2017年10月02日
戦争ありきは真っ赤な嘘だった・永遠平和のために
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戦争ありきは
真っ赤な嘘だった
・・・・永遠平和のために/続
人類の歴史は戦争の歴史ではないし、暴力と
殺戮の繰り返しでもない。
戦争をもし個人レベルでなく集団レベルの殺し
合いであると定義するなら、人類誕生五百万
年のうちせいぜい五千年前くらいからである。
つまり人類の歴史の九十九.九%が戦争とは
およそ無縁な平和な時代だった。
おそらく自然や野獣と戦うことはあっても人間
同士が戦うことはなかったであるだろう。
リアリストたちがいうように、国内と違い国際
社会は無政府状態であるから、
①国家中心主義
②安全保障が不可欠
③パワーポリテイクス
④権力闘争
にならざるを得ないのは少なくとも人類の歴史
における定常状態ではないし、軍事力の有効
性が減殺されたときには成り立たない。
事を日本に限るならば、戦争とは渡来者と共に
朝鮮半島からもたらされた「思想」である。
(岡山大学、松木武彦助教授)
戦争という発想すら存在しなかったかもしれない。
さらにホッブズやクラウゼビッツが前提とする
さらにホッブズやクラウゼビッツが前提とする
「主権国家の利益をめぐる常備軍同士の国家間
闘争」を戦争の定義とするなら、先述したように
非常に特殊な現象である。
そして近代国家の間における戦争は、それ以前
のそれ(宗教等を契機とする)とは異なり、資本
主義的合理性に基づいて行われる。
*
勝てば領土や資源(フロンテイア)を獲得したうえ、
勝てば領土や資源(フロンテイア)を獲得したうえ、
使った戦費は敵からの賠償金でペイできた。
権力者(=経営者)にとっては、ハイリスクハイリ
ターンの大変魅力的なビジネスモデルであった
わけである。
ということはビジネスモデルとしての魅力がなく
なる、あるいは損益が逆転すれば、戦争という
状況は成立しない。それが「新しい戦争」の方
向性である。
二十世紀前半に勃発した第一次と第二次の世
界大戦は国家総力戦であった。国家総力戦とは
何であるかといえば、
個々の軍人の練度や勇気や指揮官の作戦能力
というより、国家自体の有する総合的な軍事遂行
能力など、物量の多寡によって大勢が決する。
そして公私の区別がさだかでなくなり、増税や戦
時国債を民間人が負担し、戦闘犠牲者が戦場の
兵士より大になる。
そうして、国家利益の観点から戦争を正当化でき
る説明が国民を納得させる妥当性が希薄になる。
国家が国民の信頼を失い、空中楼閣化してゆく。
戦争遂行に莫大なコストがかかり、しかも先進国
同士では、フンテイアからのハイリターンも見込
めない。
現に第一次大戦では、英仏など戦勝国は戦後疲
弊を極め、日本が漁夫の利を得る結果となり、列
国から火事場泥棒と揶揄されたくらいであった。
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Posted by 熊本の結婚相談所むつみ会 at 12:54│Comments(0)
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