2022年06月21日
カッコーの巣の上で

カッコーの巣の上で
過って改めない、これ過ちといいます。
ひたすら過たない、これまた過ちといいます。
大いに過って大いに改める、これを学ぶといいます。
機械だって過って改めます、これイノベーションといいます。
かくして人間は機械に振り回されます。
機械を利用しているつもりが、いつしかイノベーションに縁
のない機械に自分がなってしまった、これをおそらく(ホ
ントの意味で)精神疾患というのだと思いますが、精神病
院とは狂いを認めない機械のシステムのことで、かくして入
院患者は狂った機械のことということになります。
不思議なことに、その病棟の窓から見える外部の人たち
には名前というものがありません。
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、
人と人のふれあいも「間合い」で決まるはずです。でも、
その病棟の窓から見ますと、人たちにはその「間合い」が
抜けています。
いやいくつかのアンチョコがあれば概ね間に合うのです。
それは多分、彼らが世界の「間合い」に呼吸を合わせるだ
けで生きてるからでしょう。
それに比べると、ここの人たちには、一人一人の「間合い」
が必要になります。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まりません。
過って改めない、これ過ちといいます。
ひたすら過たない、これまた過ちといいます。
大いに過って大いに改める、これを学ぶといいます。
機械だって過って改めます、これイノベーションといいます。
かくして人間は機械に振り回されます。
機械を利用しているつもりが、いつしかイノベーションに縁
のない機械に自分がなってしまった、これをおそらく(ホ
ントの意味で)精神疾患というのだと思いますが、精神病
院とは狂いを認めない機械のシステムのことで、かくして入
院患者は狂った機械のことということになります。
不思議なことに、その病棟の窓から見える外部の人たち
には名前というものがありません。
剣豪対剣豪の生死いかんが「間合い」で決まるように、
人と人のふれあいも「間合い」で決まるはずです。でも、
その病棟の窓から見ますと、人たちにはその「間合い」が
抜けています。
いやいくつかのアンチョコがあれば概ね間に合うのです。
それは多分、彼らが世界の「間合い」に呼吸を合わせるだ
けで生きてるからでしょう。
それに比べると、ここの人たちには、一人一人の「間合い」
が必要になります。「間合い」の方で合わせなければ、
何事も始まりません。