2023年11月08日
初めに言葉ありき (西洋文明の終焉・その2)

初めに言葉ありき
(西洋文明の終焉・その2)
言葉というのは、ただのデタラメな記号に過ぎません。
そして、記号はコンピューターのOS(オペレーションシ
ステム)と同じで、ただの取り決めです。ですから、言葉
という記号とその意味の間には必然的な(絶対にこうじゃ
ないといけないというような)自然な関係は一切なく、と
ても恣意的なものです。たとえば、、、
右と左というのは、取り決めを変えされすれば、逆にして
も何の支障もありません。
将棋の歩を失くしたら、みかんの皮の切れ端でも代わりに
なりますし、桂馬でも金でも、王将だって同じことです。
色彩というのはグラデーションですから、赤とか青とかの
言葉がないと、色の区別がつかないことは実験で明らかに
なっています。自然の風景というのはまさに妙なる色彩の
グラデーションであり、だからゲーテは色彩は光と影でで
きていると言いました。
そうでもないのもありますが、ほとんどが誰かがそうしま
しょうと言ってそうなりました。
それはそうとして、問題はいつの間にか人間の世の中も同
じようになってきたということです。特に軍隊の兵隊さん
なんか。戦死したり負傷したりしても、いくらでも取り替
えがきき、別段差し障りはないという本質を内蔵していま
す。でなければ殺したり殺されたりができるはずがありま
せん。兵隊さんとは単なる記号なのです。戦争とは人類が
犯した最悪の錯誤なのです。
労働でもそうです。よほどのことがない限り、あなたじゃな
ければつとまらないという仕事はそうそうはありません。
ひょっとすると奴隷という言葉(記号)が労働という言葉に
置き換えられただけかもしれません。
国家にとっては国民とは何かといえば、ただの記号と大した
違いはないのかもしれませ。亡くなれば住民票からあなたの
名前が削除され、新しい人の名前が書かれるだけです。マイ
ナンバーカードというのは名前が数字になるだけの話です。
というわけで、言葉はただの記号に過ぎないのですが、一度
使い方を間違えると、世の中の何もかもが記号化していくと
いうことにもなります。だっていろんな大事なものが言葉に
よってつくられ、動かされていってるのですから。
だから戦争という信じられないような不条理な出来事も起こ
ります。ミサイルをぶっ放すホットな戦争でも、札束を振り
回す経済戦争でも、いつかしら人間が人間でなくなり、命が
命でなくなって、ただの記号に化けてしまったから起きるの
でしょう。
そうなってきますと、当然ながら人間性が決定的に損なわれ
ていきます。言葉では何とでも言えますが、心がこもってい
るか否かでは天と地ほども違います。
動物は愛情を注げば言葉はなくても通じます。植物だってそ
うです。作物は愛情を注げば注いだ分豊かな実りをまたらして
くれます。
そうなってきますと、言葉というものがあるばかりに、人間は
ダメになっていったという結論にもなってきます。
言葉が普及した分だけ心の世界が貧しくなり、愛情が枯れてい
ったような気がします。ちょうど厚い雲が青空を覆っていく
ようにです。
とりわけ西洋的精神というのはアルファベットという二十六種
類の表音文字(記号)の単純な組み合わせでできているのに、
それをもってこの世界(自然とか宇宙の)の真理にアプローチ
しようとし、かつそれが可能であると考えました。
それが見るも無惨に破綻しつつあるのが二十一世紀という時代
ではなかった、なんて考える人も出てきました。
二十一世紀の行き詰まりは、言葉という記号で覆われた社会の
行き詰まりに他ならないというわけです。
東洋回帰
東洋には言葉にならないものを大切にする伝統文化があります。
言葉で解説できないものは存在しないという西洋的な感覚と
ある意味では真逆の方向にあります。
天才詩人のフランシス・ジャムは日本の俳句を尊崇しました。
言葉を削りに削って世界を表現しようとした芸術が俳句でした。
「古池や蛙飛び込む水の音」
この短い詩には静と動、またまた点が線となり面となり無
限の空間へと転化していく情景が表現されています。
何の説明も意図も加えず、ただひたすら描写されています。
百万言を費やしても表現できない世界観がここにはあります。
「はじめに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)にいう言葉
とは果たしてどんな言葉だったのでしょう?
だから西洋の人々は言葉によって歪められた世界は、言葉に
よってもとに戻すことができると考えているのでしょうか?
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