2021年04月12日
日本の本質を問う② 、山河破れて国もなし

日本の本質を問う②
、、、山河破れて国もなし
肥後の西郷といわれたのが、池辺吉十郎で、
千三百名の肥後党を引き連れて西郷軍に合流した。
だが西郷軍は、西南の役の関ヶ原と呼ばれた玉名
は高瀬の激戦で大打撃を受け、その後は敗走に次
ぐ敗走となる。
江藤淳が注目したのが、その敗走の様子である。
誰一人として脱落者が出なかった。
西郷や池辺らとともに最後の最後まで生死を共にし
た。戦史としては異例中の異例ともいえる。
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それは多分、勝敗を超えたやむにやまれぬ行動だか
らではなかったかと思われる。
一命を賭して、大河のごとき維新という時代の潮流
に抗った、、、、というより、
決起によって、茫漠となりつつある日本人的なるも
のの覚醒を促したのではないか。
たとえ自分たちの命は戦場や刑場の露と消えても、
必ずや思いを継ぐものが出てくる。
藤村の父親をモデルにした「夜明け前」の主人公、
青山半蔵が絶望の末に狂死する結末がここでどうし
ても交錯してくる。
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さて、西郷や池辺が目指したのは、
”第二の維新”
であった。
その”第二の維新”とは何であったのか?
それはまた確かに、現代の私たちが直面している大
きな時代のテーマに地下水路でつながっている。
池辺吉十郎の長男である池辺三山(のち朝日新聞の
主筆となった)が奇しくもその真意を、雑誌「経世
評論」の創刊号にて鮮やかに描いて見せた。
「我が兄弟姉妹の純質粋性なる脳中に存在せる我に
楽しき生活を与えたる日本国、我が愛すべき日本国」
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我々が目指すべき「国家」とは、このような日本人
同胞の生き生きとした青草のようなあり方を押し込
めるような、無味乾燥の全体主義的、帝国主義的な
構造物であってはならない。
また、西洋列強と対峙し、西洋文明にキャッチアップ
するだけの外発的なものに終始してはならない。
長い民族史を破壊し尽くした廃墟の上に築くものであ
ってもならない。そこには精神的なバックボーンのな
い未来が待っているばかりである。
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そして結局のところ、それは七十余年前の敗戦となり
終戦後の惨憺たる焦土となって可視化された。
維新のあと、わずか三十数年かそこらで西洋文明と
比肩すべき近代国家となり、また戦後二十年かそこら
で経済大国となった。
それをもって東洋の奇跡と呼ぶものは多いが、所詮は
西郷どんや池辺親子が恐れ、藤村が警鐘をならした
サル真似でしか、イエローモンキーでしかなかった。
前の敗戦は、国破れて山河あり、であったが、今僕た
ちが直面しつつある第二の敗戦は、山河破れて国もなし
になるかもしれない。
夏目漱石や南方熊楠の炯眼はまさしくそのような僕たち
の現在を見つめていた。