2023年11月26日
繁栄のパラドックス
http://mutsumi-kai.com/
↑↑
むつみ会結婚相談室の

繁栄のパラドックス
二十一世紀とはどのような時代なのかと言うと・・・
まさに”パラドックス”の時代なのだろう。
一に、アダム・スミスの時代のパラドックス、
二に、男性原理が支配する時代のパラドックス、
である。
市場経済の”神の見えざる手”は、マジシャンの限りなく怪
しげな手に化け、あるいは、ブレーキとアクセルを踏み間
違える高齢ドライバーの(足の)指先さながらになった。
男どもはというと、、そんなアダム・スミスの古ぼけた蜘
蛛の巣に絡め囚われて右往左往しているだけの情けない存
在でしかなくなった。
パラドックスとは、、、、
正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れが
たい結論が得られる事を指す言葉である。
正しく二十一世紀という時代のためにあるような言葉では
ないか。
それにしても、アダム・スミスの方はたかだかこの3,4百年
ほどの近代という時代のパラドックスでしかないが、男性
原理の方はどうやら文明史の彼方まで遡るしかないようだ。
それでも人類史という点から考えると99.99%分の1くらい
のもの。驚くなかれ、人類史の99.99%くらいは女権の時代
だったのだ。女権といっても女尊男卑ということではない。
男尊女卑というのは、男性の女性に対する劣等感コンプレッ
クスの所産なのだろう。
男であれ女であれ人間というのは本来は両性具有的らしい
のだが、男尊女卑のなかで、他人(女性)から男らしく
思われたいというペルソナ(仮面)が硬化しすぎるあまり、
男性諸君は人間としての味を失い、非個性的な存在になっ
ていったのだと思われる。
まあ、確かに今どきの野郎どもほど面白くもおかしくもない
社会的存在はない。ガッコーの優等生がそのまま社会人に
繰り上がったようなものだから仕方がないか。
では、男尊女卑は具体的にいつからはじまったかというと、
アダムとイブからなのだろう。イブ(女性)はアダム(男性)
の肋骨から生まれたということになっているらしいが、ちょ
っと何が何だかわからないオハナシである。それに対して男
は女の胎盤から産まれた、これは確かなハナシである。
さてと、そこでである、
女性は自然受容志向で男性は自然改変志向である。
太陽神崇拝は男性で、女性は大地神崇拝である。
天空は男性の、大地は女性のメタファである。
natureの語源(ラテン語)は女性で、
豊穣、原理、創造、前提、出発点などの象徴である。
”自然”は女性で”人工”は男性である。
したがって人類史の99.99%は当然ながら、大いなる自然に
人間が適応して生きてきた。それが男性原理の社会になる
や否や、人間の都合に合わせてひたすら自然を作り変えて
きた。
都市化した現代人の日常世界は、ゴキブリとペットと人間サ
マしか住めない異様なる人工空間である(唯脳史観・マック
スウエーバー)。
だがその人間サマときたら実のところゾウリムシ一つつくり
だせない、文明とは人間がゼロから何かを産みだしたという
わけではない。(一握りの)人間(男)たちが天地のありと
あらゆるものを収奪し尽くして出来上がった。
それは男性原理による文明社会である。要するにモノをA地
点からB地点に移動しただけ、車の窓からごみをポイ捨てし
たようなもの。所詮儚いゼロサムゲームでしかなかったのだ
った。
であるから、ニッポンのような市場経済のトップを走る(ア
メリカの経済はズルばかりしてる偽物のトップランナー)
国から、溜まりに溜まった男性原理の膿を出すのは仕方のな
いことなのだろう。GDPが下がり続け、円安が止まらなくな
るのは、膿が出ているというメルクマールにほかならない
のだろう。市場経済のトップランナーはポスト市場経済の
トップランナーにもなるわけだからご心配なく、とボクとし
ては言いたいわけである。
↑↑
むつみ会結婚相談室の
ホームページ&ブログ

繁栄のパラドックス
二十一世紀とはどのような時代なのかと言うと・・・
まさに”パラドックス”の時代なのだろう。
一に、アダム・スミスの時代のパラドックス、
二に、男性原理が支配する時代のパラドックス、
である。
市場経済の”神の見えざる手”は、マジシャンの限りなく怪
しげな手に化け、あるいは、ブレーキとアクセルを踏み間
違える高齢ドライバーの(足の)指先さながらになった。
男どもはというと、、そんなアダム・スミスの古ぼけた蜘
蛛の巣に絡め囚われて右往左往しているだけの情けない存
在でしかなくなった。
パラドックスとは、、、、
正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れが
たい結論が得られる事を指す言葉である。
正しく二十一世紀という時代のためにあるような言葉では
ないか。
それにしても、アダム・スミスの方はたかだかこの3,4百年
ほどの近代という時代のパラドックスでしかないが、男性
原理の方はどうやら文明史の彼方まで遡るしかないようだ。
それでも人類史という点から考えると99.99%分の1くらい
のもの。驚くなかれ、人類史の99.99%くらいは女権の時代
だったのだ。女権といっても女尊男卑ということではない。
男尊女卑というのは、男性の女性に対する劣等感コンプレッ
クスの所産なのだろう。
男であれ女であれ人間というのは本来は両性具有的らしい
のだが、男尊女卑のなかで、他人(女性)から男らしく
思われたいというペルソナ(仮面)が硬化しすぎるあまり、
男性諸君は人間としての味を失い、非個性的な存在になっ
ていったのだと思われる。
まあ、確かに今どきの野郎どもほど面白くもおかしくもない
社会的存在はない。ガッコーの優等生がそのまま社会人に
繰り上がったようなものだから仕方がないか。
では、男尊女卑は具体的にいつからはじまったかというと、
アダムとイブからなのだろう。イブ(女性)はアダム(男性)
の肋骨から生まれたということになっているらしいが、ちょ
っと何が何だかわからないオハナシである。それに対して男
は女の胎盤から産まれた、これは確かなハナシである。
さてと、そこでである、
女性は自然受容志向で男性は自然改変志向である。
太陽神崇拝は男性で、女性は大地神崇拝である。
天空は男性の、大地は女性のメタファである。
natureの語源(ラテン語)は女性で、
豊穣、原理、創造、前提、出発点などの象徴である。
”自然”は女性で”人工”は男性である。
したがって人類史の99.99%は当然ながら、大いなる自然に
人間が適応して生きてきた。それが男性原理の社会になる
や否や、人間の都合に合わせてひたすら自然を作り変えて
きた。
都市化した現代人の日常世界は、ゴキブリとペットと人間サ
マしか住めない異様なる人工空間である(唯脳史観・マック
スウエーバー)。
だがその人間サマときたら実のところゾウリムシ一つつくり
だせない、文明とは人間がゼロから何かを産みだしたという
わけではない。(一握りの)人間(男)たちが天地のありと
あらゆるものを収奪し尽くして出来上がった。
それは男性原理による文明社会である。要するにモノをA地
点からB地点に移動しただけ、車の窓からごみをポイ捨てし
たようなもの。所詮儚いゼロサムゲームでしかなかったのだ
った。
であるから、ニッポンのような市場経済のトップを走る(ア
メリカの経済はズルばかりしてる偽物のトップランナー)
国から、溜まりに溜まった男性原理の膿を出すのは仕方のな
いことなのだろう。GDPが下がり続け、円安が止まらなくな
るのは、膿が出ているというメルクマールにほかならない
のだろう。市場経済のトップランナーはポスト市場経済の
トップランナーにもなるわけだからご心配なく、とボクとし
ては言いたいわけである。