2024年03月26日

ジャンク化する世界

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ジャンク化する世界




ジャンクとはガラクタのこと。
僕も今年九月で後期高齢者とやらになるわけで、めでた
く?公私共に認めるジャンク世代の仲間入りです。
頭も身体も確かにガラクタになっていることは日々実感
していますが、だからといって心までガラクタになった
らおしまいだなと自戒しています。
なんにでも寿命というものがありまして、それをプラスに
捉えるかマイナスに捉えるかは大切なことでして、そこで
私たちは自分の心のあり方が試されるのかなと思います。
人間一人一人にジャンク化があるように、世の中のいろん
な物事にも同じことが言えます。政治も経済も国家も教育
も学問も、学歴社会も見返りがなくなれば収束します。
今の世の中をジャンク化している大元は石油とお金です。
石油という地下資源はいうまでもなく有限ですが、お金の
方も実は有限です。投資利得がなくなり、したがって金利
がなくなればただの紙切れになります。現に基軸通貨ドル
はもう虫の息で、あと十年の寿命というのが常識になって
います。
ドルがなくなりアメリカが崩壊し石油がなくなれば、世界
はどうなるか、なんて考えたくもないでしょうが、その考え
たくもないことを考えないといけないときがすぐそばに近
づいています。
「廃王でなくして誰が王でないことを不幸に思うであろう」
というのは確かパンセの警句ですが、お金が紙切れになっ
て不幸に思うのはお金持ちだけで、そうでない人たちにと
っては大したことじゃない。大したことじゃないどころか
目の上のタンコブがなくなってさぞ清々するでしょう。
ただ衣食住のことだけはチャンと頭に入れといた方がいい。
余計にいらない。生きていけるだけでいい。そもそも余計
というのがジャンク=ガラクタのことだからです。
雨露をしのげて、ほどほどに食べて、凍えなければそれで
いい。あとはサラリーの代わりにストレスを抱える必要も
ないし、子どもだってほっとけば勝手に大人になる。みん
なが幸せで泰平だった時代とはいつもそんな暮らしに人々
が満足していた時代だったのだと思います。


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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 11:32Comments(0)日記人生観

2024年03月20日

マザーツリー (親はなくとも・・・)

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木、テキストのイラストのようです

マザーツリー
(親はなくとも・・・)





カナダの女性の森林生態学者いわく。
「木と木がつながりあい、お互いを認識し、栄養を送り合
っている」
特に古い木をマザーツリーと呼んでいる。なぜかというと
マザーツリーは他の木に多くの炭素を送っているから。
人間だって同じですね。自分自身の生涯を振り返ってみる
と、母親から幼児期はお乳をもらい、大きくなっても母親か
ら貰ったものは少なくない。それに対して僕の方からあげた
ものとなると、、、母の日のカーネーションくらいか、、
も贈った覚えがないし。
また曰くには、、、、
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
こんな含蓄ある言葉(特に前段)は女性のそして母親でもあ
る人の唇からしか出てこないんだろうな。
「死が生きることを、、、」なんて、命がけで命を生み出し
た人からしかでてこない。
いや森の中では多分そんなこと当たり前なんだろう。
さて、末期がんの病棟のお医者さんがいうには、
死を間際にして周囲の人たちに生きる勇気を与える患者と
逆に死の世界に引き摺り込むような気分にさせる患者とが
いるらしい。前者のような患者は稀で、後者の患者がほと
んどのなので、それを毎週のように看取らなければならな
い、たいていの医者は精神に変調をきたすらしい。そりゃ
そうだろう。
もし年々そんな患者が増えてきているのだとしたらやりきれ
ない話であるだろう。つまりは、、、、
「死が生きることを不可能にし、年老いたものが若いものか
ら力を奪っている」
ということにもなる。
年老いた患者を年老いた親と言い換えてもいい。年老いた親
とはそもそもどんな親だったのか。おそらく世間的にはほ
ぼ文句のつけようのない人たちだったのかもしれない。なぜ
って現にそんな親がほとんどみたいだから、今は、、、。
それなのになぜ、、、?親と子の間に気持ちの根本的な齟齬
があるのかもしれない。
親だから誰しも当然親として当然のことをしてやりたいと思
う。ただ、その親として当然なるものが、子どもの側からし
たらどうだったのか?そういう疑念をさし挟む余地がないほ
どそれは親にとっては余りにも当然すぎることだったのだろ
う。でもそれは子どもにとってはどうなのか、あるいは余計
なお世話だったのかもしれない。
我が子にはできるだけ幸せな(あるいは無難な)人生を送っ
てもらいたい(親心?。そうは考えるが、まかり間違っても、
どんな災難や不幸に遭遇しても決してめげない大人になって
ほしい、という方向には考えようとはしない。
しかし命がけで命を生み出した人なら、ライオンなら、いや
マザーツリーなら、きっとそう考えるだろうと僕は思う。
人は平穏な世の中に生きすぎるとそれが全てと考えがちにな
る。過ぎたるはなお及ばざるが如しというが、至れり尽くせ
り(勉強嫌いなのに進学させるとかオモロくない職に就かせ
るとか、その他)は禁物だろう。親にとっても子にとっても
である。こんな子に育てた覚えがないのにと悔やんでも後の
祭りという話はそこらにゴロゴロ転がっている。
「死が生きることを可能にし、年老いたものが若い世代に
力を与える」
、、、というのは、いやしくも生きとし生けるものである限り
全てに言える。であるからして、やむなく親らしいことを何一
つしてやれなかったとしても落ち込むことはない。”やむなく”
という但し書き付きではあるだろうが。親はなくとも子は育
つというが、どうも今どきは親がない方が子が育つもかもし
れないなんて失礼なことを思ったりしてしまう。
子どもは強いよ、親が思ってるより百倍もね。オワリ。


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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 17:48Comments(0)日記人生観

2024年03月17日

AIの正体とは?

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1人、子供、テキストの画像のようです

AIの正体とは?




「2045年問題」ってのが盛んに取り沙汰されています。
つまりどういうことかといいますと、AI(人工知能)が
人間にとって変わるのじゃないかってことのようです。
そんなの心配性の方達の取り越し苦労のような気がしま
す。だって、欧米風の近代の文明自体がすでにAI的であっ
て、今私たちの身も心もかなりそんな風潮にどっぷり浸
かっていると思うからです。
そしてそういう傾向に大分赤信号が点滅し始めて、反省や
ら見直しの機運が出始めているような気がします。二十
一世紀は人類史の大転換の時代と言われていますが、ど
うもAIという極端に近代的なものをもってそんな近代の危
機を乗り越えようとする思い違いがあるようにしか見え
ないのです。
「客観性」というと公平という語感が伴うためについ懐が
ゆるくなってしいますが、その客観性が不公平な世の中を
作り出しているのがどうも事実のように思われます。
「客観性」という述語に僕はちょっといかがわしい匂いを
感じ続けていました。いうまでもなく現在は過去の歴史の
積み重ねでできていますが、その過去の歴史というやつが
どうも客観性の塊でしかないような気がしてならないので
す。
客観性は具体的には情報データのすり合わせで導き出され
ます。そして情報万能という思い込みから私たちの世界の
技術、経済、政治などの領域が成り立っているようです。
ただそこには大きな落とし穴が大きな口を開けて待ってい
ました。それは何かというと、生命への真摯なアプローチ
です。意に反してなのか、それとも思惑通りなのかは分か
りませんけど、、、。
Aという人からみえるあなたと、Bという人からみえるあな
たは違います。違って当然なのです。どちらかが正しくて
どちらかが誤っているということは多分ないのでしょう。
そうやって正邪を積み重ねていくと正しいことは段々と針
の先ほどになっていきかねません。
そんな関係性の中に自分を投げ込んで、自分とは何か、自
分という存在とは何か、つまり生命とは何かを、いわば相対
的に問い直すのが「空」の意味だと大乗仏教ではいってい
るような気がします。
人間の物事の理解の仕方には二つっきりしかありません。
AとBは違う、でなければAとBは同じ、の二つです。
客観性は後者からは導き出されても、前者からは絶対に導
き出しえません。それがすなわち生命なるへのアプローチ
の第一歩なのではないかと思われるのです。
客観性によって生命の営みにアプローチするのではなく、
逆に生命の営みから遠ざかっていっているような気がして
なりません。現に技術も、経済も、政治もそのようになっ
てきています。
万事を(森羅万象をも)共通点で括って(分類して)”分か
った”という気分になるのが科学だとも言えます。分かった
というのは分けるというのと同義なのです。僕たちが学校で
習った物事の理解の仕方もそのようになっています。ですか
ら優等生ほど冷たく人を見る目がないということにもなる
のでしょう。
そんな優等生たちが寄ってたかってこね上げたのがAIである
ような気がするのです。



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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 11:13Comments(0)アカデミー

2024年03月09日

パラドックスの階段


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写真の説明はありません。


パラドックスの階段
Whatever Will Be Will Be





存在とはそこに”ある”もののことではない。そこに”なる”
もののことであり、ならしめているのはただひとえに意
識のわざである。
物質の最小単位である素粒子は普段は姿も形もないが、
電荷同士が引き合ってたまに一瞬膨大なスペースを奇跡的
に発現することがある。つまり私たちの存在とはそんな奇
跡によってできている。
ありとあらゆるモノ、ヒト、地球、宇宙、現象、人生など
などは意識が引き金となって現れる、達磨大師は死んだら
ひたすら何もないと言ったが、生まれる前には何もなかっ
たのだから死んだら何もないのは当たり前の話ではある。
であるとすれば、、、有が無になるように無が有になるこ
とだってあるのかもしれないなどと意識はしょうもないこ
とを考えたりする。
確かにしょうもないことなのではあるが、艱難辛苦の渦中
で逃げ場を失って意識が朦朧となったとき、今まで思いも
しなかった有が突如として発現することがある。
貧が貧でなくなり、苦が苦で、悲が悲でなくなる。そうや
って私なるものは”ある”が”なる”へ、そして新たな”ある”
へと突然変異する体験をすることがある。そういうパラド
ックスに満ち溢れているのも人生、というふうに僕はしょ
うもない考えを持っている。
私なるもの生長とはパラドックスからパラドックスへの階
段をよじ登ることのような気もする。私を世の中に言い換
えても多分いいだろう。ニュートン力学だけでは抑えるこ
とのできない力学があなたのすぐそばにあるかもしれいな
いということは頭の隅っこに入れておいても損はない。
所詮はしょうもないことかもしれないが・・・。
どんなに力を尽くしても一歩も前に進めない時には、パラ
ドックスの階段に足をかけてみるのも一理ではある。
♫ケセラセラ,Whatever Will Be Will Be.♫




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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 18:40Comments(0)人生観アカデミー

2024年03月07日

AIは無知である

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ハートの画像のようです


AIは無知である



AIは無知である。
文字通り知がないという意味での無知である。
もし知があるというならば、知とは何であるかについ
て知っていなければならない。知のための知などある
はずがない。そういう意味合いからいえばクイズ番組
の模範解答者も無知なのかもしれないのだ。
では、知とは何かといえば、それは生の実践に関わる
真摯な問いでなければならないだろう。したがってみ
んなの意見だから正しいというのは厳密な意味では知
とはいえない。AIはそんな最大公約数の知見の代弁者
にすぎない。
知とはみんなの意見ではなく、私の、またはあなたの
意見でなければならない。一人一人のかけがえのない
試行錯誤の人生から紡ぎ出された紋様みたいなもので
ある。頭でなく心に刻まれた皺である。人の心という
ものの深奥に、未知の世界にアプローチしていく試み
である。万巻の書を紐解いてどうにかなるものでもない。
消しゴムでたやすく消せるような文字の羅列を知と呼
ぶのは人間の否定にもつながりかねないだろう。今の
時代が切望しているのはAIの知ではなく人間の知であ
る。あるいは利としての知ではなく理としての知であ
る。文明の利器の最後の打ち上げ花火のようなものが
AIの知であり、それ以外の何ものでもない。
真円はどんなに精巧な機械でも描けない。職人の熟練
した技でなければ描けない。完全な球体を内蔵するも
のは半永久的に機能し次に繋がっていくが、機械が作
った不完全な球体を内蔵するものはその場限りでしか
ない。
そしてAIはついに芥川賞を選んでしまった(東京都同情
塔)。あれは(幸いに)AIが書かせたという小説でなく、
AI時代が選んだ小説なのだろう。
AIは決して”私は何も知らない”とは言わない。言った時
が運の尽きだからだ。しかし、何もかもを知ったかぶり
の小説など誰が読むものか。入学試験の問題じゃあるま
いし。
芸術がこの先バベルの塔になってしまわなければいいの
だが・・・・。



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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 07:40Comments(0)日記アカデミー

2024年03月02日

人間としての自由


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1人、水域の画像のようです


人間としての自由




アートはレベルが上がれば上がるほどシンプルになっ
ていきます。
限りなく単純化される。ゼロに近づくといってもいい。
象徴化されるといってもいい、でしょう。
でなければ、無限なる存在は表現できないからです。
言葉を並べれば並べるほどそこから離れていきます。
そしてヒトは、否、生きとし生けるものは意識しないう
ちに無限なるものを求めているのだと思います。だか
ら寿命なるものに故なく怯えるのでしょう。
俳句とか能はその一つの到達点なのでしょう。あのフラ
ンシス・ジャムですら俳句に出会った時無力感にとらわ
れたほどですから。幾星霜も読み継がれる物語も問わず
語りに永遠なるものを感じさせるからなのでしょう。
それに比べると一般的に諸学というものは元来が単純な
ものでも半ば恣意的に複雑化し、あげく複雑な網の目に
絡めとられて訳がわからなくなります。お喋りな人がそ
のうちに自分でも何をいっているのか分からなくなるよ
うなものでしょう。政治と経済がその典型です。そして
存在からどうしようもなく遊離していきます。
巧緻化されればされるほどコンセプトから遠ざかってい
きます。・・・闇に鴉、雪に鷺。
一つの思案もこの網の目に翻弄されて、あってもなくても
ないようなものへと化けてしまいます。そのうちに一人
一人の人間もあってもなくてもいいようなものへとなって
いくのかもしれません。
今、私たちが直面している真の危機は世の中が網羅的にな
っていくことだと思います。生成AIなどはそれを加速させ
ていくのでしょう。そうなりますと人間はいよいよ人間ら
しさ失っていくことになるでしょう。なぜなら人間の本質
とは部分的で有限的であるからです。
国家なるものができてから戦争が激増し格差が拡大したの
は、国家の運営は、例えば法律がそうであるように網羅的
でなければ成り立たず、その結果として、部分的で有限的
な人間の本質から乖離したからなのだと思われます。部分
的で有限的であるからこそ、そこに個性というものが生ま
れてくるのでしょう。個性という通路によって人と人は柔
軟な形で分かり合えますが、網羅的になると特定の立場や
見解に固執し通路は閉ざされていき、カタチばかりで中身
のない世の中になっていきます。つまり現代とは・・・
左脳偏重=言語=観念=本能的感性との乖離
あるいは・・・・
合理主義=合理の過剰=法律組織の緻密化拡大化=手続至
上主義=手続きによる人間支配。
つまり、人間の自己疎外です。
お互いの個性を受け入れなければ個性というものは成り立ち
ません。個性とは相対的であろうとする根源的欲求に他な
らないのです。
そうやって網羅的な社会は何も生み出せないのに、何もかも
を生み出そうとしているかのように見えます。
最後に・・・・・・・・・・
「松(私)が竹(あなた)にならぬというのは、人間の判断
で、松(私)からいえば、いらぬお世話である。松(私)は
あなたやその他人間の規則や原理で生きているのではない。
こういうのを自由というのである」
               <鈴木大拙>



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