2021年08月21日
ハルマゲドンと憲法

ハルマゲドンと憲法
第一次世界大戦という特殊の受苦を、万有の受苦という
普遍に高めたのがシュレジンガ―といえる。
しかし第二次世界大戦の勃発により、人々はそれを忘
れ去った・・かのように見えるし、今も現にそう警告す
る論者もいる。
「現実政治に無関心を装い韜晦するのが知的ファッシ
ョンであるかのような時代はとうに終わっている。
おしゃべりはやめよう。斜に構えて済むほど事態は容
易ではない。反動こそが爛熟しているではないか。
ぎりぎりと思考を研げ。もう手遅れかもしれないけ
れども」(辺見 庸)
戦後七十有余年、資本主義(近代文明?)
が積み残した世紀末モデルは何ひとつとして軍事力や戦
争という手段では解決できない。
環境問題や格差など地球的課題のみならず、国家の利害
をめぐる紛争にしてもそうだ。
さて平和憲法は現実とかい離している、というのが改憲
論の根拠のつもりらしいが、倒錯の極みとでも言ってお
こう。なぜかってえと、、、法律は現実と矛盾している
からこそ存在する。
換言すれば、法律を現実に近づけるためにではなく、
現実を法律に近づけるために法律というものは存在する。
助け合いの精神が伝統として、深く人々の生活に根付い
ている国では、そもそも法律など必要がない。
強制しなければならないという事は、それ自体が何か
を上滑りしているという証しなのだ。のみならず、信頼が
あれば強制はいらないし、強制があれば信頼はなくなる。
国家という存在は結局、馬鹿々々しく分厚い六法全書で
がんじがらめにしなければやっていけないのか?
法治主義だって?法の支配だって?
無法な前近代を乗り越えた?銃と牢獄による近代国家。
法という正義はalmost(nearly)だが、
all(100%)でもalmost all(99%)でもない。
一概に「法律」というが、現実を領導するためのものと
現実を追認し整合させるためのものとがある。
どっちがどっちかなんて言うまでもない。後の方のやつ
はクソみたいなもんだ。いやでもそうなる。
”生ひたつにつれ牢獄(ひとや)の影は、
われらのめぐりに増えまさる”
そんな糞溜めみたいなシャバが幅を利かせ始めているの
かもしれない。日本国憲法もそうである。
平和を現実に転化するためでなく、現実を平和に転化する
ためにある。
現実のプロセスは無論なければならないが、それは今や一
国の平和のためではなく、戦後の歳月の間に世界の平和の
ための不可欠の現実的プロセスとなっている。よってそん
なもん理想論とか空想だとか言うなかれ。
そこんところを過つとまたもや万有の受苦が世界の人々を
煉獄へと落とすだろう。
今回は七十余年前のそれとは次元が違う。世界中の宇宙と
海に、もちろん陸にも七万発以上の核弾頭が装備されて
いる。世界戦がもし起これば、世界は二十秒足らずで滅
びる。日本国憲法が押し付けだろうがなんだろうが、そ
んなことは今更どうでもいい。
なぜって、、、それはもう日本国の平和を守るためでなく、
世界の平和を守るためにあるからだ。
日本国憲法とは法律にあって法律にあらず、
人類をハルマゲドンから守る最後の防波堤なのだ。
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