2022年01月06日
ぼくとアン

ぼくとアン
「命枯れても涙枯れるな」
ってうたったのは誰だったっけ?
多分ぼくのような老いぼれだろう。
(赤毛の)アンはこんなこといってる。
「バラが話せたら素敵じゃない。きっと
素晴らしい美しい話をきかせてくれるわ」
ぼくとアンはきっと、ト・モ・ダ・チだ。
2022年01月05日
怒りの葡萄
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怒りの葡萄
人間が一度懐を肥やす味を覚えると、それを忘れること
ができないものだ。
歴史家たちがどんなに小難しい理屈を並べ立てようと、
近代という時代はそういうわかりやすい人間の本性で割
り切れると思って良い。
自分の周りをざっと見渡してみるがいい、例外は百人に
一人もいないはずだ。
どんなに世の中が複雑になっても、我々の周りで日常的
に起こっていることは、世の中の天辺でも起こる。
もちろん恐ろしく頭の切れる奴が間に立つから、巧妙に
本音を隠そうとするが、本音は隠せても本性は隠せない。
資本主義の宿命的欠陥もそれだし、社会主義だってマルク
ス的な原点とは程遠い汚点を残してしまった。
もちろん資本家たちとすれば、それを見逃す手はない。
自分たちの醜いエゴイズムを糊塗する格好の材料にした。
そしてお互いが親の仇のようになってしまったわけだ。
どっちもある意味で正しいのかもしれない(それを言うな
ら、ナチズムだって同じようなものだ)が、僕に言わせ
れば足元が全然見えていない。
あの1930年代の世界恐慌の最中にさえ、目を覆うよう
な弱肉強食の痛ましい光景が世界中で見られた。
それを取り上げてベストセラーになったのが、スタインベ
ックの「怒りの葡萄」である。
米国中西部で(起こるべくして起こった)ダストボウル
(過剰な開墾によって起こった砂嵐)を、これ幸いとして
農業の資本主義化の嵐が吹き荒れた。大資本による農産物
の価格操作と、それによって流民化した農業労働者の過酷
な賃金操作。
銀行が農民に運転資金を融資し、その後彼らが返済不能に
なるように農産物の価格を操作した。そして濡れ手の粟の
ごとく農地を差し押さえ我が物とした。
片方でたわわに実った果物が腐れていくのに、他方では飢
えてやせ細った貧民の子どもたちがいた。
その情景を見るに見かねた大勢の人たちはいたが、ミソも
クソもひっくるめるようにしてレッドパージで、追放され、
或いは殺された。
そんなことが近代という時代においてどれだけ繰り返され
たことだろう。
その泥沼から未だに僕たちは抜け出せていない。
2021年12月29日
稲妻

稲妻
こんなヘヴィな表現の仕方があるんだ。
昭和二十年代ニッポンの、有象無象の凄まじくも清々
しい人間ドラマだ。
ドロドロの人間の業とか性をありのままに描きながら、
結局爽やかなラストに持っていく。
暗と明、醜と美、憎と愛・・・。
邦画のベスト3に上げたい成瀬監督の傑作。
あの時代の生臭い匂いにいささか身に覚えがあるもの
として、「三丁目の夕日」に感じた違和感とか嘘っぽ
さの意味が分かる。
今時の作者には遠く及ばない問題の切り口。
時代が人間を作り、物語を、深い余韻を綴るのだろう。
時代が薄っぺらになるとそれなりの作品しか生まない。
花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき。
この歌の持つ情感の切なさと美しさにもしも同調できな
い人生があるとするなら、それは寂しすぎる生涯である。
若き日の高峰秀子と香川京子の何とチャーミングなこと。
2021年12月20日
コーヒーが冷めないうちに

コーヒーが冷めないうちに
”お願いします、あの日に戻らせ
てくださいー”。
誰にだってそんな「あの日」がきっと
一つや二つはあるでしょう。
でもそれは儚い望み・・・。
いやいやそうでもありませんよ、
都市伝説のあの地下喫茶店、フニクリフニクラ
のペアテーブルの椅子に座れば「あの日」に戻
ることができるのです。
ただし熱いコーヒーが冷めるまでの束の間、
そしてただ一回こっきり。
もしそうして時間をさかのぼったとして、
あの日がこの日になることは絶対ありません。
なぜって、現実を変えることは誰にもできない
から。
ただ・・・そうですただ、現実を変えることは
できなくても、変えることのできない現実に
あなたがどう向かい合うかということになると
話は別です。
メモリは脳がつくった残影で実在ではありません。
だからこれまでがこれからになるって訳じゃない。
これからがこれまでをつくっていくのです。
・・・浪漫の花咲く日々を綴っていくのです。
あなたもどうぞいらっしゃい、あの日の
あなたの愛するあの人の切ないメモリーへ、
コーヒーが冷めないうちに。
2021年12月19日
ミ・ナ・マ・タ(水俣)

ミ・ナ・マ・タ(水俣)
ミナマタとは何であるかと?と問われて
被害者の漁師、緒方正人さんはこう答えた。
「ミナマタはわたし自身である」。
「永遠に満たされることのない豊かさを追い求めた
私たちの生活がミナマタを生んだ。
犠牲になったのはヒトだけではない。海が死に、
空が死に、そこに棲むすべての命を奪い、これから
も奪うであろう」。(田口ランディ)
そういう文脈からすれば、コロナウイルスも犠牲者
である。緒方さん流に言えば、
「コロナはわたし自身である」のだ。
世界は別にあなたやわたしのためにあるわけじゃない。
だから災厄は同じような確率で降りかかってくる。
予見可能性通りに人生設計を立てたつもりでも、形を
変え品を変えて、まるで不意打ちみたいに思いがけな
い災難が襲ってくる。
嫌なことは、望まなくてもそれとは無関係に向こうの
方からやってくる。
だから自分では決められないのだが、ミナマタは違う。
”チッソ”がたとえなくなっても第二第三のミナマタが
襲いかかり、”コロナ”がなくなっても第二第三の悪性
ウイルスが襲いかかる。
今のあなたがある限り。今のあなたが一つの種としての
人間に立ち戻らない限り、、、、。
2021年12月13日
肩書きのない人生
肩書きのない人生
高く遠いところから話すジジイなんか真っ平だ。
どうして同じ地べたから考えようとしない。
僕らはみんな脳味噌がついた地球の石の欠片で、
それに太陽の光が当たり雨水が染み込んで人となる。
だから、時が経つと乾いてひび割れてジジイやら
ババアとやらになる。
別に高く遠いところに行くわけじゃない。おん
なじ地べたの石っころだろう。
石っころから生まれて石っころにかえるだけだ。
そう思うと、なんか大きなものに包まれたような気
分になるから不思議なもんだ、人間ってのは。
だから、隣町に住む渡辺京二というお爺さんは
”肩書きのない人生”がとっても好きらしい。人間の
幸不幸は国家なんかとは無関係で、自分の言葉で喋り、
他人の眼差しで世の中を見つめることが大事である
という。
かくいう僕だって、自慢じゃないが、肩書きだけじゃ
なく財産もなく、目に見えるものは何一つない。
だから、家族に恵まれたのかななんて思う。
小さいのから大きいのまで、地球の石っころ同士が
宇宙と自然に抱かれて暮らしている。
七歳のハルくんも、四歳のミーちゃんも小石がなぜか
大好きで、綺麗なのを見つけると持ち帰り、おもちゃの
宝石箱に大切にしまっている。
2021年12月11日
プライベート・ライアン、そして、、、

プライベート・ライアン、
そして、、、
原題はセイビング・プライベート・ライアン(ライアン二
等兵の救出)。一見すると、単に一人の二等兵の救出作戦
を描いた映画で、なんの違和感もないようですが、実はそ
こにこそ、この名作映画の要点があるのだと思います。
つまりなぜ、一レンジャー部隊が命がけで救出するのがプ
ライベート二等兵でなければならなかったのか。
同じクロサワの七人の侍のオマージュ的作品として「特
攻大作戦」があります。死刑犯や終身刑犯などの凶悪な
十二名の元軍人を集めて、ナチスの要人が大勢集まる豪邸
を爆破全滅させるという作品です。
これならストーリー的に納得できます。
しかし、「プライベート・ライアン」はこれとは対照的な
設定になっています。単純に軍事作戦面での費用対効果の
面から考えても割に合わない作戦です。
実話に基づいているらしいのですが、なぜ、あのスピルバ
ーグがあえてこのテーマを選んだのか?
この作品で訴えたかったものとは何だったのか?
ということが僕の一番の関心事でした。
そこには今までの映画にはない、多面的な要素が交錯して
いるように思います。
スピルバーグといえば、ヒット作品を義務付けられたエン
ターテインメント映画人です。だから、そこに重厚な体裁
をおきながら、他方で根源的な問題提起を観客に向かって、
投げかけてきたのかなと思います。
その中で看過できないのが、国家や軍部サイドからのプロ
パガンダとしての戦争なるものの側面です。
D.デイのこの空前の大作戦は、一歩間違えば惨憺たる結末
になりかねないものでした。
上陸用舟艇による海兵隊の攻撃は、敵の機関銃の格好の標
的になりましたし、空挺部隊による敵陣地の真っ只中への
降下も非常にハイリスクなものでした。
実際に今までの作戦にない多大の犠牲者を出していました。
そこには、そんな作戦をけしかける側と、けしかけられて
従わざるをえない側との葛藤が当然ありました。
それを糊塗し、自分の子弟を戦場に送り出した家族にヒュ
ーマニズムを演出する、という姑息といえばとても姑息な
プロジェクトの一環が、このプライベート、ライアンの救出
作戦ではなかったのか。
僕としてはそう考えざるをえませんでした。
もう一つスピルバーグらしい視点というのがあったのかな
とも思います。
つまり疑問を抱きながらも救出作戦に従わざるをえなかった
レンジャー部隊の兵隊の一人々々の、まさしくプライベート
な心の問題です。
この矛盾と不条理に対して自らを納得させる理由が不可欠
だった。そしてめいめいがめいめいのモチベーションを模
索する中で、衝突しつつも、結局ほとんど全滅するという
結末になだれ込んでいく。
プロパガンダという点からいえば、「プライベートウオ〜」
ではもっと深刻でした。
シリアのホムスでは3万人弱でしたが、他の町におけるさ
らに大規模の民衆の犠牲(虐殺?)は、アサド陣営とIS
イスラム国陣営間のプロパガンダ合戦の犠牲者に他ならな
かったのですから。
(ISはパラボナアンテナを破壊して、
正確な情報が入らないようにした⇨わざと民衆を殺害さ
せた⇨国際世論の誘導)た。
その背景にはシリアが天然ガスのパイプラインの要衝である
シリアの米露などの主導権争いというのがありました。
という風に二十一世紀の戦争は、もうどこが敵で味方という
問題ではなくなっているのだと思います。
二十世紀に相次いで勃発した二つの大きな戦争は、急成長
したテクノロジーによってもたらされた社会の分断によって
おきました。戦争が貧困層(労働者?)のフラストレーシ
ョンの受け皿になりました。
二十一世紀の戦争も同じ構図のなかにあるのでしょうが、
少々いや随分と事情が異なってきています。
二十世紀までのテクノロジーには労働者が不可欠でした。
戦争も安価な労働の争奪という一面があったのは確かで
しょう。
しかし二十一世紀になると、そんな状況が一変します。
つまり労働が不要になってきたのです。
投資の大部分も投資効果の高いそういう分野に向けられる
ようになってきました。
情報関連のテクノロジーの進化は、ご存知のようにすさま
じいものがありますし、今では自動車、家電、住宅など私
たちの生活の隅々までロボットテクノロジーが入ってき
ています。
そうなりますと当然ながら、何よりお荷物になってくるの
が、蟻の群れのような、労働で生活を支えている無数の人
たちになります。言い方を変えますと、七十七億人の人の
群れがナント迷惑千万の存在となり果てるのです。
利益を圧迫する最大の存在が人間自身という、恐るべき倒
錯の時代がやってきつつあるわけです。
スピルバーク監督のことですから、ひょっとするとそうい
う時代の動向まで視野に入れてこの作品を作ったのかもし
れません。それが「プライベート」という一語に象徴され
ているのかも、、、ナンテ。
さて、いかがなものでしょうか?
2021年12月07日
巡礼の旅路
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巡礼の旅路
「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃない。
、、、僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何か
を強く信じることのできる自分を持っていた。そんな
思いがそのままどこかに消えてしまうことはない」。
(色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅
・・・村上春樹)
今にして思えば、、、、
生きるってことは巡礼のようなもので、心の中で自分
だけの聖地を探して迷路のような日々を追う。
道標があるってわけじゃない、未知の土地をあてどな
く歩き回る。
おそらくは多くの人たちがそうなのだろう。そして、
何かを強く信じ、強く信じることのできる自分であれ
ばあるほどそうなのだろう。
そして、信じることができるものに出会う者は稀であ
るだろう。何かを強く信じ、強く信じることのできる
自分であればあるほどそうなのだろう。
自分だけの聖地はエルサレムとは違う。富を、名誉を、
尊敬を、愛を、さらには学識を得ようとした、その挙
句にみんな自分自身を見失ってしまう。
世界をかっさらおうとすると、逆に君自身が世界にか
っさらわれる。結局その手にはビタ一文残らない。
世界の襟首を掴んだつもりが、いつの間にか世界に自
分の襟首を掴まれている。
大抵はそういう始末で人生を終わってしまうのだろう。
ただ、「思い」がある間はまだ旅は終わってはいない
のだろう。
巡礼の旅に幸あれ。
エルサレムのない放浪に祝福を。
「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃない。
、、、僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何か
を強く信じることのできる自分を持っていた。そんな
思いがそのままどこかに消えてしまうことはない」。
(色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅
・・・村上春樹)
今にして思えば、、、、
生きるってことは巡礼のようなもので、心の中で自分
だけの聖地を探して迷路のような日々を追う。
道標があるってわけじゃない、未知の土地をあてどな
く歩き回る。
おそらくは多くの人たちがそうなのだろう。そして、
何かを強く信じ、強く信じることのできる自分であれ
ばあるほどそうなのだろう。
そして、信じることができるものに出会う者は稀であ
るだろう。何かを強く信じ、強く信じることのできる
自分であればあるほどそうなのだろう。
自分だけの聖地はエルサレムとは違う。富を、名誉を、
尊敬を、愛を、さらには学識を得ようとした、その挙
句にみんな自分自身を見失ってしまう。
世界をかっさらおうとすると、逆に君自身が世界にか
っさらわれる。結局その手にはビタ一文残らない。
世界の襟首を掴んだつもりが、いつの間にか世界に自
分の襟首を掴まれている。
大抵はそういう始末で人生を終わってしまうのだろう。
ただ、「思い」がある間はまだ旅は終わってはいない
のだろう。
巡礼の旅に幸あれ。
エルサレムのない放浪に祝福を。
2021年12月05日
サイコーの人生
サイコーの人生
個の意思が及ばない運命がある。
時代精神の圧倒的な総和の中で、
真実からほど遠い苦渋に満ちた現実、
果たして真実でなく現実を生きた。
人生は長過ぎるのか、
やっとゴールが視界に入る。
アルバムを繰っても始まらない、
もうゲームオーバーなのだ。
死にざまがなけりゃ生きざまもなく
生きざまがなけりゃ死にざまもない。
やれやれ・・・・・。
誰でも死ぬことはできる。
たとえ、どんなに死にたくなくてもね。
でも、
誰でも生きることができるわけではない
(ようだ)。
たとえ、どんなに生きることにご執心で
もね。
一生の心臓の鼓動数は決まっているらしいが、
そんなことは今更どうでもいいだろう。
問題はその心がどれだけときめいているかだし、
どれだけときめいたかだ。
恋に狂ってもいい、夢にチャレンジしてもいい。
そして挫折し、傷ついてもいい。
きらめく光の後ろには、暗い影が落ちている。
光がなければ闇もない。それがきっと生きるっ
てこと。
生きることができる人はきっと、
いつでも死ぬこともできる。
2021年12月04日
バカの壁

バカの壁
世の中にはどうも二つのタイプがあるらしい。
下手にいじくらない方がいいタイプと、
(自力で伸びていくタイプ)
いじくらないと箸にも棒にも引っかからないタイプ。
これからの時代を引っ張るのは絶対前者の方で、
後者は多分なんとなく時代の足を引っ張る役割かな?
問題は、、、、
学校でも家庭でも、どうやら後者を育てるのに躍起に
なっているように見えることかな。
学業成績というのは記憶力のあるなし次第で決まり、
それ以上でも以下でもない。記憶力さえあれば東大生
にもなれるが、そこで終わり。
そこでは万事が正解ありきだから、正解を暗記できれ
ばオーケーなわけで、頭がいい悪いとは何の関係もな
い。なぜって正解がない問題に対してはお手上げの人
間が利口なわけがないからだ。
あの「バカの壁」の著者、養老孟司の体験記。
(東大医学部の解剖学教授時代、解剖の実習中の話)
ある学生がのたもうたそうです。
「先生、この検体(解剖中の身体)間違っています」。
テキストにない現実は間違っている(正解でない)。
こんな学生がホントに医者になれるんだろうか?と
マジで心配になったそうです。
いうまでもないことですが、記憶力というのは人間の
能力の一部であっても全部じゃない。
最近こういう本がよくベストセラーになったりする。
<子供の能力を100%引き出す方法>
そして、こんな類が文科省の学習指導要領になったり
もするから始末に負えない。
”100%引き出す”なんて簡単に言ってくれるもんだ。
子供の能力なんてそれこそマチマチで、そうそうたや
すく見つけられるもんじゃないだろう。
いわゆる落ちこぼれにだって凄い才能が隠れている。
そんな才能を発見していくのが教育の使命なんじゃあ?
そんなこともわからないのかなあ。そんなこともわから
ないのがバカの壁になっているんじゃないかと養老先
生は多分言いたかったのだろう。
マドン監督はショーヘイ・オータニを下手にいじくらな
かった。だから彼は前人未到のスゲ〜ことを成し遂げ
ようとしている。
僕だって自分の子や孫には、下手にいじくらない方が
いいタイプの人間に育ってもらいたいと念じている。
その結末がどうなるかなんて、神ならぬ身の僕があれ
これ心配することじゃないしね。
2021年12月03日
笑うセールスマン

笑うセールスマン
当たり前の話なのだが、、、
今まで商品を売る気満々のセールスマンに会ったこと
はあっても、全く売る気のないセールスマンに会った
ことはない。くたばる前に一人くらいは会ってみたい
ものだが、多分無理な話だろう。
「売る気がない」と「セールスマン」という二つの語
彙が一緒になることほど、僕たちの生きてきたシャバ
では矛盾した組み合わせはない。
というよりも、僕たちが生きているということ自体が
何らかの意味でセールスマンであるということに他な
らない。セールスマンであることを止めた時点で、極
端に言えば、一人前の社会人とはみなされない。遺憾
ながら、セールスマンでなき者、人にあらず、という
わけだ。
生活用品は勿論、今なら情報とか戦争とかも商品だし、
知識とか宗教さえ商品となっている。商品である以上は
コスト以上の対価を獲得することが最終目標である。
稼ぎのない人間はセールスマンでなく、セールスマンで
ない者は一人前の人間ではない。
その当然の帰結として、国家は稼ぎのない国民には冷淡
になり、有るか無きかの存在とならざるをえない。
しかし、、、、
一人の人間の死期が近づいてくると、問題は急展開する。
そうやってこれまで生きてきた世界が怖ろしく薄っぺら
に見えてしまうのだ。
「死」という側から眺め始めた途端に、生きるというこ
との意味が全く違ったものになってしまう。
死を引き受けることに合意した時点で、人は普通でない
資質を手に入れる。それは何か?
知覚という能力が一気に拡大する。そして今まで見えな
かった情景が眼前に展開される。たとえ一時的なもので
あっても、少なくともそれは物心ついてからというもの
一度だって見たことのないものだ。
言葉を変えれば、最後の最後になって濃ゆい霧が晴れて
僕の孫たちが見ているような情景を眼にするわけだ。
そして慄然とし、ある意味において絶望もする。僕は
なんという長いくだらない年月を我慢し続けてきたのだ
ろう、、、って。
僕たちが後生大事にしてきた知識や理屈や経験がどんな
に無意味であったかに気づくわけだ。
当たり前の話なのだが、、、
今まで商品を売る気満々のセールスマンに会ったこと
はあっても、全く売る気のないセールスマンに会った
ことはない。くたばる前に一人くらいは会ってみたい
ものだが、多分無理な話だろう。
「売る気がない」と「セールスマン」という二つの語
彙が一緒になることほど、僕たちの生きてきたシャバ
では矛盾した組み合わせはない。
というよりも、僕たちが生きているということ自体が
何らかの意味でセールスマンであるということに他な
らない。セールスマンであることを止めた時点で、極
端に言えば、一人前の社会人とはみなされない。遺憾
ながら、セールスマンでなき者、人にあらず、という
わけだ。
生活用品は勿論、今なら情報とか戦争とかも商品だし、
知識とか宗教さえ商品となっている。商品である以上は
コスト以上の対価を獲得することが最終目標である。
稼ぎのない人間はセールスマンでなく、セールスマンで
ない者は一人前の人間ではない。
その当然の帰結として、国家は稼ぎのない国民には冷淡
になり、有るか無きかの存在とならざるをえない。
しかし、、、、
一人の人間の死期が近づいてくると、問題は急展開する。
そうやってこれまで生きてきた世界が怖ろしく薄っぺら
に見えてしまうのだ。
「死」という側から眺め始めた途端に、生きるというこ
との意味が全く違ったものになってしまう。
死を引き受けることに合意した時点で、人は普通でない
資質を手に入れる。それは何か?
知覚という能力が一気に拡大する。そして今まで見えな
かった情景が眼前に展開される。たとえ一時的なもので
あっても、少なくともそれは物心ついてからというもの
一度だって見たことのないものだ。
言葉を変えれば、最後の最後になって濃ゆい霧が晴れて
僕の孫たちが見ているような情景を眼にするわけだ。
そして慄然とし、ある意味において絶望もする。僕は
なんという長いくだらない年月を我慢し続けてきたのだ
ろう、、、って。
僕たちが後生大事にしてきた知識や理屈や経験がどんな
に無意味であったかに気づくわけだ。
2021年11月28日
会社なんていらない!

会社なんていらない!
「誰のものか、でなく誰のためにあるのか?」
そういう視点を失った会社なんていらないし、早晩
滅びる運命にある、、、、と
余人ならぬ名経営者と謳われた丹羽宇一郎が言え
ば説得力がある。
まさに我が意を得たりと気分爽快の小春日和の一日
となった。
利益というのは(とりわけ短期)株主の独占物でも
なく、株主のための会社というあり方自体が主客転
倒でしなく、自由主義経済の是非云々より前に経済
の基本原理に反している。
大事なのは中身である「人」であって、会社という
のはその人のための一つの形態であり手段であるに
過ぎない。
である以上、会社のための会社と堕した会社という
組織は成り立たない。
それにそもそも社会の経済的流通を担うのは会社で
ある必要性などどこにもないのである。
これからの社会を担うのは、成長を社員と社会の発
展につなげることができる会社以外の組織である。
2021年10月19日
いま、幸せかい?

いま、幸せかい?
「ずいぶん賑やかねえ」
「ええ、日本で一番賑やかな通りですから」
「みんな幸せなのかしら?」
「そうですねえ、少なくとも不満はないでしょうね」
「・・・不満がなければ幸せなのかしら?」
「・・・・・・・・」
映画「お帰り寅さん」より
もし、不満がないのに幸せでないとしたら、
どうなんだろう?
不満があれば不幸せなんだろうし、、、。
`
シリーズが進むにつれポジションが
微妙に変わってくる。寅さんは相変わらずだが、周囲が
変わっていく。
周囲の通俗化がめだってきて、寅さんの住んでる人情世
界自体が現代社会へのアイロニーとなって翳をおとす。
人情とはお互い様精神で、心のゆとりのことをいう。
主観と標準化はあくまで例示であって、その他諸々が
一般化されてどうも世間が狭くなっているような気が
する。
誰も彼も退屈な良民に化けなければ生きにくい世の中で
異質な存在を許容できなくなった。
一言でいえば、何もかにもがクソ面白くもない。
毎日がクソ面白くもなければ不満はないかもしれないが、
ただそれだけってことなんだろう。
ってなわけでつい訊いてみたくなる、
2021年09月04日
海辺のカフカ

海辺のカフカ
「思い出とは一体何なのでしょうか?」
「それはあなたの身体を内側から温め
てくれます。
でもそれと同時にあなたの身体を内側
から激しく切り裂いていきます」
「では未来とは一体何なのでしょう?」
「それは忘却です。
そして忘却とは全てなのです」
あなたは今日、明日への扉の前に佇む
2021年08月24日
すべての恋愛映画へ
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すべての恋愛映画へ
”森羅万象これ如何”と問われて、古今東西の賢人
らは異口同音にこうこたえています。
「なにものにもとらわれないこと」
「与え与えられる,分ち合う」
「すべてのものを愛しなさい」
では、
『愛』とはなにであるのか。
ある詩人は云います、その若かりし日に・・
”百万年、人は孤独であった”と・・・
だから愛する、これは人間の本源にある
万有引力なのだと。
`
また女装の東大教授である安富歩氏は、
自分自身でないもののフリをしててはいけない。
(自分自身優等生であったのは、
単に母親の虚栄心をみたすためにすぎなかった)
そして「愛」とは何であるかの問いにこう答えます。
”一人の人間が、魂を自分自身の思い通りに成長
させるために愛情によってそれを支えるもの”
人間の中心には途方もない欲求という名の
エネルギーがある。
その欲求とは愛であり存在の最も偉大なアートである。
スタンダールはそれを愛の結晶作用といいました。
結晶作用というのは、棒を土にさしておくと、いつの間
にか岩塩が白い宝石のような沢山の枝をつくる、
フランスや欧州ならではの自然現象のことです。
`
結晶作用というのは学問にも芸術にも当てはまります。
学問の知識は結晶化して知恵となります。
岡本太郎のモチベーションといっていい縄文式土器は
ありのままの魂が結晶したものです。
さてあなたにとってこれまで「愛」はなにものだった
でしょう?
そしてこれからあなたにとって「愛」はどんな存在
になっていくのでしょう?
”森羅万象これ如何”と問われて、古今東西の賢人
らは異口同音にこうこたえています。
「なにものにもとらわれないこと」
「与え与えられる,分ち合う」
「すべてのものを愛しなさい」
では、
『愛』とはなにであるのか。
ある詩人は云います、その若かりし日に・・
”百万年、人は孤独であった”と・・・
だから愛する、これは人間の本源にある
万有引力なのだと。
`
また女装の東大教授である安富歩氏は、
自分自身でないもののフリをしててはいけない。
(自分自身優等生であったのは、
単に母親の虚栄心をみたすためにすぎなかった)
そして「愛」とは何であるかの問いにこう答えます。
”一人の人間が、魂を自分自身の思い通りに成長
させるために愛情によってそれを支えるもの”
人間の中心には途方もない欲求という名の
エネルギーがある。
その欲求とは愛であり存在の最も偉大なアートである。
スタンダールはそれを愛の結晶作用といいました。
結晶作用というのは、棒を土にさしておくと、いつの間
にか岩塩が白い宝石のような沢山の枝をつくる、
フランスや欧州ならではの自然現象のことです。
`
結晶作用というのは学問にも芸術にも当てはまります。
学問の知識は結晶化して知恵となります。
岡本太郎のモチベーションといっていい縄文式土器は
ありのままの魂が結晶したものです。
さてあなたにとってこれまで「愛」はなにものだった
でしょう?
そしてこれからあなたにとって「愛」はどんな存在
になっていくのでしょう?
2021年08月23日
もしもこの村を愛するならば

もしもこの村を愛するならば
”もしもたくさんのわたし(たち)が、この村を
愛することを知ったなら、まだ間にあいます。
人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救
えます、きっと。”
<もしも世界が百人の村だったなら>より
`
もしも「この村」を、「この国」「この世界」
に言い換えたらどうなのだろう。
ちょっとねえ無理してる感じがつきまとう。
爪先立ちの踊り子みたいだし、息切れしそう。
国にしても世界にしても、記憶レベルの歴史(民
族記憶ってのかな?)がなさすぎるし、
非日常的すぎる。
逆に「この家族」にしたら、もうそんなこと当たり
前というか。とても自然な感じ。
「この夫婦」や「この恋人」にしたらどうだろう。
憎しみや非道がそこに割り込んできたら、地獄に向
かって一直線だよね。
もしもたくさんのわたし(たち)が、
たくさんのこども(たち)だったらどうなのだろう?
というか、いつの間にたくさんのこども(たち)が、
たくさんのわたし(たち)にすり替わったのだろう?
たくさんのこども(たち)が、たくさんのママや
パパやバアバやジイジや妹やニーニーを愛さないとし
たら、それはもうこどもじゃないんだよね。
2021年08月19日
ゲイジュツとかマンガの神様

ゲイジュツとかマンガの神様
「冥界からの電話」(佐藤愛子著)が超がつく
ベストセラーになりそうな雲行きになってきた。
九十歳で「九十歳なにがめでたい」なるベストセ
ラーをものしたばかりの著者が、今回は御年齢九
十五歳で読者への最後のメッセージだとかいうオ
ハナシ。ちなみに本書はノンフィクション、つま
り実話ということである。
まあね、S44年直木賞の「戦いすんで日が暮れて」
というすさまじい内容の短編小説(夫が残した莫
大な借金との奮闘記)以来、開き直りの人生を全う
した彼女のラストランにふさわしい題材で、なんて
たってつい嬉しくて小躍りしたくもなる。
``
肉親の借金との苦闘といい、あの世とのご縁といい、
この世はまさに天国と地獄のスクランブル交差点の
ごときものである。それやこれやを自分の体験に投
影すれば一事が万事、到底他人事とは思えない。
身につまされて仕方がない。
”努力は裏切らない”ていうけど、水木しげるっていう
漫画家さんは”努力は裏切る”っていった。
どっちが本当かだって??
そんなこと知らないけど、前のひとは努力が運良く
実ったからそう思ったんだろうし、そのあとで、
もし失敗したら水木しげるさんになるんだろうねえ。
ただ、佐藤愛子さんって作家が「努力」って言葉を
使ったの見たことない。
``
ゲイジュツの世界の努力は、行為の単なる量でもない
し、あるいは質でもないかもしれない。ゲイジュツの
方から人を選ぶ。”個”のレベルをある意味超えている。
原因と結果が紐でつながっていない。
「アンタこれやっちゃえ」って、心の中か天の上か知ら
ないけど、なんかしら声が聞こえてきて、
「やっちゃった」ってのが創造なんかなあ。
仕方なくかもしれないし。
だからはたから見たら気違い染みた努力でも、
その張本人にしてみれば、努力なんて意識は爪の垢ほ
どもない。
もしあったら、なんにも生まれないし生めない。
ある意味宙ぶらりんの、箸にも棒にもかからない人間を
意地悪なゲイジュツの神様は好きみたい。
2021年08月19日
フォローミー

フォローミー
「結婚は目的地じゃないわ。辿り着いたら二人ともパ
スポート 捨てちゃうなんておかしいよ。」
「昔の関係に戻りたいんじゃない。私は進みたいの。」
「娼婦と客はお互いを軽蔑しながらベッドにもぐるの。」
はいはい、一々もっともすぎるお話ですわ。
でも今日一日はヒッピーになって、ビートルズと、
インドで、マハリシの教えを黙ってきくの。
`
本日のデートくらいはお喋りノンノ。
そう今日の私は、あなたの「妻」じゃなくって、
ひとりの「女」。
いつもの私じゃない、本当の私をみつめて。
遠すぎるでもなく、近すぎるでもなく、ふたりのあい
だに、初夏の風がわたり、こもれびが光るの。
お喋りしたくてもガマンガマン、言葉のないふたりの世
界を噛みしめたいの。
ベーコン通りから胡椒通り、ダチョウ街にプリン街、
それからハンプトンコートの迷路でかくれんぼして、
キューガーデンの温室あたりでお別れしようね。
うつろな自分と向き合う日々はウンザリ、
あなただってそうでしょう?
本日のデートはお喋りノンノ、自由なハートの、正真正銘
のふたりと出会うの。
2021年08月16日
最後のジェダイ

最後のジェダイ
何がリアリズムたって、自分が死ぬこと以上のリアリズム
はない。100%の確率なんて、生きてる間はまずお目に
はかかれない。なんでもコンマ○%のハズレがあるもんだ。
しかしそんなことも、墓場が近くならなきゃわからないの
が人間ってもんか。
人間は頭で考えてるようで実は身体で考えてる。
身体の方が頭よりずっと「頭がいい」
そんな簡単なことが年取ったおかげでようく理解できるよ
うになった。こうなってくると爺さんになるのも悪く
はない。
その他ユングの世界観とか色々・・・。
それでもなお今一つ腑に落ちないという向きには、
吾輩十八番のアバウトさでアレンジメント。
「神の粒子」といわれる、質量の起源である、
「ヒッグス粒子」・・・。
「あらゆるところにあるが、眼に見えず通常は感知するこ
とができない。
それであらゆる粒子が水の中を進む時のように動きにく
くなった。この動きにくさから質量(重さ)が生まれた」
`
以上をドラマチックなストーリーにしてみると・・・
なにやら見えてきたぞ~
どうやら「スターウオーズ」になるらしい。
映画の中でスカイウオ-カーやヨーダら、ジェダイの騎士
が操る、お馴染みの「フォース」がどうも「ヒッグス粒子」
がひな型になっているようだ。
`
「いたる所に存在し、全ての物質をつなげて世界を形成さ
せている力」が「フォース」。
「神の粒子」の説明とそっくり。
このフォースを信じ、共にあることで、ジェダイは他人には
ない力を身につける。
たとえば・・・・・
・触れずにものを動かす
・他人の心を読める
・他人の心を操る
などなど・・・・・・・・。
ボケて動きにくくなると、質量が生まれるとナ
そして死んだら・・「フォースと一つになる」
2021年08月13日
その日のまえに

その日のまえに
末期がんの妻は何度も何度も書き直した末、
最愛の夫に遺言状を残した。担当の看護士長
に託されたその遺言状は、妻の依頼によって
死後3カ月後に夫の手に渡される。
封筒から一枚の便箋を取り出す。戸惑いながら、
ふるえる指先でひらくと、白い紙面に妻の肉筆
でたったひと言・・・迷って迷った末に、意識
喪失寸前に綴られた一字々々である。
「忘れてもいいよ。」
・・・そうそこには綴られていた。
永訣に向かい合うとき、人の魂は試される。
逝く方も、遺される方も。
お墓参りには行きましたか。
夏の盛り彼岸花、
蝉は鳴いていません。