、 教訓ー訓
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アメリカンスナイパー
教訓ー訓
確かに人生は教訓に満ちているのだが、万人に当てはま
る教訓なんか一つもない。ひと殺しだってピンからキリ
だ。ましてドロボーなんか、、、。
上滑りの世の中では、時として、いや当たり前のように
天と地が、善と悪がひっくり返る。
正義が良い世の中を作るわけでは断じてない。信頼と思
いやりが作るのだ。
信頼と思いやりが良い世の中を作るというのを性善説と
云い、対して正義が良い世の中を作るという(思違い)
のを性悪説というらしい。
だから160人を射殺した人間が国家的英雄となったり
もする。
自分が(絶対的に)正しいと思えば、他のもの全ては間
違っている(悪)となる。
正しいがピン先ほどになればナチスにだってなる
正しいと正しいが並びたてばどうなるか、、、
なんて言うまでもない。
間違っていると間違っているなら、仲良く握手とまでは
いかないまでも、謙虚な気持ちぐらいは生まれるかも。
かのホッブズの国家論は人類史のリアリズムを無視した
強弁以外のなにものでもないだろう。
人類の定常状態とは平和そのものであって、だからこそ
今日という日があるのではないのか。
辛うじてだが・・・。
某癌内科医は自分が末期癌になって初めて悟った、
「オレは何もわかっていなかった」と。
医者(医学)は病人を救いもするし殺しもする。
同じようにして法律が悪人を作ることもある。
世の中の病人と悪人が増えこそすれ減ることがないのは
どうしてなんだろうねえ?
黴菌にでも対するように隔離し人間扱いしないからだろう。
そうやって病が病を作り悪人が悪人を作り増殖してゆく。
人間なんてその身になってみなけりゃなあんにもわかりゃ
しないんだ、きっとね。
模範生でなかった僕やあなたはとっても人間らしかったの
かもしれないね。
2022年01月22日
シンドラーズリストより、 二つのコップ

シンドラーズリストより
二つのコップ
文明とは「コップ」、、、
なのかもしれない、いやきっとそうだ。
つまり、天からふる水を”小さな”コップで受け
止める。
僕たちの国も会社も学校も町内会もみんな小さ
な小さなコップ。僕たちの一生だってそうだ。
国と国は、人と人はそんな小さなコップのなか
で諍い、憎み合い、傷つけあい、殺し合う。
天からふる水は大きな海で受けなければ量るこ
とができない。
強者のありかたは弱いものを救うというところ
にあって、弱いものを迫害してやまないのはな
んというか?弱者という。弱者は同じ弱者を疎
んじるのだ。
たった二週間でナチスに侵略されたポーランド
のクラクフという町に二人のドイツ人が来た。
名前をアーモンとシンドラーという。
アーモンはユダヤ人の収容所々長として派遣され、
シンドラーはユダヤ人の資産と能力と労力を利用
して一儲けするためにやってきた。
どっちもどっち、狐と狸であるが、多分どっちが
いい人で、どっちが悪い人でもでなかったはず。
アーモンはシンドラーであり、シンドラーはアー
モンであり、付け加えるなら二人はあなたのに姿
であるのかもしれない。
僕自身に関して言えば、アーモンにはならないと
いう確固たる自信なんてない。
気付いてみれば、泥沼に足を突っ込んだように、
どこまでもアーモンはアーモンになり続け、シン
ドラーはシンドラーになり続けたのだ。
真の勝者は民衆を畏れる。なぜならば、民衆こ
そ大海に他ならず、真の勝利を量るのは大海た
る民衆以外の何ものでもない。
しかもそれは人類というコップのなかだけで量
ることはできない。人類の勝利を量るのは、更な
る大海であるすべての生きとし生けるもの。
もちろん人間だってひとつのコップだ。
そしてそれは大抵、暇人の戯言でなみなみと満た
されている。
2022年01月13日
罪と罰
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罪と罰
罪は人間と人間のあいだにあるものであって、法と人間
のあいだにあるものじゃない。
したがってこの世の中で罪とされているものの大部分は
取るに足らないものである。
その要点を押さえていないから、世の中に罪がのさばる
のを、人間の性根が腐っていくのを、誰も止めることが
できない。
そもそもが庶民から離れては存在しえないはずの政治が、
庶民と無関係なところで行われている。それは時代のせ
いでも何処の何某のせいでもない。
いかなる時代であろうと、どんな人間がやろうと変わら
ない。それが政治の原則であるからだ。
権力が生まれるところには必ず政治が生まれ、庶民を己
の手のひらに乗せようとする。
ドストエフスキーが言わんとしているのはそういうこと
なのだろう。
*
「政府や国家の権力は町会のゴミ当番と同じで替わり
番こでやればいちばん理想的なので、本来であれば、
いやいやながら内閣総理大臣になるとか、いやいやなが
ら大臣になるのがいちばんいいのです。それが国家の未
来の理想像だとおもいます。」(大情況論:吉本隆明)