2024年03月20日

マザーツリー (親はなくとも・・・)

http://mutsumi-kai.com/
    ↑↑
むつみ会結婚相談室の
ホームページ&ブログ


木、テキストのイラストのようです

マザーツリー
(親はなくとも・・・)





カナダの女性の森林生態学者いわく。
「木と木がつながりあい、お互いを認識し、栄養を送り合
っている」
特に古い木をマザーツリーと呼んでいる。なぜかというと
マザーツリーは他の木に多くの炭素を送っているから。
人間だって同じですね。自分自身の生涯を振り返ってみる
と、母親から幼児期はお乳をもらい、大きくなっても母親か
ら貰ったものは少なくない。それに対して僕の方からあげた
ものとなると、、、母の日のカーネーションくらいか、、
も贈った覚えがないし。
また曰くには、、、、
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
こんな含蓄ある言葉(特に前段)は女性のそして母親でもあ
る人の唇からしか出てこないんだろうな。
「死が生きることを、、、」なんて、命がけで命を生み出し
た人からしかでてこない。
いや森の中では多分そんなこと当たり前なんだろう。
さて、末期がんの病棟のお医者さんがいうには、
死を間際にして周囲の人たちに生きる勇気を与える患者と
逆に死の世界に引き摺り込むような気分にさせる患者とが
いるらしい。前者のような患者は稀で、後者の患者がほと
んどのなので、それを毎週のように看取らなければならな
い、たいていの医者は精神に変調をきたすらしい。そりゃ
そうだろう。
もし年々そんな患者が増えてきているのだとしたらやりきれ
ない話であるだろう。つまりは、、、、
「死が生きることを不可能にし、年老いたものが若いものか
ら力を奪っている」
ということにもなる。
年老いた患者を年老いた親と言い換えてもいい。年老いた親
とはそもそもどんな親だったのか。おそらく世間的にはほ
ぼ文句のつけようのない人たちだったのかもしれない。なぜ
って現にそんな親がほとんどみたいだから、今は、、、。
それなのになぜ、、、?親と子の間に気持ちの根本的な齟齬
があるのかもしれない。
親だから誰しも当然親として当然のことをしてやりたいと思
う。ただ、その親として当然なるものが、子どもの側からし
たらどうだったのか?そういう疑念をさし挟む余地がないほ
どそれは親にとっては余りにも当然すぎることだったのだろ
う。でもそれは子どもにとってはどうなのか、あるいは余計
なお世話だったのかもしれない。
我が子にはできるだけ幸せな(あるいは無難な)人生を送っ
てもらいたい(親心?。そうは考えるが、まかり間違っても、
どんな災難や不幸に遭遇しても決してめげない大人になって
ほしい、という方向には考えようとはしない。
しかし命がけで命を生み出した人なら、ライオンなら、いや
マザーツリーなら、きっとそう考えるだろうと僕は思う。
人は平穏な世の中に生きすぎるとそれが全てと考えがちにな
る。過ぎたるはなお及ばざるが如しというが、至れり尽くせ
り(勉強嫌いなのに進学させるとかオモロくない職に就かせ
るとか、その他)は禁物だろう。親にとっても子にとっても
である。こんな子に育てた覚えがないのにと悔やんでも後の
祭りという話はそこらにゴロゴロ転がっている。
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
、、、というのは、いやしくも生きとし生けるものである限り
全てに言える。であるからして、やむなく親らしいことを何一
つしてやれなかったとしても落ち込むことはない。”やむなく”
という但し書き付きではあるだろうが。親はなくとも子は育
つというが、どうも今どきは親がない方が子が育つもかもし
れないなんて失礼なことを思ったりしてしまう。
子どもは強いよ、親が思ってるより百倍もね。オワリ。


http://mutsumi-kai.com/
    ↑↑
むつみ会結婚相談室の
ホームページ&ブログ
  


Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 17:48Comments(0)日記人生観