2023年11月08日
初めに言葉ありき (西洋文明の終焉・その2)

初めに言葉ありき
(西洋文明の終焉・その2)
言葉というのは、ただのデタラメな記号に過ぎません。
そして、記号はコンピューターのOS(オペレーションシ
ステム)と同じで、ただの取り決めです。ですから、言葉
という記号とその意味の間には必然的な(絶対にこうじゃ
ないといけないというような)自然な関係は一切なく、と
ても恣意的なものです。たとえば、、、
右と左というのは、取り決めを変えされすれば、逆にして
も何の支障もありません。
将棋の歩を失くしたら、みかんの皮の切れ端でも代わりに
なりますし、桂馬でも金でも、王将だって同じことです。
色彩というのはグラデーションですから、赤とか青とかの
言葉がないと、色の区別がつかないことは実験で明らかに
なっています。自然の風景というのはまさに妙なる色彩の
グラデーションであり、だからゲーテは色彩は光と影でで
きていると言いました。
そうでもないのもありますが、ほとんどが誰かがそうしま
しょうと言ってそうなりました。
それはそうとして、問題はいつの間にか人間の世の中も同
じようになってきたということです。特に軍隊の兵隊さん
なんか。戦死したり負傷したりしても、いくらでも取り替
えがきき、別段差し障りはないという本質を内蔵していま
す。でなければ殺したり殺されたりができるはずがありま
せん。兵隊さんとは単なる記号なのです。戦争とは人類が
犯した最悪の錯誤なのです。
労働でもそうです。よほどのことがない限り、あなたじゃな
ければつとまらないという仕事はそうそうはありません。
ひょっとすると奴隷という言葉(記号)が労働という言葉に
置き換えられただけかもしれません。
国家にとっては国民とは何かといえば、ただの記号と大した
違いはないのかもしれませ。亡くなれば住民票からあなたの
名前が削除され、新しい人の名前が書かれるだけです。マイ
ナンバーカードというのは名前が数字になるだけの話です。
というわけで、言葉はただの記号に過ぎないのですが、一度
使い方を間違えると、世の中の何もかもが記号化していくと
いうことにもなります。だっていろんな大事なものが言葉に
よってつくられ、動かされていってるのですから。
だから戦争という信じられないような不条理な出来事も起こ
ります。ミサイルをぶっ放すホットな戦争でも、札束を振り
回す経済戦争でも、いつかしら人間が人間でなくなり、命が
命でなくなって、ただの記号に化けてしまったから起きるの
でしょう。
そうなってきますと、当然ながら人間性が決定的に損なわれ
ていきます。言葉では何とでも言えますが、心がこもってい
るか否かでは天と地ほども違います。
動物は愛情を注げば言葉はなくても通じます。植物だってそ
うです。作物は愛情を注げば注いだ分豊かな実りをまたらして
くれます。
そうなってきますと、言葉というものがあるばかりに、人間は
ダメになっていったという結論にもなってきます。
言葉が普及した分だけ心の世界が貧しくなり、愛情が枯れてい
ったような気がします。ちょうど厚い雲が青空を覆っていく
ようにです。
とりわけ西洋的精神というのはアルファベットという二十六種
類の表音文字(記号)の単純な組み合わせでできているのに、
それをもってこの世界(自然とか宇宙の)の真理にアプローチ
しようとし、かつそれが可能であると考えました。
それが見るも無惨に破綻しつつあるのが二十一世紀という時代
ではなかった、なんて考える人も出てきました。
二十一世紀の行き詰まりは、言葉という記号で覆われた社会の
行き詰まりに他ならないというわけです。
東洋回帰
東洋には言葉にならないものを大切にする伝統文化があります。
言葉で解説できないものは存在しないという西洋的な感覚と
ある意味では真逆の方向にあります。
天才詩人のフランシス・ジャムは日本の俳句を尊崇しました。
言葉を削りに削って世界を表現しようとした芸術が俳句でした。
「古池や蛙飛び込む水の音」
この短い詩には静と動、またまた点が線となり面となり無
限の空間へと転化していく情景が表現されています。
何の説明も意図も加えず、ただひたすら描写されています。
百万言を費やしても表現できない世界観がここにはあります。
「はじめに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)にいう言葉
とは果たしてどんな言葉だったのでしょう?
だから西洋の人々は言葉によって歪められた世界は、言葉に
よってもとに戻すことができると考えているのでしょうか?
2023年11月06日
口は災いの元 (ヨーロッパ精神の終焉)

口は災いの元
(ヨーロッパ精神の終焉)
ヨーロッパ的精神とは、おしゃべりスピリット、日本語で
いえば井戸端会議みたいなもんか。洗いざらい言葉にして
しまわないと気が済まない。朝な夕なにI love youをいいま
くってよくくたびれないもんだとよく思う。その割には離
婚が当たり前の社会になっているのはなんかのジョーク?
言語とはただの出鱈目な記号に過ぎないのに、少しでも使
い方を間違えると大変なことになる。フィクションの宝庫
になって、自我の大切さを声高に訴えるのと裏腹に、自分
でつくったフィクションの中の役割を演じるだけの、間抜
けな存在になってしまう。
フランスのロラン・バルトという人はいみじくも、
「すべての語法(言い回し、フィクション)は覇権を争う
闘争である」と喝破しているが、それを地でいったのが、
ご存知の、、”Might is wright"(力は正義なり)ってやつ。
パリの空にたかだかと掲げた自由と平等の成れの果てが
コレだったわけか。バルトさんのエスプリはキツイ。
ひとたびある言葉が覇権を手に入れると、それは社会生活
の全域に広がり、無自覚な定見となる。そして欧米人は人
類史稀に見る悪役を演じつづけた。正義の味方ヅラしてね。
”お口は災いの元”を英語に直すと
”out of the mouth comes evil”になるらしいが、アーメンと
言った口から悪魔が出てきた。
せめて聞き上手ってやつを心がけてたら植民地もなかった
し、人種差別もなかっただろう。
ニッポン人だって偉そうなことは言えない。天皇陛下万歳
の一言でニッポン国民(特に沖縄の人たちは)偉い目にあ
ったし、隣の国から生涯消えないような不信と憎悪を買っ
てしまった。それでも欧米人と比べるとずっとマシという
ものだろう。
カミュの作品が革命的だったのは、主人公が無口だったこ
とだった。ただ自分の心の声に耳を傾けた、何の言い訳も
なしにそして無口だったが故にギロチン台の露と消えた。
おしゃべりヨーロッパ文明への強烈なレジスタンスだった。
学校でも子どもたちにお仕着せのおしゃべりばかりを強制
するのじゃなく、自然の声なき声に静かに耳を傾けること
を教えないと、私たちの未来はまたもや同じことを繰り返
すハメになるだろう。
若き日の佐藤愛子さんに、一番言いたいことは書くな、
とアドバイスしたのは誰だったっけ?
2023年10月23日
書を捨てて野にいでよ

書を捨てて野にいでよ
西洋近代文明の基盤はロジックであり、ロジックとは≒再現
性であって、それではもうどうしようもない時代になってい
るような気がします。どんなに巧緻を極めたとしても、当然
ながら同じことの繰り返しにしかならないからです。過ちに
過ちをもって応えることにもなりかねません。
いわゆる秀才とは再現性が巧みな人たちで、それが空転し始
めたのだと多くの人が感じ始めています。僕としてはついそう
いう人たちが造花に見えたりすることがあるのです(すまな
いことですが)。
近代においては学問は出世のための、あるいは社会的評価を
勝ち取るための手段になってしまいました。福沢諭吉なんか
、出世したければ学問をしろ、なんて乱暴なことを言ってい
ます。それで農家は子弟を学問をさせたがりたくなりました。
跡を継がなくなるからです。その線上で、その後の日本の教育
は推移しています。そうやって秀才が大量生産され、今の世の
中を形作っているようです。
秀才(再現性≒ロジック)とは、こうも言えるかなと思います。
「高等な抽象的能力」。
この能力がすぎて、逆の演繹法に大きな弊害が出てきたよう
な気がします。ペーパーエリート(造花?)らが演繹法でしか
物事を考えなくなった。つまり公式のような抽象的答えがま
ずあって、それで具体的な出来事を、一事が万事で判断して
しまう。その方がとても楽チンであるし、理論的にみえ、
人を理詰めで追い込むのに向いています。
しかし、そこには生命の息吹が感じられません。そこに気が
付いたのがレヴィ・ストローズという人ではなかったかと。
つまりご破算にして一からやり直しだと。そういう観点から
見ないとレヴィ・ストローズという人たちの世界観にはアプ
ローチはできないような気がするのです。
今の行き詰まった時代に風穴を開けるのは、そんな秀才が束
になってもかないません。天才が求められているのだと思い
ます。
天才というのは秀才の延長線上に生まれる、つまり程度の問
題でなく、”軸”の問題なのだと思います。秀才の軸は再現性
ですが、天才の軸は創造性です。ゼロから何かを生み出す力
です。
ちなみに凡才とは決して知能が劣ったということでなく、共
感性が高い(共感性に恵まれた?共感性を軸にした)人たち
で、そういう人たちが世の中の大多数を占めています。
であるがゆえに凡才と言われる人たちの動向如何がいつの時
代も理非曲直にかかわらず時代の形成の鍵となります。
今までは秀才と言われる人たちに文句なしに共感できたの
が、少しづつ首を傾げられ始めました。
では新しい時代の天才はどこに芽生えるかといえば、むろん
選良たちの中からではなく、そういうものに染まっていない
無垢な民草の中から、あるいは思いっきり若い世代の中から
ではないかと。
書を捨てよ、街に、じゃなかった、野に出よ、と言ったところ
でしょうか。野に咲く花になれ。
南方熊楠という日本歴史上最後の天才は、世界に認められた
キャリアを惜しげも無く捨て、熊野の山で後半生を生きまし
た。彼は数え切れないくらいの学問分野に精通し、世界史屈
指の万能学者でしたが、それらは真理を模索するための、一
つ一つの切り口にすぎませんでした。
そして、彼はなんとサイセンスの革命児でもありました。近代
科学の大前提である、ニュートン力学に異を唱えたのです。
いわゆる「南方マンダラ(曼荼羅)」です。
要するに科学の方法論として仏教(真言密教)は、ニュートン
を越えていると喝破したのです。
すなわちニュートン科学は因果律から必然性を、つまり一つの
答えを見出そうとしました。こうすれば必ずああなる、そんな
パラダイム(固定観念)にとらわれていました。
それに対し、仏教は「因縁」を説きます。因は因果律=必然性
ですが、縁は偶然性です。縁の中には一見不条理ではないかと
思われるものもたくさん含まれています。偶然性・・何が起き
るか予測できない、という要素が科学には不可欠と指摘したの
です。
その後この偶然性は、熱力学ではマックスウエルらが、量子
物理学ではハイデルベルグらが言い出し、今では先端科学の常
識となっています。これを”南方曼荼羅(ミナカタマンダラ)”
と呼んだりします。
では、曼荼羅とは何かといえば、サンスクリット語では”丸い
もの”を意味しています。宇宙のこととか生と死の永遠な循環
をいっているのかもしれません。
また密教ですから、言葉だけではわからない真理、直感でしか
悟れないことになります。
さらに曼荼羅の絵は外から内に、と同時に内から外に向かって
見ていくようになっています。意味深です。帰納と演繹の絶え
間ない往来と考えてもいいかもしれません。
最後に、物事の本質は母親の胎内で生まれ育てるように生ま
れ育てられていくもの、となります。母親の体内では生物の
系統発生という偉大なドラマが演じられます、わずか十か月
の間に人は細胞からえら呼吸の魚になり、さらに肺呼吸の哺
乳類になっていきます。
こういうことに深く思いを馳せると、(西洋の)近代文明の
進歩主義というものが、いかにも思い上がった、吹けば飛ぶ
ような薄っぺらなものにも思えてきます。
山を削って、その土で海を埋め立てる開発が進歩と同義語に
なるような進歩主義はどこか間違っていると思います。社会が
進歩すればするほど、肝心の人間が退歩していくのが進歩主
義の旗を下ろそうとしない近代文明なのでしょうか?
もしそうであるのなら、私たちは近代文明に向かってムシロ
旗を掲げて立ち向かわなければならなくなります。
2023年10月22日
不条理と自由の間 (極楽いぶかしくば)
http://mutsumi-kai.com/
↑↑
むつみ会結婚相談室の
不条理と自由の間
(極楽いぶかしくば)
カミュという作家はこんなことを書いています。
「・・・私が自由を学んだのはマルクスのなかではなかった。
私は自由をたしかに貧困の中で学んだ」(時事論集1)
たぶん戸惑う人が多いかもしれません。サルトルという人
はひょっとするとこの一文を目にして、カミュと進む道を分
かったのかもしれないと思ったりします。なぜならサルトル
という人は貧困という世の中の不条理に悶え苦しんでいる大
衆のために命懸けで戦った人だからです。そんな命懸けの
戦いを揶揄されたような気分になったのかもしれませんから。
しかし一方においては、身に沁みるような気持ちでこの言
葉を受け止めた人もいるでしょう。現に私自身がそうです
し、亡くなった私の母もそうだったと思いますし、知人に
もいます。父は兄が県議会議員に当選した時ポツリと囁いた
のがいまだに耳に残っています。「一度くらいは落選した方
がいいんだがなあ」って、、実際その通りになったような気
がします。不運が人を育てる。父は農家の生まれでした。
世の中というものはいつの時代も不条理に溢れているもので
す。それは田畑に雑草が茂り、作物に害虫がつくようなも
のなのでしょう。それで殺虫剤や除草剤をせっせと撒きます。
貧富の谷間で蠢いている人はもちろんそうですが、逆にそ
のてっぺんで一見優雅な暮らしを享受している人たちは例外
かといえば、そんなことはありません。無論彼らを弁護す
るつもりは毛頭ありませんが、これまた紛れもない事実だ
と思います。
おかしな話で、社会的な不条理をもたらされた側も、もた
らした側も同じように(質の異なる)不条理に悩まされる
のです。
およそ人間が生きていく上で不可避とも言える問題を(消
毒でもするように)綺麗さっぱり払拭すれば世の中はよく
なるというのが大体において近現代人の発想の仕方で、そ
れに対して異議を唱えたのがカミュという人物だったのか
なと思います。そのために当時の論壇の主流から外れてし
まいした。貧
乏な人たちはおカネのないことで苦労しますが、裕福な人
たちはおカネがありすぎることで悩みます。お金がありす
ぎると、お金目当ての人ばかりが寄ってきますし、本人も
人間を見れば疑心暗鬼に陥ります。亡くなると枕頭で遺族
の醜悪な遺産争いが起きます。その点貧乏人は気楽なもので
す。食べる心配さえなければの話ですが。
だから世の中の不条理なんかほったらかしておけばいいと
いう極端な話をしているわけではありませんが、それと私
たち一人ひとりが自由になるという心の問題とはいささか
方向性が異なる気がするのです。
自然は人間が支配するものではなく従属するものです。それ
がこれからの時代への私たちの基本認識となります。なる
べきというより、ならざるを得なくなるのでしょう。今ま
で私たちは自然の中に包含されている不都合な要素を不条
理なのだと捉え、これを克服することこそ進歩であると考え
てきました。その結果として逆に自然にとっての不条理が
看過できないほど激増し、同時に人間相互間の不都合も思
わぬ方向から押し寄せてきたような気がします。
今の私たちの自由を阻害しているものの多くは、自然がも
たらす不条理ではなく人間自身が自らの手でもたらしたよ
うなものに思われます。それが自業自得であることがわか
らない限り、どんなにジタバタしても同じことの繰り返しに
なるような気がします。
そういうことを直観的に踏まえてカミュという人は不条理
にきちんと向かい合えといい、またレヴィ・ストロースとい
う人は哲学的な論脈の中で言葉にしていったのではないか
と思います。
熊本県球磨郡出身で小山勝清(明治29年生まれ)という(あ
まり売れない)作家の挿話があります。彼の家は医院で、村
でも別格扱いされ、少年時代は村人から若様のように遇され
ていました。長じては東京に出て、社会主義運動や労働組合
運動に関わりました。やがて故郷に帰るとせっせと無知な村
人の啓蒙に励みました。
村に若い女乞食がいました。父は病死、兄弟たちは戦死し、
母は絶望のあまり気が狂い、彼女は子供の頃の火傷が原因で
手足が不自由で、乞食をするしか母を養う手立てがなかった
のでした。
村の祭りの時、勝清はその女乞食が人々に囲まれ、唾を吐き
かけられたり、棒切れを投げつけられたりしてるのを目撃し
ました。それを見た勝清は思わず彼女を庇って、人々に教え
を垂れました。無論彼はいいことをしたと得意になりました。
ところが数日後ばったりあった彼女は
「私は今日で三日ご飯をいただけません」と言いました。
旦那様から助けていただいてから誰も物をくれなくなったと
いうのです。彼女がいうには、
「村の人たちは長い間私を養ってくれました。イタズラする
のは私を憎んでいるからでなく、私が泣いたり喚いたりする
のが面白いからです。私に芸をさせるのです。みんなで私を可
愛がっているんです。ですから私は今まで村の人たちを怨ん
だことはありません。でも今では誰も私にイタズラはしませ
ん。その代わり物もくれません」。
その時彼は自らの近代的知性から遅れた無学で無教養な農村
を批判する愚かさを痛感するしかなかったのでした。こんな
のが文化人類学や構造主義のものの見方の底流になっている
のではないかと思います。
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不条理と自由の間
(極楽いぶかしくば)
カミュという作家はこんなことを書いています。
「・・・私が自由を学んだのはマルクスのなかではなかった。
私は自由をたしかに貧困の中で学んだ」(時事論集1)
たぶん戸惑う人が多いかもしれません。サルトルという人
はひょっとするとこの一文を目にして、カミュと進む道を分
かったのかもしれないと思ったりします。なぜならサルトル
という人は貧困という世の中の不条理に悶え苦しんでいる大
衆のために命懸けで戦った人だからです。そんな命懸けの
戦いを揶揄されたような気分になったのかもしれませんから。
しかし一方においては、身に沁みるような気持ちでこの言
葉を受け止めた人もいるでしょう。現に私自身がそうです
し、亡くなった私の母もそうだったと思いますし、知人に
もいます。父は兄が県議会議員に当選した時ポツリと囁いた
のがいまだに耳に残っています。「一度くらいは落選した方
がいいんだがなあ」って、、実際その通りになったような気
がします。不運が人を育てる。父は農家の生まれでした。
世の中というものはいつの時代も不条理に溢れているもので
す。それは田畑に雑草が茂り、作物に害虫がつくようなも
のなのでしょう。それで殺虫剤や除草剤をせっせと撒きます。
貧富の谷間で蠢いている人はもちろんそうですが、逆にそ
のてっぺんで一見優雅な暮らしを享受している人たちは例外
かといえば、そんなことはありません。無論彼らを弁護す
るつもりは毛頭ありませんが、これまた紛れもない事実だ
と思います。
おかしな話で、社会的な不条理をもたらされた側も、もた
らした側も同じように(質の異なる)不条理に悩まされる
のです。
およそ人間が生きていく上で不可避とも言える問題を(消
毒でもするように)綺麗さっぱり払拭すれば世の中はよく
なるというのが大体において近現代人の発想の仕方で、そ
れに対して異議を唱えたのがカミュという人物だったのか
なと思います。そのために当時の論壇の主流から外れてし
まいした。貧
乏な人たちはおカネのないことで苦労しますが、裕福な人
たちはおカネがありすぎることで悩みます。お金がありす
ぎると、お金目当ての人ばかりが寄ってきますし、本人も
人間を見れば疑心暗鬼に陥ります。亡くなると枕頭で遺族
の醜悪な遺産争いが起きます。その点貧乏人は気楽なもので
す。食べる心配さえなければの話ですが。
だから世の中の不条理なんかほったらかしておけばいいと
いう極端な話をしているわけではありませんが、それと私
たち一人ひとりが自由になるという心の問題とはいささか
方向性が異なる気がするのです。
自然は人間が支配するものではなく従属するものです。それ
がこれからの時代への私たちの基本認識となります。なる
べきというより、ならざるを得なくなるのでしょう。今ま
で私たちは自然の中に包含されている不都合な要素を不条
理なのだと捉え、これを克服することこそ進歩であると考え
てきました。その結果として逆に自然にとっての不条理が
看過できないほど激増し、同時に人間相互間の不都合も思
わぬ方向から押し寄せてきたような気がします。
今の私たちの自由を阻害しているものの多くは、自然がも
たらす不条理ではなく人間自身が自らの手でもたらしたよ
うなものに思われます。それが自業自得であることがわか
らない限り、どんなにジタバタしても同じことの繰り返しに
なるような気がします。
そういうことを直観的に踏まえてカミュという人は不条理
にきちんと向かい合えといい、またレヴィ・ストロースとい
う人は哲学的な論脈の中で言葉にしていったのではないか
と思います。
熊本県球磨郡出身で小山勝清(明治29年生まれ)という(あ
まり売れない)作家の挿話があります。彼の家は医院で、村
でも別格扱いされ、少年時代は村人から若様のように遇され
ていました。長じては東京に出て、社会主義運動や労働組合
運動に関わりました。やがて故郷に帰るとせっせと無知な村
人の啓蒙に励みました。
村に若い女乞食がいました。父は病死、兄弟たちは戦死し、
母は絶望のあまり気が狂い、彼女は子供の頃の火傷が原因で
手足が不自由で、乞食をするしか母を養う手立てがなかった
のでした。
村の祭りの時、勝清はその女乞食が人々に囲まれ、唾を吐き
かけられたり、棒切れを投げつけられたりしてるのを目撃し
ました。それを見た勝清は思わず彼女を庇って、人々に教え
を垂れました。無論彼はいいことをしたと得意になりました。
ところが数日後ばったりあった彼女は
「私は今日で三日ご飯をいただけません」と言いました。
旦那様から助けていただいてから誰も物をくれなくなったと
いうのです。彼女がいうには、
「村の人たちは長い間私を養ってくれました。イタズラする
のは私を憎んでいるからでなく、私が泣いたり喚いたりする
のが面白いからです。私に芸をさせるのです。みんなで私を可
愛がっているんです。ですから私は今まで村の人たちを怨ん
だことはありません。でも今では誰も私にイタズラはしませ
ん。その代わり物もくれません」。
その時彼は自らの近代的知性から遅れた無学で無教養な農村
を批判する愚かさを痛感するしかなかったのでした。こんな
のが文化人類学や構造主義のものの見方の底流になっている
のではないかと思います。
2023年10月04日
分配から配分へ (二十一世紀の経済)

分配から配分へ
(二十一世紀の経済)
経済には二つの形、というか方向性しかない。
一は、分け前の分捕り合い。
二は、助け合いと分け合い。
産業革命以前のヨーロッパが貧しかったのは、分け前の奪
い合いが未熟だったからではなくて、助け合いの文化がな
かったからだった。
産業革命とは、貨幣による生産と流通の革命であり、それ
を核とした分け前の分捕り合戦の画期的な変革だった。
しかし、分け前の奪い合いの経済はどんなに成熟しても、
肝心の奪い合うパイがなくなったらお終い。そしてパイは
必ずなくなる。なぜならパイの量は無限ではないからだ。
そんな簡単な理屈に今更ながら気づいて慌てふためき出し
たのが歴史の終わりといわれる二十一世紀という時代なの
だろう。
ヨーロッパの人々は遅まきながらでも、その事実を受け入
れ出したような気がする。(受け入れざるを得ないから)
しかし、日本人とアメリカ人は・・・・?
下図は社会的弱者(貧困)に対する各国の国民の意識調査
の結果である。この意識の有り様の当然の帰結として、、、
日本とアメリカでは社会的弱者の数が年々うなぎのぼりに
なっている。もっと増えるだろう。その最果てがどうなる
かなんて考えるまでもないだろう。
アメリカドルの場合はシニョリッジ(貨幣発行特権)の影
響が考えられるが、日本の場合は、、、、??
いずれにしても、二十一世紀とは第二の産業革命、すなわ
ち分け前の奪い合い(富の分配)の経済から助け合い分け
合う(富の配分)経済へシフトしていく節目の時代であり、
また絶好の機会でもあるのだろう。
高金利の時代には、富は海の向こう、つまり遠くにいくら
でも?あったのだが、パイの量が尽きて金利ゼロの時代が
来ると、逆に富は海の向こうの遠くにではなく、近くにし
かない。目の前の限られたパイを上手に切り分けるしか
ない。
限られた富を運用するには、できるだけ早く、より遠くへ、
ではなく、できるだけゆっくり、より近くでの方がいい。
そうなると、経済的効率や合理性で考えると立ち行かなく
なる。何らかの自制心が必要になってくる。つまりモラル
がなくてはならないものになる。
では、モラルとは何であるかというと、人間がつくり上げ
た秩序を正しい方向に是正していく力である。
その正しい方向が”分配”から”配分”へと劇的に変わりつつあ
るということなのだろう。より多くの富をなりふり構わずで
なく、限られた富をお行儀良く、ということである。
(”分配”は単に分けて配ることで、”配分”は割合を考慮して
配ること)
もうこのようなモラル抜きでは、二十一世紀経済の歯車は微
動だにしなくなりつつあるのような気がするのである。
(二十一世紀の経済)
経済には二つの形、というか方向性しかない。
一は、分け前の分捕り合い。
二は、助け合いと分け合い。
産業革命以前のヨーロッパが貧しかったのは、分け前の奪
い合いが未熟だったからではなくて、助け合いの文化がな
かったからだった。
産業革命とは、貨幣による生産と流通の革命であり、それ
を核とした分け前の分捕り合戦の画期的な変革だった。
しかし、分け前の奪い合いの経済はどんなに成熟しても、
肝心の奪い合うパイがなくなったらお終い。そしてパイは
必ずなくなる。なぜならパイの量は無限ではないからだ。
そんな簡単な理屈に今更ながら気づいて慌てふためき出し
たのが歴史の終わりといわれる二十一世紀という時代なの
だろう。
ヨーロッパの人々は遅まきながらでも、その事実を受け入
れ出したような気がする。(受け入れざるを得ないから)
しかし、日本人とアメリカ人は・・・・?
下図は社会的弱者(貧困)に対する各国の国民の意識調査
の結果である。この意識の有り様の当然の帰結として、、、
日本とアメリカでは社会的弱者の数が年々うなぎのぼりに
なっている。もっと増えるだろう。その最果てがどうなる
かなんて考えるまでもないだろう。
アメリカドルの場合はシニョリッジ(貨幣発行特権)の影
響が考えられるが、日本の場合は、、、、??
いずれにしても、二十一世紀とは第二の産業革命、すなわ
ち分け前の奪い合い(富の分配)の経済から助け合い分け
合う(富の配分)経済へシフトしていく節目の時代であり、
また絶好の機会でもあるのだろう。
高金利の時代には、富は海の向こう、つまり遠くにいくら
でも?あったのだが、パイの量が尽きて金利ゼロの時代が
来ると、逆に富は海の向こうの遠くにではなく、近くにし
かない。目の前の限られたパイを上手に切り分けるしか
ない。
限られた富を運用するには、できるだけ早く、より遠くへ、
ではなく、できるだけゆっくり、より近くでの方がいい。
そうなると、経済的効率や合理性で考えると立ち行かなく
なる。何らかの自制心が必要になってくる。つまりモラル
がなくてはならないものになる。
では、モラルとは何であるかというと、人間がつくり上げ
た秩序を正しい方向に是正していく力である。
その正しい方向が”分配”から”配分”へと劇的に変わりつつあ
るということなのだろう。より多くの富をなりふり構わずで
なく、限られた富をお行儀良く、ということである。
(”分配”は単に分けて配ることで、”配分”は割合を考慮して
配ること)
もうこのようなモラル抜きでは、二十一世紀経済の歯車は微
動だにしなくなりつつあるのような気がするのである。
2023年09月24日
おカネのいらない世界

おカネのいらない世界
「学ぶとは、知識を得るまでの自分から変わることである」
大きな体験によっても変わるが、それも体験によって貴重
な知識を得たからである。
だとすれば、後期高齢者が目前の人間にとっての学ぶとは
一体何なのだろう?
若い世代のように自分の未来を遠望する事はなくなった分、
よせばいいのに自分がいなくなった後の時代のありようが
気になって仕方がなくなる。
自分が、ではなく、後に続く世代の人たちが、どういう知
識を得て何を学ぼうとしているか、である。
これまた余計なお世話なのかもしれないが、気になるもの
は仕方がない。
特にこの二十一世紀という区切りの時代は、後世の人たち
にとって大いなる歴史上のテキストとなる気がするので尚
更である。さてそこで、、、
いくつかのキーワードがあるだろうが、なかでも通貨(お
カネ)の問題抜きでは何も考えられないだろう。
なぜかといえば、最も信頼し、愛着のあるものに裏切られ
ること以上のショックは人間にはないからである。世界の
終わりとはすなわち、通貨(おカネ)の終わりかもしれな
いのだ。そしてそれは必ずやってくる。しかも近い将来。
通貨(おカネ)は二つの意味の”確信”と”安心”によって支
えられている。自分の周囲のみんなが当たり前に使用してい
るという事実と、次の世代そのまた次の世代も当たり前に
使用されるという確信と安心である。
その確信と安心には客観的根拠はなにもない。
なぜならそれは(確信と安心をもたらすためには)
”だろう”でも”かもしれない”でもいけないからだ。
”だろう”でも”かもしれない”でもない”予想”の上に成り立
っているのだが、そんな予想など馬券を買うのと大差ない。
秤量貨幣(金銀銅などの重さによって値打ちが決まる)か
ら定位貨幣(金銀銅の重さとは無関係に記載されている額
面によって決まる)に変わってまだ間もないというのに、、
である。
今の貨幣はさらに進化?して、手形のようなものになってい
る。預かり手形に振出し手形、さらには当座貸越し手形。
そんなものがごっちゃになってできているのが命よりも大
切になっているわけである。
その命よりも大切なものは、通貨(おカネ)が利潤を産み、
利潤が利息を産むという無限の連鎖を大前提にしているの
だが、循環なら無限の連鎖はあっても、そうでない限りど
こかで鎖は切れる。
人間はなんでもわかりやすくするために文字や数字を生み
出しただけであり、それ以外の何ものでもない。その最高
傑作の一つが通貨(おカネ)なのだと言えるだろう。
そういう他愛もないフィクションの上に安座しているのが
私たちという存在なのだ。
さて、この世からおカネがなくなったらどうなるのだろう?
まず国家というものはなくなる。税金が取れなくなるからだ。
作物に年貢をかけても換金できない限り保存ができない。
次に企業がなくなり、サラリーマンがいなくなる。
現代のフィクションが幕を下ろし、新しいドラマの幕が上が
る。そのドラマは貧しい人たちのドラマなのだろうか?
いや、そうではないような気がする。それは多分豊かな人
たちがいなくなるドラマなのだろう。そして豊かな人たちが
いなければ、たとえ貧しくても貧しいとは思わない。
おカネがつくった現代というフィクションの世界は豊かな
人たちが主役のドラマで、貧しい人たちはいてもいなくて
もいいのだろう。
「学ぶとは、知識を得るまでの自分から変わることである」
大きな体験によっても変わるが、それも体験によって貴重
な知識を得たからである。
だとすれば、後期高齢者が目前の人間にとっての学ぶとは
一体何なのだろう?
若い世代のように自分の未来を遠望する事はなくなった分、
よせばいいのに自分がいなくなった後の時代のありようが
気になって仕方がなくなる。
自分が、ではなく、後に続く世代の人たちが、どういう知
識を得て何を学ぼうとしているか、である。
これまた余計なお世話なのかもしれないが、気になるもの
は仕方がない。
特にこの二十一世紀という区切りの時代は、後世の人たち
にとって大いなる歴史上のテキストとなる気がするので尚
更である。さてそこで、、、
いくつかのキーワードがあるだろうが、なかでも通貨(お
カネ)の問題抜きでは何も考えられないだろう。
なぜかといえば、最も信頼し、愛着のあるものに裏切られ
ること以上のショックは人間にはないからである。世界の
終わりとはすなわち、通貨(おカネ)の終わりかもしれな
いのだ。そしてそれは必ずやってくる。しかも近い将来。
通貨(おカネ)は二つの意味の”確信”と”安心”によって支
えられている。自分の周囲のみんなが当たり前に使用してい
るという事実と、次の世代そのまた次の世代も当たり前に
使用されるという確信と安心である。
その確信と安心には客観的根拠はなにもない。
なぜならそれは(確信と安心をもたらすためには)
”だろう”でも”かもしれない”でもいけないからだ。
”だろう”でも”かもしれない”でもない”予想”の上に成り立
っているのだが、そんな予想など馬券を買うのと大差ない。
秤量貨幣(金銀銅などの重さによって値打ちが決まる)か
ら定位貨幣(金銀銅の重さとは無関係に記載されている額
面によって決まる)に変わってまだ間もないというのに、、
である。
今の貨幣はさらに進化?して、手形のようなものになってい
る。預かり手形に振出し手形、さらには当座貸越し手形。
そんなものがごっちゃになってできているのが命よりも大
切になっているわけである。
その命よりも大切なものは、通貨(おカネ)が利潤を産み、
利潤が利息を産むという無限の連鎖を大前提にしているの
だが、循環なら無限の連鎖はあっても、そうでない限りど
こかで鎖は切れる。
人間はなんでもわかりやすくするために文字や数字を生み
出しただけであり、それ以外の何ものでもない。その最高
傑作の一つが通貨(おカネ)なのだと言えるだろう。
そういう他愛もないフィクションの上に安座しているのが
私たちという存在なのだ。
さて、この世からおカネがなくなったらどうなるのだろう?
まず国家というものはなくなる。税金が取れなくなるからだ。
作物に年貢をかけても換金できない限り保存ができない。
次に企業がなくなり、サラリーマンがいなくなる。
現代のフィクションが幕を下ろし、新しいドラマの幕が上が
る。そのドラマは貧しい人たちのドラマなのだろうか?
いや、そうではないような気がする。それは多分豊かな人
たちがいなくなるドラマなのだろう。そして豊かな人たちが
いなければ、たとえ貧しくても貧しいとは思わない。
おカネがつくった現代というフィクションの世界は豊かな
人たちが主役のドラマで、貧しい人たちはいてもいなくて
もいいのだろう。
2023年09月16日
耳クソ資本主義

耳クソ資本主義
私たちが学校なるところ(むろん大学も含めて)で学ん
できたものとは、、、”教科書”。
では、”教科書”とは何であるかというと、
教科書的であるということであり、つまり理念だった。
どんなに優れた教授といえども、あくまでも理念のプロフ
ェッショナルにすぎない。
理念は現実から抽出されたエッセンスかもしれないが、
現実がひどく流動的になったとき、それは現実から乖離し
てしまう。
そういう陥穽があることに逸早く気づいた、目覚めた人
が本当の意味で知恵ある人だろう。
現実は時とともに絶え間なく変わっていくし、また生活
空間によっても変わるし、また人それぞれでもある。
したがって本当に有用な人間の知恵というのは絶え間な
い迷いと試行錯誤の中にあるのだろう。
経済はいかに頭に新という形容詞がついても、実際はア
ダム・スミスの古典派経済学から一歩も出ていない。
あの『見えざる手』というやつである。一見混沌とした
市場価格が、神の見えざる手によって自然価格(均衡価
格)の方へ導かれる。
まあ、生産に要する費用(報酬)が正常に支払われている
場合はそうだろうが、今の今までそんな正当な報酬を受け
取った人なんてどれだけいただろうか?
ほんの一握りの人間が莫大な報酬を得、ほとんどの人たち
は耳クソ程度、というのが偽らざる”現実”である。
資本主義は資本の蓄積のために利潤を必要とするというの
はわからないでもないが、そんな資本の蓄積が無際限に続
いていく限り、不当に少ない報酬を受け取る人はねずみ算
的に増えていく。
そしてそういう”現実”には知らん顔をしていない限り、資
本主義は行き詰まらざるを得ない。
もちろんこれほど不合理な話はないから、二十一世紀にな
って歴史の終わりが囁かれているというわけなのだろう。
しかしそれは誰にとっての歴史の終わりなのか?少なくと
も耳クソにとっての終わりではない。だから耳クソの一人と
しての僕は安心してあの世に行けるようが気がするのだ。
うん、耳クソを掃除したらホントのことがよく聞こえるよう
になるかも。
私たちが学校なるところ(むろん大学も含めて)で学ん
できたものとは、、、”教科書”。
では、”教科書”とは何であるかというと、
教科書的であるということであり、つまり理念だった。
どんなに優れた教授といえども、あくまでも理念のプロフ
ェッショナルにすぎない。
理念は現実から抽出されたエッセンスかもしれないが、
現実がひどく流動的になったとき、それは現実から乖離し
てしまう。
そういう陥穽があることに逸早く気づいた、目覚めた人
が本当の意味で知恵ある人だろう。
現実は時とともに絶え間なく変わっていくし、また生活
空間によっても変わるし、また人それぞれでもある。
したがって本当に有用な人間の知恵というのは絶え間な
い迷いと試行錯誤の中にあるのだろう。
経済はいかに頭に新という形容詞がついても、実際はア
ダム・スミスの古典派経済学から一歩も出ていない。
あの『見えざる手』というやつである。一見混沌とした
市場価格が、神の見えざる手によって自然価格(均衡価
格)の方へ導かれる。
まあ、生産に要する費用(報酬)が正常に支払われている
場合はそうだろうが、今の今までそんな正当な報酬を受け
取った人なんてどれだけいただろうか?
ほんの一握りの人間が莫大な報酬を得、ほとんどの人たち
は耳クソ程度、というのが偽らざる”現実”である。
資本主義は資本の蓄積のために利潤を必要とするというの
はわからないでもないが、そんな資本の蓄積が無際限に続
いていく限り、不当に少ない報酬を受け取る人はねずみ算
的に増えていく。
そしてそういう”現実”には知らん顔をしていない限り、資
本主義は行き詰まらざるを得ない。
もちろんこれほど不合理な話はないから、二十一世紀にな
って歴史の終わりが囁かれているというわけなのだろう。
しかしそれは誰にとっての歴史の終わりなのか?少なくと
も耳クソにとっての終わりではない。だから耳クソの一人と
しての僕は安心してあの世に行けるようが気がするのだ。
うん、耳クソを掃除したらホントのことがよく聞こえるよう
になるかも。
2023年09月14日
こんな法律いらねえ
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こんな法律いらねえ
人間の欲望というものは放っておけばどこまでも増殖して
いくもので、やがてはがん細胞みたいに命取りになってし
まいかねません。無欲恬淡こそ健康と幸福の秘訣。
信じるか信じないかは別にして、法律も同じようなもので、
放っておけば何のための法律かわからなくなってしまいま
す。なぜかというと、法律も人間が作ったものである以上
大なり小なりヒトの欲にまみれた手で書かれたものだから
です。人々が無慾恬淡でないから法律が作られたわけでは
なくて、どうも欲望に囚われた一部の人が作ったというの
が歴史的事実のようなのです。
そしてマイナンバーってみたいなのもできてしまいます。
マイナンバーというのは私のためのものじゃなくて、あな
た以外のユアナンバーみたいなものでしょう。それと同じ
ように法律そのものだって下手すると、マイ法律からユア
法律になってしまうかも知れないのです。
日本は本当に法治国家なのかと言われる一方で、70年代か
らは行き過ぎた法化が懸念されるようになりました。ドイ
ツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス氏は
「法による生活世界の植民地化」
が始まったと警告しています。
家庭や教育や隣人関係の生活現場にまでどうやら法のメス
が無遠慮に入り込んでいるような気がします。
独裁国家と比べると法治国家は先進国家と言われますが、
実のところは先進国家とは程遠い脆い地盤の上に立っった
途上国家にすぎません。
ですから、これから途上にある私たちが目指すべきゴール
は法律でがんじがらめになった社会ではなく、むしろ最少
限の法律によって成り立っている文化国家なのかも知れま
せん。文化的に成熟していない国の法律くらいあてになる
ものはないように思われます。
今私たちの周りはナント7500もの法律、政令、省令のほか
に無数の条例で包囲されていて、どんどん身動きできない
ようになっているような気がします。身動きしようとする
と暴力によって強制され罰を受け、社会からも阻害されて
しまいます。
そういう次第で、私たちはひたすら法律には理由のいか
んを問わず従順に従うものだという遵法精神を幼い時から
叩き込まれてきました。
そもそも法律はどういう歴史的経緯でつくられ、何のため
にあるのかという根本的な問題については誰も教えてくれ
ないし、知ろうともしません。きっと何か不都合なことが
あるのでしょう。
でも、もし私たちが民主国家の主権者であり、社会の主役
でありたいと願うならば、受け身のままではいけないと思
います。二十世紀にワイマール憲法という、国民主権と男
女同権の普通選挙と社会的生存権を謳った素晴らしい法律
が生まれましたが、あっというまにナチズムという独裁国
家になったことはご存知の通りです。
それもこれも私たち国民が国家のあり方に対して主体性の
かけらも持っていなかったからにほかなりません。
主役が主役としての自覚を持っていないならば、通行人Aと
かBに格下げされてしまうのが世の常です。デモクラシーと
か法治国家という名の下にです。
そういうわけで、六法全書のページを一々めくる必要はサ
ラサラありませんが、なぜこういう分厚い書物をつくらな
ければならなかったか訳くらいは頭の隅に入れておく必要は
あると思います。
まず人間が集団で生活している以上は必ずそこに何らかのル
ールが必要になってきます。この簡単なルールを慣習法と言
います。この無数にある中小共同体独自のルールで人々は長
い間平和に暮らしてきました。これは誰か特定の人が拵えた
ものではなくて、みんなが平和に暮らしていくために自然発
生的にできたものでした。
ところが14、5世紀頃にそんな慣習法は一切合切なくなりま
した。法律は主権者がつくるものということになったのです。
主権者とは王(領主)のことです。
この主権者である王が滅んで、近代国家なるものができると
どうなったかというと、法は権力者が民を支配するための決
まりということになりました(十九世紀)。日本は明治維新
の時にこのドイツのプロイセンの法律をほとんどそのままと
り入れました。富国強兵のために必要不可欠だったからです。
ヨーロッパの他の国も似たり寄ったりで、草創期の資本主義
のもとで、法律はおカネのためにつくられ、おカネのシステ
ムを維持するためにつくられたのでした。
それからいくらかはマシになったかも知れませんが、マシに
なったという程度で大して変わり映えしていないと考えた方
がいいようです。
法律の建前上の大原則は”一般的妥当性”というわかったよう
なわからないような言葉で表現されています。どういう意味
かと言いますと、
「契約内容が社会の一般的秩序や一般的道徳観念に適合し
ていること」
ということになります。
ただその大原則の前にもう一つ絶対的な大原則があることを
忘れてはいけません。それは(絶対的)私的所有権という制
度です。と言えば聞こえはいいですが、貧乏人が豊かになる
というより、お金持ちはもっとお金持ちになることと言って
いいでしょう。現実はまさにその通りになっていますから。
現代の法律とはまさにこのような私的所有権を守るための
ものと言ってもいいと思います。
グローバリズムとは、私的所有権によってお金持ちになった
人たちがもっとお金持ちになるために、法治国家を法治世界
にするための試みと言って良いでしょう。そして世界の一般
的秩序や一般的道徳観念を根こそぎぶっ壊してしまおうとし
ているのかも知れません。
日本全国いや世界中の猫の額ほどの土地も、会社も、もちろ
ん資本も誰かの所有です。誰かの所有でないものなど、まず
ただの一つもありません。誰の所有でもない、つまり共有と
いうのはそんなに忌むべきもので、そんなに社会の一般的秩
序や一般的道徳に違背するようなものなのでしょうか??
しかし、この地球上にあるものは立木の一本だって誰かとい
う個人のものではないし、人間のものでもなく、生きとしい
ける全てのものであるはずです。今ではそんなこと誰も思い
もしません。しかし、それがまさに自然界における「一般的
妥当性」に他ならないと思います。
たとえば土地を私有し販売することはどうなのでしょう。も
し天から万人に等しく与えられたものを私有し、売り捌き、
利益を得ることができるならば、水や空気だって、ひょっと
すると、お日様の光だって同じことになりかねません。
現に今では水ビジネスなどというものが頭をもたげつつありま
す。日本では堂々と水源の買い占めが進行しつつあるようですが、
法律は黙って見ているだけです。取り締まろうという動き
も一切ありません。
水資源のない国では水利をめぐる争いが昔から絶えることが
ありませんでした。
最も人騒がせなのが石油で、これはまさに土地の所有権から
派生したもので、そのために世界中が火薬庫のようになった
のは周知の通りです。
誰かが製造したものなら、それを販売することはできるかも
知れませんが、それだって原料のほとんどは自然の素材を加
工したもので、その原料コストが高くなれば成り立たなくな
るものばかりでです。
案の定、世紀末といわれる時代になってようやく、法律自体
の持つ「一般的妥当性」が揺らぎ始めたような気がします。
法律がないところを無法地帯というのなら、法律が多すぎる
のはどうなのでしょうか?別の意味でもっと世の中を無法地
帯にしてしまうのかもしれません。
人間の欲望というものは放っておけばどこまでも増殖して
いくもので、やがてはがん細胞みたいに命取りになってし
まいかねません。無欲恬淡こそ健康と幸福の秘訣。
信じるか信じないかは別にして、法律も同じようなもので、
放っておけば何のための法律かわからなくなってしまいま
す。なぜかというと、法律も人間が作ったものである以上
大なり小なりヒトの欲にまみれた手で書かれたものだから
です。人々が無慾恬淡でないから法律が作られたわけでは
なくて、どうも欲望に囚われた一部の人が作ったというの
が歴史的事実のようなのです。
そしてマイナンバーってみたいなのもできてしまいます。
マイナンバーというのは私のためのものじゃなくて、あな
た以外のユアナンバーみたいなものでしょう。それと同じ
ように法律そのものだって下手すると、マイ法律からユア
法律になってしまうかも知れないのです。
日本は本当に法治国家なのかと言われる一方で、70年代か
らは行き過ぎた法化が懸念されるようになりました。ドイ
ツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス氏は
「法による生活世界の植民地化」
が始まったと警告しています。
家庭や教育や隣人関係の生活現場にまでどうやら法のメス
が無遠慮に入り込んでいるような気がします。
独裁国家と比べると法治国家は先進国家と言われますが、
実のところは先進国家とは程遠い脆い地盤の上に立っった
途上国家にすぎません。
ですから、これから途上にある私たちが目指すべきゴール
は法律でがんじがらめになった社会ではなく、むしろ最少
限の法律によって成り立っている文化国家なのかも知れま
せん。文化的に成熟していない国の法律くらいあてになる
ものはないように思われます。
今私たちの周りはナント7500もの法律、政令、省令のほか
に無数の条例で包囲されていて、どんどん身動きできない
ようになっているような気がします。身動きしようとする
と暴力によって強制され罰を受け、社会からも阻害されて
しまいます。
そういう次第で、私たちはひたすら法律には理由のいか
んを問わず従順に従うものだという遵法精神を幼い時から
叩き込まれてきました。
そもそも法律はどういう歴史的経緯でつくられ、何のため
にあるのかという根本的な問題については誰も教えてくれ
ないし、知ろうともしません。きっと何か不都合なことが
あるのでしょう。
でも、もし私たちが民主国家の主権者であり、社会の主役
でありたいと願うならば、受け身のままではいけないと思
います。二十世紀にワイマール憲法という、国民主権と男
女同権の普通選挙と社会的生存権を謳った素晴らしい法律
が生まれましたが、あっというまにナチズムという独裁国
家になったことはご存知の通りです。
それもこれも私たち国民が国家のあり方に対して主体性の
かけらも持っていなかったからにほかなりません。
主役が主役としての自覚を持っていないならば、通行人Aと
かBに格下げされてしまうのが世の常です。デモクラシーと
か法治国家という名の下にです。
そういうわけで、六法全書のページを一々めくる必要はサ
ラサラありませんが、なぜこういう分厚い書物をつくらな
ければならなかったか訳くらいは頭の隅に入れておく必要は
あると思います。
まず人間が集団で生活している以上は必ずそこに何らかのル
ールが必要になってきます。この簡単なルールを慣習法と言
います。この無数にある中小共同体独自のルールで人々は長
い間平和に暮らしてきました。これは誰か特定の人が拵えた
ものではなくて、みんなが平和に暮らしていくために自然発
生的にできたものでした。
ところが14、5世紀頃にそんな慣習法は一切合切なくなりま
した。法律は主権者がつくるものということになったのです。
主権者とは王(領主)のことです。
この主権者である王が滅んで、近代国家なるものができると
どうなったかというと、法は権力者が民を支配するための決
まりということになりました(十九世紀)。日本は明治維新
の時にこのドイツのプロイセンの法律をほとんどそのままと
り入れました。富国強兵のために必要不可欠だったからです。
ヨーロッパの他の国も似たり寄ったりで、草創期の資本主義
のもとで、法律はおカネのためにつくられ、おカネのシステ
ムを維持するためにつくられたのでした。
それからいくらかはマシになったかも知れませんが、マシに
なったという程度で大して変わり映えしていないと考えた方
がいいようです。
法律の建前上の大原則は”一般的妥当性”というわかったよう
なわからないような言葉で表現されています。どういう意味
かと言いますと、
「契約内容が社会の一般的秩序や一般的道徳観念に適合し
ていること」
ということになります。
ただその大原則の前にもう一つ絶対的な大原則があることを
忘れてはいけません。それは(絶対的)私的所有権という制
度です。と言えば聞こえはいいですが、貧乏人が豊かになる
というより、お金持ちはもっとお金持ちになることと言って
いいでしょう。現実はまさにその通りになっていますから。
現代の法律とはまさにこのような私的所有権を守るための
ものと言ってもいいと思います。
グローバリズムとは、私的所有権によってお金持ちになった
人たちがもっとお金持ちになるために、法治国家を法治世界
にするための試みと言って良いでしょう。そして世界の一般
的秩序や一般的道徳観念を根こそぎぶっ壊してしまおうとし
ているのかも知れません。
日本全国いや世界中の猫の額ほどの土地も、会社も、もちろ
ん資本も誰かの所有です。誰かの所有でないものなど、まず
ただの一つもありません。誰の所有でもない、つまり共有と
いうのはそんなに忌むべきもので、そんなに社会の一般的秩
序や一般的道徳に違背するようなものなのでしょうか??
しかし、この地球上にあるものは立木の一本だって誰かとい
う個人のものではないし、人間のものでもなく、生きとしい
ける全てのものであるはずです。今ではそんなこと誰も思い
もしません。しかし、それがまさに自然界における「一般的
妥当性」に他ならないと思います。
たとえば土地を私有し販売することはどうなのでしょう。も
し天から万人に等しく与えられたものを私有し、売り捌き、
利益を得ることができるならば、水や空気だって、ひょっと
すると、お日様の光だって同じことになりかねません。
現に今では水ビジネスなどというものが頭をもたげつつありま
す。日本では堂々と水源の買い占めが進行しつつあるようですが、
法律は黙って見ているだけです。取り締まろうという動き
も一切ありません。
水資源のない国では水利をめぐる争いが昔から絶えることが
ありませんでした。
最も人騒がせなのが石油で、これはまさに土地の所有権から
派生したもので、そのために世界中が火薬庫のようになった
のは周知の通りです。
誰かが製造したものなら、それを販売することはできるかも
知れませんが、それだって原料のほとんどは自然の素材を加
工したもので、その原料コストが高くなれば成り立たなくな
るものばかりでです。
案の定、世紀末といわれる時代になってようやく、法律自体
の持つ「一般的妥当性」が揺らぎ始めたような気がします。
法律がないところを無法地帯というのなら、法律が多すぎる
のはどうなのでしょうか?別の意味でもっと世の中を無法地
帯にしてしまうのかもしれません。
2023年09月09日
おカネの怪談
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おカネの怪談
現代を生きる私たちが陥っている最大にして最強の怪談
とは何か?それはおカネをめぐる怪談である。
ではそのおカネとは何であるか、というと、、、
”おカネとは、それ自体が価値であるからおカネとして用い
られるのではなく、それがおカネとして人々に用いれらて
いるからこそ、おカネとしての価値を持つのである”
そういうあの世とこの世を取り違えるような錯覚の中で人
々は血眼になって働き、そして結局は、私の人生は何だっ
たんだと嘆きながら死んでゆく。そう、、多分お金持ちに
なればなるほど成仏できない。死んだ後でオバケになって
出てきたりして、、、。一ま〜い、二ま〜い、
なんて、お札を数えたり、、。
さてと、そういうおカネをめぐる怪談に、人類で初めて気
づいたのが、天才詐欺師とも謳われたジョン・ローという
オバケのようなスコットランド人だった。
それそのオバケは何をしたかというと、ミシシッピーとか
いうオバケ会社を作った。金貨や銀貨を我が家の引き出し
なんかに置いとくのは不用心だから、大切に保管してあげ
るよという親切な会社をつくった。
それであなたの大切なコレコレの金銀を確かに預かっていま
すという証書を発行した。実際に保管してる額より遥かに多
い額の証書をね。これが今の銀行の原型と言ってよい。
それがおカネとして信認され利用されている限りは、なん
の支障もないわけだから胸を張っていても一向に構わない。
問題はそれがおカネとして信認され利用されている限りは、
という但し書きがついている点である。
その但し書きを担保したのは、はるか遠くの北米大陸のミ
シシッピー川領域のルイジアナというユーレイのような仏
植民地であった。
そこはただ、だだっ広いだけの未開の地に過ぎなかったの
だが、そんなこと誰も知らない。誰も知らないから、無限
の富があるかも知れないと思えば、そういうことになる。
無知ほど怖いものはないというが、無知ほどステキなもの
もないのだ。
でもほんとのことがバレた時が運の尽きである。ジョン・
ローは結局文無しになって異国の地で野垂れ死ぬが、墓碑
銘にはこう記されている。
「訳のわからない法則で、フランスを病院送りにした男」。
でもねえ、僕にいわせれば、訳のわからない法則で病院送
りにした方もした方なら、された方もされた方じゃないの
かな、、、なんて。
まあすんでしまったことをあれこれ言っても仕方がないが、
問題はジョン・ローはくたばったが、彼の法則自体はくた
ばっていなかったという点である。
それどころか、あれから二世紀半以上経った今、我々の生
きている世界はジョン・ローの法則そのもの、システムその
ものなのである。
資本主義とか最近ではグローバリズムなどと呼ばれている
が、それが果たしてホンモノなのか、ジョン・ローの二番
煎じなのかは、少なくとも今のところははっきりとはして
ない。
おカネをめぐる怪談はまだまだ続いているのかなあ?
もうそろそろだと思うけど、、、どうなんだろう?
怪談とかオバケ屋敷とかは嫌いじゃないけど、この手のは
ねえ。右を見ても左を見てもオバケだらけってのはシャレに
もならないだろうし。お岩さんとか、ろくろっ首とか。
2023年08月21日
伝説の財宝
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伝説の財宝
資本主義とは、、、?
一口でいえば、(最大)利益をどこまでも追いかけいくレ
ース、誰でも彼もが、何でもかもが。物心ついてから死ぬ
まで、もっともっと豊かに贅沢に。やれやれ、ご苦労様。
お金がないと自由を買えないんだから仕方がない、か。
ではと、どういうふうにしてその利益とやらを生み出すの
かといえば、実は、なんでもかんでも凸凹を平らにしてい
くことによって、、。普遍化なんて難しくいったりするけ
ど、、、。
ちょうど山という山を削りまくって宅地の造成をしていく
ようなものかな。そうやって造成された土地には同じよう
な顔をした家がずらりと軒を並べることになる。
そうやって凸凹がなくなってくのは空間だけじゃない、
時間もそう。昨日は今日になり、今日は明日になっていく。
そう、昨日と明日が同じ顔をしてる。そんなメリハリのな
い時の流れの中で僕たちは生きている。言い換えれば、時
空を喰らうことでデカい図体になってきたのが資本主義。
どこまでいっても、どれだけ歳とっても、生っ白い、無表
情の何かがひとつながりになってる。
AとBとの違いを埋めていくことで経済は繁栄してきた。な
のに、AとのBとの違いという溝を埋めていくことでしか成
長できない。そういう二律背反が僕たちの世界だった。耕
せば耕すほど畑は小さくなっていった。だから、
普遍化していくことで利益は最大になっていくが、そうし
て最大地点に達した時が資本主義の運の尽きとなる。
アホみたいな話なのだが、元々がそういう類の寓話だった
のだろう。
芸術も学問も人の好奇心によって生まれ育ってきたのだが、
商品化することでのっぺらぼーになる。お互いの”違い”が好
奇心を刺激するが、その”違い”がなくなるにつれ、好奇心も
枯渇していく。そこにはもう学問も芸術もない。
そういう巨大な時代の潮流に抗って、独創性を取り戻す戦い
が二十一世紀のアナキズムなのだと僕は思っている。
いや資本主義の利益が最大化していくと、時代の潮流は逆流
し始めて、ワンピースのルフィたちのようなアナキストたち
を生み出すのかもしれない。
海の向こうに眠っているという、ルフィたちが探してる伝説
の海賊王の財宝とは一体何なんだろう?
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伝説の財宝
資本主義とは、、、?
一口でいえば、(最大)利益をどこまでも追いかけいくレ
ース、誰でも彼もが、何でもかもが。物心ついてから死ぬ
まで、もっともっと豊かに贅沢に。やれやれ、ご苦労様。
お金がないと自由を買えないんだから仕方がない、か。
ではと、どういうふうにしてその利益とやらを生み出すの
かといえば、実は、なんでもかんでも凸凹を平らにしてい
くことによって、、。普遍化なんて難しくいったりするけ
ど、、、。
ちょうど山という山を削りまくって宅地の造成をしていく
ようなものかな。そうやって造成された土地には同じよう
な顔をした家がずらりと軒を並べることになる。
そうやって凸凹がなくなってくのは空間だけじゃない、
時間もそう。昨日は今日になり、今日は明日になっていく。
そう、昨日と明日が同じ顔をしてる。そんなメリハリのな
い時の流れの中で僕たちは生きている。言い換えれば、時
空を喰らうことでデカい図体になってきたのが資本主義。
どこまでいっても、どれだけ歳とっても、生っ白い、無表
情の何かがひとつながりになってる。
AとBとの違いを埋めていくことで経済は繁栄してきた。な
のに、AとのBとの違いという溝を埋めていくことでしか成
長できない。そういう二律背反が僕たちの世界だった。耕
せば耕すほど畑は小さくなっていった。だから、
普遍化していくことで利益は最大になっていくが、そうし
て最大地点に達した時が資本主義の運の尽きとなる。
アホみたいな話なのだが、元々がそういう類の寓話だった
のだろう。
芸術も学問も人の好奇心によって生まれ育ってきたのだが、
商品化することでのっぺらぼーになる。お互いの”違い”が好
奇心を刺激するが、その”違い”がなくなるにつれ、好奇心も
枯渇していく。そこにはもう学問も芸術もない。
そういう巨大な時代の潮流に抗って、独創性を取り戻す戦い
が二十一世紀のアナキズムなのだと僕は思っている。
いや資本主義の利益が最大化していくと、時代の潮流は逆流
し始めて、ワンピースのルフィたちのようなアナキストたち
を生み出すのかもしれない。
海の向こうに眠っているという、ルフィたちが探してる伝説
の海賊王の財宝とは一体何なんだろう?
2023年08月12日
くらしのアナキズム

くらしのアナキズム
天邪鬼の大谷翔平が投げたボールにメジャーの強打者が空振
りばかりしているように、今までの常態の延長線上でフラフ
ラしているだけのアメリカの世界戦略もことごとく空振り三
振に終わるだろうと僕はみている。
マイナンバーカードのアマゾンによる一括管理ってのにも、
アメリカ政府の思惑が見え隠れするようだが、まあ、やりた
い放題やってみるといい。きっと愛想を尽かされるだけにし
かならないから。
マイナンバーカードは国家政府による一極支配の象徴のような
ものなのだろうが、時代はむしろ二十一世紀になって徐々に
その対極たるアナキズムに向かっているように見えて仕方が
ない。誤解がないようにいっておくが、アナキズムとは、語
源から言うと、無政府主義ではなく無支配主義のことである。
現に、台湾のオードリー・ワンという政治家は、政府要人
(ナント!デジタル担当相)でありながら、自らアナキストを
もって任じている。つまりアナキズム風政治や政府に保守って
のもアリなのだ。まあ、どうでもいいけど、、、。
近代になってからの国家政府サイドからの言い分は、支配こそ
が人々の間に秩序と安心と豊かさをもたらすものだということ
だった。人々も何せ初めての経験で、まあ、そういうものか
なと思っていたのかな?
しかし現実はどうだったかというと真逆に向かった。支配が上
下関係を生み、抑圧や差別を深め、不信や分断を社会にもたら
してきたことには異論の余地がないほどだ。目は口ほどに物を
言うってところ。
いうまでもなくそういう歪な常態がいつまでも常態でありうる
はずがない。逆立ちしたような格好で世の中を見ることにも
そろそろウンザリしてきたってのが正直なところだ。
アメリカにしても日本の霞ヶ関や永田町にしても、今のまんま
じゃもう誰の目にも時代錯誤の道化役にしか見えなくなった。
将棋で言えば、最善手のように見えてその実はことごとくが最
悪手にしかなっていない。つまりマイナバーカードなんかその
代表選手のようなもんか。
吉本バナナさんの父御である故吉本隆明さんの説である”重層
的非決定”というシステムもアナキズム風である。
代議士の先生が選ぶ政府に、どうしても納得いかない場合は、
国民の過半数の賛同でもって直接無記名投票で政府をリコー
ルできる。
これっていうなら、独断的で生意気な級長をクラス全員で吊し
上げるようなもんで、当たり前すぎるくらい健全な反動であ
る。人類学者松村圭一郎さんのいうアナキズムとは、、、、
秩序を壊す思想ではない。自分たちの問題を話し合い、解決
を目指す。困っている人がいれば手を差し伸べる。そういう
自律と相互扶助の思考、そして態度である。
あの『里山資本主義』ってのも、そういう意味では紛れもない
アナキズムの系譜と言えるだろう。
有害にして無益なものと堕しつつある国家社会の行方に夢も
希望も見ることができないのなら、僕たちは自らの可能性を
自らの責任で探っていくしかない。それが二十一世紀のアナ
キズムなのだといってもいいだろう。自らの力で(上からでない)
りばかりしているように、今までの常態の延長線上でフラフ
ラしているだけのアメリカの世界戦略もことごとく空振り三
振に終わるだろうと僕はみている。
マイナンバーカードのアマゾンによる一括管理ってのにも、
アメリカ政府の思惑が見え隠れするようだが、まあ、やりた
い放題やってみるといい。きっと愛想を尽かされるだけにし
かならないから。
マイナンバーカードは国家政府による一極支配の象徴のような
ものなのだろうが、時代はむしろ二十一世紀になって徐々に
その対極たるアナキズムに向かっているように見えて仕方が
ない。誤解がないようにいっておくが、アナキズムとは、語
源から言うと、無政府主義ではなく無支配主義のことである。
現に、台湾のオードリー・ワンという政治家は、政府要人
(ナント!デジタル担当相)でありながら、自らアナキストを
もって任じている。つまりアナキズム風政治や政府に保守って
のもアリなのだ。まあ、どうでもいいけど、、、。
近代になってからの国家政府サイドからの言い分は、支配こそ
が人々の間に秩序と安心と豊かさをもたらすものだということ
だった。人々も何せ初めての経験で、まあ、そういうものか
なと思っていたのかな?
しかし現実はどうだったかというと真逆に向かった。支配が上
下関係を生み、抑圧や差別を深め、不信や分断を社会にもたら
してきたことには異論の余地がないほどだ。目は口ほどに物を
言うってところ。
いうまでもなくそういう歪な常態がいつまでも常態でありうる
はずがない。逆立ちしたような格好で世の中を見ることにも
そろそろウンザリしてきたってのが正直なところだ。
アメリカにしても日本の霞ヶ関や永田町にしても、今のまんま
じゃもう誰の目にも時代錯誤の道化役にしか見えなくなった。
将棋で言えば、最善手のように見えてその実はことごとくが最
悪手にしかなっていない。つまりマイナバーカードなんかその
代表選手のようなもんか。
吉本バナナさんの父御である故吉本隆明さんの説である”重層
的非決定”というシステムもアナキズム風である。
代議士の先生が選ぶ政府に、どうしても納得いかない場合は、
国民の過半数の賛同でもって直接無記名投票で政府をリコー
ルできる。
これっていうなら、独断的で生意気な級長をクラス全員で吊し
上げるようなもんで、当たり前すぎるくらい健全な反動であ
る。人類学者松村圭一郎さんのいうアナキズムとは、、、、
秩序を壊す思想ではない。自分たちの問題を話し合い、解決
を目指す。困っている人がいれば手を差し伸べる。そういう
自律と相互扶助の思考、そして態度である。
あの『里山資本主義』ってのも、そういう意味では紛れもない
アナキズムの系譜と言えるだろう。
有害にして無益なものと堕しつつある国家社会の行方に夢も
希望も見ることができないのなら、僕たちは自らの可能性を
自らの責任で探っていくしかない。それが二十一世紀のアナ
キズムなのだといってもいいだろう。自らの力で(上からでない)
下からの公共を築いていく。身近な様々な問題を自らの
力で一つ一つ解決してゆく覚悟が必要なのだろう。一朝一夕
にとはいかないかもしれないが、確実にそういう時代の流れ
がきているように僕には思えるのだ。
力で一つ一つ解決してゆく覚悟が必要なのだろう。一朝一夕
にとはいかないかもしれないが、確実にそういう時代の流れ
がきているように僕には思えるのだ。
2023年08月09日
将を射んとすれば・・・

将を射んとすれば・・・
「将を射んとすれば、まず馬を射よ」
とは、、、
「精神を射んとすれば、まず身体を射よ」
ということ。
馬車馬のように働かせて身動きできないようにする。
給料をやりすぎると働かなくなるし、余計なことを
考えるから、ほどほどにする。
そうやって、世の中は大過(対価)なく動いてきた訳
ですね。
まあ他にもあの手この手があるのですが、もしも私た
ちがこういう世の中の軛から自由になったら、多分世界
は私たちが知っているものとは全く別のものになる無限
の可能性に満たされているはずです。
これはSFの多元的宇宙論というものに通じている考え方
ですが、どうやらそのSFチックなものがSFチックでなく
なりつつあるのが二十一世紀という時代であるのかなと
僕は一人で思っています。
フーコーという人はそれまでの歴史家が決して立てなかっ
た問いを発しました。それは、、、
「これらの出来事はどのように語られてきたか?でなく、
これらの出来事はどのように語られずにきたか」
ということです。
つまりこれまで語られずにきたことを語らずには済まなく
なったのが二十一世紀という時代に他ならないから、と
僕は考える訳です。
持続可能性のある社会の構築などと尤もらしく言われてい
ますが、その実は、今の社会そのものに持続可能性がなく
なっているという逆説に気づかないふりをしているだけで
す。
でも、そうそういつまでも気づかないふりばかりもしてお
れません。世の中甘くないよ、と言われてきた人たちが今
度はそっくりそのまま言い返す時です。
規模の利益とか資本の利益とか、今までプラスだったもの
がマイナスに働き始めました。そんなものに胡座をかいて
いると大変なことになると企業そのものが思い始めました。
資本収益力が企業収益力を上回り、モノやサービスが飽和
状態になっている限り、もう姑息な真似は効かないのです。
最近では企業エリートや政治家たちが間抜けな馬ヅラに見
えて仕方がありません、いや正直なところ。
2023年08月07日
レヴィ・ストロースの慧眼
http://mutsumi-kai.com/
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むつみ会結婚相談室の
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レヴィ・ストロースの慧眼
国家とは当たり前のように、いわば空気のように存在す
るものだろうか?
いやいや、トンデモナイ。近代の天の下に突如出現した
打ち上げ花火のようなもんだろう。
夜空を一瞬焦がしたかと思うと闇の中に儚く消え、後
にはそこはかとない余韻だけが漂っている。そんなもの
だといっても信じるものは少ないだろうが、だとしても
僕としてはそんなこと知ったこっちゃない。あの、偉大
なる近代の預言者が、どうもそういっているらしい、、
、、、のだから。
レヴィ・ストロースがいうには、あらゆる人間の集団に
は時と場所を問わず二つのルールしかないらしい。
それは、、、
その一、人間社会は同じ状態にあり続けることはできない。
(ヒトの細胞が常に入れ替わっているのと同じ)
その二、私たちが欲するものは、まず他者に与えなければ
ならない。(生態系がそうであるように)
しかし近代の国家の歴史はというと、、、
モノを手にいれる最も合理的な方法は、利益を独占して誰
にも与えないことであり、それを永遠に我が物にしてしま
おうということで、ストロースいうところの”ルール”に真
正面から違背するものでしかなかった。高速道路を逆走す
る悪質な、いや、クレイジーな交通ルールの違反のような
もんか?暴走族も顔負け。
でもよくよく考えるまでもなく、合理的どころか、これほ
ど不合理な方法はない。なぜならば、それでは他者と共同
して生きていくことなど金輪際で出来っこないし、他者と
共同できない利益や日常など、思えば思うほど一文の値打
ちもないからだ。
あらゆる人間の集団に通ずるルールであるから、いうまで
もなく家族の場合にも言える。
もし家族内で誰かが収入を独り占めしてしまったら、どう
なるだろう。多分家族間の会話もなくなるし、一文にもな
らない家事労働など誰もしないし、だいたいそういう家族
を作るために結婚したいと思う奇特な青年など一人もいな
いだろう。
かくして非婚者は増え続け、離婚率は上がり続け、出生率は
下がり、人口はどんどん減ってゆき、やがて、国民のいない
国家が一丁上がりとなる。
これを何というか、自業自得という、自己責任とかともいう
らしい。
、、、ってなわけで、レヴィ・ストロースの文化人類学的所
見は恐るべき慧眼だったのであった。
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レヴィ・ストロースの慧眼
国家とは当たり前のように、いわば空気のように存在す
るものだろうか?
いやいや、トンデモナイ。近代の天の下に突如出現した
打ち上げ花火のようなもんだろう。
夜空を一瞬焦がしたかと思うと闇の中に儚く消え、後
にはそこはかとない余韻だけが漂っている。そんなもの
だといっても信じるものは少ないだろうが、だとしても
僕としてはそんなこと知ったこっちゃない。あの、偉大
なる近代の預言者が、どうもそういっているらしい、、
、、、のだから。
レヴィ・ストロースがいうには、あらゆる人間の集団に
は時と場所を問わず二つのルールしかないらしい。
それは、、、
その一、人間社会は同じ状態にあり続けることはできない。
(ヒトの細胞が常に入れ替わっているのと同じ)
その二、私たちが欲するものは、まず他者に与えなければ
ならない。(生態系がそうであるように)
しかし近代の国家の歴史はというと、、、
モノを手にいれる最も合理的な方法は、利益を独占して誰
にも与えないことであり、それを永遠に我が物にしてしま
おうということで、ストロースいうところの”ルール”に真
正面から違背するものでしかなかった。高速道路を逆走す
る悪質な、いや、クレイジーな交通ルールの違反のような
もんか?暴走族も顔負け。
でもよくよく考えるまでもなく、合理的どころか、これほ
ど不合理な方法はない。なぜならば、それでは他者と共同
して生きていくことなど金輪際で出来っこないし、他者と
共同できない利益や日常など、思えば思うほど一文の値打
ちもないからだ。
あらゆる人間の集団に通ずるルールであるから、いうまで
もなく家族の場合にも言える。
もし家族内で誰かが収入を独り占めしてしまったら、どう
なるだろう。多分家族間の会話もなくなるし、一文にもな
らない家事労働など誰もしないし、だいたいそういう家族
を作るために結婚したいと思う奇特な青年など一人もいな
いだろう。
かくして非婚者は増え続け、離婚率は上がり続け、出生率は
下がり、人口はどんどん減ってゆき、やがて、国民のいない
国家が一丁上がりとなる。
これを何というか、自業自得という、自己責任とかともいう
らしい。
、、、ってなわけで、レヴィ・ストロースの文化人類学的所
見は恐るべき慧眼だったのであった。
2023年08月05日
タイタニック地球号
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タイタニック地球号
「商品の価値とは必然的に価値体系のなかでの一つの価値
にすぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時
にすべての商品の価値を変化させてしまう」
(岩井克人、貨幣論)
つまり、どういうことかといいますと、、、、
ボートの”有用性”は浮くということですが、その”価値”は置
かれている状況によって一変します。沈没寸前のタイタニッ
ク号の救命ボートと、夏休みの海岸にのんびりと浮かんでい
るレジャー用のボートとでは違うようにです。
”経済”とは、いわば人々を乗せて運ぶボートみたいなものだ
ったのですが、その”価値”が二十一世紀になると一変してき
ました。
人々が日々の暮らしをエンジョイするためのボートだったの
が、いつのまにか沈没寸前のタイタニック号のような地球か
ら人々を安全に避難させるためのボートへと一変してきたの
です。
溺れ死にたくない一心で他の人を蹴落としてまで無事ボート
に乗ったとしても、ボート自体を救出するもう一つの安全な
タイタニックの姿は海原のどこにも見つけることはできませ
ん。もし本当に助かりたいと思うのなら、タイタニックを
沈没させないようにするしかないのです。
豪華客船で一等客室の客は優雅にシャンパンを飲んでいても、
船底のほうに穴が開いたら確実に沈没します。"下"の悲劇は
"上"を必ず道連れにします。
そのことが全然分からない人たちがいるようです。あるいは
わかっていても知らんふり?
このままでは僕たちの世界は「雇用なき経済成長」という悪
夢を見続けることになります。そして資本主義というタイタニ
ック号は深い海の底に沈んでしまうのでしょう。
国家も国際社会も大地の上に立っているように見えて、実は
大海に浮かぶタイタニックにすぎないのです。
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「商品の価値とは必然的に価値体系のなかでの一つの価値
にすぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時
にすべての商品の価値を変化させてしまう」
(岩井克人、貨幣論)
つまり、どういうことかといいますと、、、、
ボートの”有用性”は浮くということですが、その”価値”は置
かれている状況によって一変します。沈没寸前のタイタニッ
ク号の救命ボートと、夏休みの海岸にのんびりと浮かんでい
るレジャー用のボートとでは違うようにです。
”経済”とは、いわば人々を乗せて運ぶボートみたいなものだ
ったのですが、その”価値”が二十一世紀になると一変してき
ました。
人々が日々の暮らしをエンジョイするためのボートだったの
が、いつのまにか沈没寸前のタイタニック号のような地球か
ら人々を安全に避難させるためのボートへと一変してきたの
です。
溺れ死にたくない一心で他の人を蹴落としてまで無事ボート
に乗ったとしても、ボート自体を救出するもう一つの安全な
タイタニックの姿は海原のどこにも見つけることはできませ
ん。もし本当に助かりたいと思うのなら、タイタニックを
沈没させないようにするしかないのです。
豪華客船で一等客室の客は優雅にシャンパンを飲んでいても、
船底のほうに穴が開いたら確実に沈没します。"下"の悲劇は
"上"を必ず道連れにします。
そのことが全然分からない人たちがいるようです。あるいは
わかっていても知らんふり?
このままでは僕たちの世界は「雇用なき経済成長」という悪
夢を見続けることになります。そして資本主義というタイタニ
ック号は深い海の底に沈んでしまうのでしょう。
国家も国際社会も大地の上に立っているように見えて、実は
大海に浮かぶタイタニックにすぎないのです。
2023年08月01日
ロマンについて
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ロマンについて
僕に言わせれば、ロマンというのはものごとのありように
挑んでは破れる生き方のような気がする。破れても破れて
も挑むことから離れられない人たちがいる。
もちろん勝利至上主義ではないが、だからといって敗北主
義というわけでもない。勝利でなければ敗北と考えた途端
にそれはもうロマンではなくなるからだ。勝利にこだわる
のは敗北を恐れるあまりなのだともいえる。
最も優れた芸術作品というのは、そういう意味のロマンを
持っているように思える。勝利も敗北もない。だから、読
めば読むほど、聴けば聴くほど、観れば観るほど、正解が
わからなくなる。迷宮(お化け屋敷)みたいなものなのだ
ろう。少なくとも勝利かもしくは敗北か、のように簡単に
白黒をつけられない。
危険極まりないとも言えるが、だからこそヒトの心を吸引
し魅惑するのだとも言える。あなたは知ってるだろうか、
ヒトは退屈でないもの(つまり刺激)を求めるが、退屈で
ないものにはヒトはすぐ飽きるということを。だから人生
にウンザリしないためには、退屈な日々に、いわばアクテ
ィヴに?立ち向かうしかないのだろう。
刺激を求めて生きるのがロマンなのではなく、退屈な日々
に飽きない生き方がロマンなのだろう。そして、退屈な日
々にはむろん煌びやかで刺激的な勝利の喜びもない。ただ
挑んで破れるたびに深い迷宮の中に入っていき、微かな光
を眺めながら死んでゆくだけなのだろう。
僕はなぜかそんなふうに生きて死んでゆく老人たちの顔が
大好きなのだ。
作者が作品を見つけるのじゃなくて、作品が作者を見つけ
る。作品が作者に表現してくれという。その時フィクション
はただの作り物じゃなくなる。そういう作り物じゃないフ
ィクションに魅せられるのはヒトの宿命のようなものなのか
もしれないと思う。
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ロマンについて
僕に言わせれば、ロマンというのはものごとのありように
挑んでは破れる生き方のような気がする。破れても破れて
も挑むことから離れられない人たちがいる。
もちろん勝利至上主義ではないが、だからといって敗北主
義というわけでもない。勝利でなければ敗北と考えた途端
にそれはもうロマンではなくなるからだ。勝利にこだわる
のは敗北を恐れるあまりなのだともいえる。
最も優れた芸術作品というのは、そういう意味のロマンを
持っているように思える。勝利も敗北もない。だから、読
めば読むほど、聴けば聴くほど、観れば観るほど、正解が
わからなくなる。迷宮(お化け屋敷)みたいなものなのだ
ろう。少なくとも勝利かもしくは敗北か、のように簡単に
白黒をつけられない。
危険極まりないとも言えるが、だからこそヒトの心を吸引
し魅惑するのだとも言える。あなたは知ってるだろうか、
ヒトは退屈でないもの(つまり刺激)を求めるが、退屈で
ないものにはヒトはすぐ飽きるということを。だから人生
にウンザリしないためには、退屈な日々に、いわばアクテ
ィヴに?立ち向かうしかないのだろう。
刺激を求めて生きるのがロマンなのではなく、退屈な日々
に飽きない生き方がロマンなのだろう。そして、退屈な日
々にはむろん煌びやかで刺激的な勝利の喜びもない。ただ
挑んで破れるたびに深い迷宮の中に入っていき、微かな光
を眺めながら死んでゆくだけなのだろう。
僕はなぜかそんなふうに生きて死んでゆく老人たちの顔が
大好きなのだ。
作者が作品を見つけるのじゃなくて、作品が作者を見つけ
る。作品が作者に表現してくれという。その時フィクション
はただの作り物じゃなくなる。そういう作り物じゃないフ
ィクションに魅せられるのはヒトの宿命のようなものなのか
もしれないと思う。
2023年07月24日
パラドックスの時代

パラドックスの時代
まさに逆説になるが、テクノロジー全盛の時代だからこそ、
人間本来の能力が再び輝き始めるのだろう。
だって、世界を我が物顔のハンパなテクノロジカル人種が無
用の存在となっていくのだから。
そんな人種はどんな天才でもタカが知れたもので、逆立ち
したってAIには敵いっこない。そうなれば時代のゴミだ。
思えば、近代を風靡した資本主義、いやそもそも近代の経
済学自体がヒトの物欲をテクノロジー化したものにすぎな
かった。
そのために経済が発展すればするほど、肝心要の人間から
限りなく乖離していった。何より自然からも。天に向かっ
て唾を吐くとはこのことだったのかもしれない。
したがってお金儲けしかできないビジネスマンもやがては
ゴミにならざるを得ない。
他にも二十一世紀になるといろんな場面でパラドックスが
目に立つようになった。天邪鬼ってのもそう。野球では大
谷翔平が代表選手で、WBCの優勝メンバーの中心になった
ダルさんとか、吉田正尚とか、監督もそうだった。TVのCM
ではアマノジャコさんが大人気だし。
人間は言葉によってリクツ(論理)を喋くるだけだと思っ
たら大間違いだろう。人間はなによりも喜怒哀楽(感情)
を言葉で表現し、そこから想像力をどこまでも羽ばたかせ
る。だからこそ世知辛い世の中も曲がりなりにも生きてい
ける。僕もそうだったような気がする。
矛盾でいっぱいの複雑極まる推論を進めていく。そういう
人間と言葉の間合いのあり方を神秘的といい、アートとい
う。音も色も形も匂いも言葉であって、世界はそういう言
葉のアートで溢れている。
幼児は「ぐにゃぐにゃ」とか「ザワザワ」といった擬音語
で、使用するボキャを広げていく。
失語症の症例をいとぐちに、言葉と心と脳の関係を、日本
の山鳥さんが研究を進めている。
また別のアプローチ法によって岡ノ谷さんらは、歌が帰納
と演繹のリフレインのなかで進化したものと云っている。
いずれも日本人であると同時に言語学者ではない。
さて山鳥さんによれば、心は脳の働きで生まれ、考えるの
は、脳でなく心であるらしい。
心はザッと言えば、喜怒哀楽・・情動あるいは感覚的なも
のといってもいい。こっちの方が理性よりも優性なのだ。
第一、すべての行動は理性でなく、情動によって生まれる。
だから口ばっかり達者な野郎は行動が伴わない。
脳の根源レベルでいえば、人間はダンゴムシと余り変わら
ない。教育勅語のようなお仕着せのモラルは人間をダンゴム
シ以下にしてしまう。ガッコーそのものだってそういうふう
になっているのかもしれない。
モノが過剰になれば構造的なデフレになる。この構造的デフ
レはモノの過剰という前提を崩さないかぎり乗り越えること
はできない。日銀がどんなにジタバタしたってどうにかなる
話じゃない。経済はモノの不足は解決できても、モノの過剰
は解決できない。まさかそんなパラドックスがやってくるな
んて想定外だったのだろう(理の当然のことなのに)。
しかし、精神のデフレを癒し、心を豊かにするアートは人間
の心の中に蓄積するので、過剰になることはない。
二十一世紀の今、私たちはダンゴムシ以下の存在になるか、
それとも精神のデフレから立ち直り、真に豊かな世の中を築
いていけるか、という大きな岐路に立っているように思われる。
2023年07月12日
愛せよ、目の前の不条理を
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愛せよ、目の前の不条理を
日本語は世界に類例のない言語である。
仮名混じりの漢字であり、漢字にも音読みと(沢山の)
訓読み(日本の言葉に漢字を当てた)がある。
中国の漢字は表意文字であり、アルファベットは表音文
字である。
日本に言語(漢字、表意文字)が入って来た時、なぜ仮
名(表音文字)が付け加えられたのか?なぜ、わざわざ
まわりくどい言語構造を拵えなければならなかったのか?
それは多分それまでの日本人の精神構造を表現するには
足りないものが多すぎたからだろう。
芸術を表現するのに日本語にしくものはない。
「古池や蛙飛び込む水の音」
静から動へ、点から面へ、そして、どこまでも広がってゆ
く波紋。それは言語で表現できる極致である。
有限の時空が無限の時空へと瞬時に生まれかわる。
漢詩は生硬であり、細やかな感情を表現できない。では、
アルファベットによる詩となると、ほとんど絶望的である。
韻を踏んで誤魔化すしかない。フランシスジャムは俳句に衝
撃を受けて、三行詩を作ったがうまくいかなかった。
芸術は具象で学術は抽象で、まるで水と油である。表音文字
であるアルファベットでは具象を表出しにくいので、何でも
かんでも抽象的で観念的になってしまう。人間の喜怒哀楽さ
えもである。それが欧米の作家の悩みの種になっている。
所有という観念などがその最たるもので、理屈を捏ねまわし
たあげく、不条理極まる世の中をつくってしまった。
アルファベットの言語構造は論理構造であり、喜怒哀楽をベ
ースにした倫理が入りにくい。だが、人々の日々の暮らしを
支配している喜怒哀楽には、良いも悪いもなく、本来不条理
そのものなのだ。である限り、否応なしにその現実と向き合
うしかない。宿命みたいなものだろう。
しかし、ガチガチの論理構造で成り立っているアルファベッ
トの民族や文明にとって不条理とは敵であり、悪魔の化身
でしかない。
そのために人間本来の姿から遠ざかってしまったように思
われる(人間不在)。正義の名の下に殺し合いが行われ、
法の名の下にギロチンにかけられ、モノとカネが人間を支
配する世界が一丁あがりとなった。
倫理も共存も本当なら不条理を受け入れた味噌もクソも一
緒の桶の中から醸成されていくべきものなのかもしれない
のだと思われる。
しかし、不条理を頭ごなしに否定することで、より大きな、
耐え難いような社会的不条理を生み出してきたような気が
する。その方がラクで分かりやすいのだろうが、人の道に
近道は禁物なのだろう。
日本語は世界に類例のない言語である。
仮名混じりの漢字であり、漢字にも音読みと(沢山の)
訓読み(日本の言葉に漢字を当てた)がある。
中国の漢字は表意文字であり、アルファベットは表音文
字である。
日本に言語(漢字、表意文字)が入って来た時、なぜ仮
名(表音文字)が付け加えられたのか?なぜ、わざわざ
まわりくどい言語構造を拵えなければならなかったのか?
それは多分それまでの日本人の精神構造を表現するには
足りないものが多すぎたからだろう。
芸術を表現するのに日本語にしくものはない。
「古池や蛙飛び込む水の音」
静から動へ、点から面へ、そして、どこまでも広がってゆ
く波紋。それは言語で表現できる極致である。
有限の時空が無限の時空へと瞬時に生まれかわる。
漢詩は生硬であり、細やかな感情を表現できない。では、
アルファベットによる詩となると、ほとんど絶望的である。
韻を踏んで誤魔化すしかない。フランシスジャムは俳句に衝
撃を受けて、三行詩を作ったがうまくいかなかった。
芸術は具象で学術は抽象で、まるで水と油である。表音文字
であるアルファベットでは具象を表出しにくいので、何でも
かんでも抽象的で観念的になってしまう。人間の喜怒哀楽さ
えもである。それが欧米の作家の悩みの種になっている。
所有という観念などがその最たるもので、理屈を捏ねまわし
たあげく、不条理極まる世の中をつくってしまった。
アルファベットの言語構造は論理構造であり、喜怒哀楽をベ
ースにした倫理が入りにくい。だが、人々の日々の暮らしを
支配している喜怒哀楽には、良いも悪いもなく、本来不条理
そのものなのだ。である限り、否応なしにその現実と向き合
うしかない。宿命みたいなものだろう。
しかし、ガチガチの論理構造で成り立っているアルファベッ
トの民族や文明にとって不条理とは敵であり、悪魔の化身
でしかない。
そのために人間本来の姿から遠ざかってしまったように思
われる(人間不在)。正義の名の下に殺し合いが行われ、
法の名の下にギロチンにかけられ、モノとカネが人間を支
配する世界が一丁あがりとなった。
倫理も共存も本当なら不条理を受け入れた味噌もクソも一
緒の桶の中から醸成されていくべきものなのかもしれない
のだと思われる。
しかし、不条理を頭ごなしに否定することで、より大きな、
耐え難いような社会的不条理を生み出してきたような気が
する。その方がラクで分かりやすいのだろうが、人の道に
近道は禁物なのだろう。
2023年07月11日
悪魔の経済学

悪魔の経済学
貨幣が間に入ったことで、売る=買う、と
いう等式が成立しなくなります。
バナナとリンゴはすぐに使われるものであって
「貨幣的性質」はありません。
貨幣は他の商品と違って「貯める」ということが
できるようになるのでそれによって
供給>需要
となることがしばしば起こります。
貨幣が供給過剰になれば金利はゼロからマイナスになり、
貯めれば貯めるほど減っていきます。
なので、貨幣学の世界的権威岩井克人さんは、
経済学は悪魔である、と。
何かを生み出すのでなく、何もかもを奪っていく。
そう、人の心から愛を奪っていく。
関係性というものは、利己心からは生まれません。
相手のことを思いやる利他心の及ぶ範囲でできるの
が関係性であり、生きとし生いけるものの共同体で
はなかろうかと。
日本の大学初の総長となられた田中優子さん(江戸
文化研究家)が、学位授与式く告辞でとても印象的
なお話をされました。
「どのような選択をしても、人間としての尊厳をも
って生きていかれる社会が必要です。
自由を生き抜くとは、自分自身の自由を大切にする
だけでなく、どんな人も自由を生き抜ける社会を作
ることなのです」ーー。
また、岩井克人さんによると、
「自由」というのは、「しない自由」であって、
「する自由」ではない。「する自由」というのは、
他人に何かを強制する可能性であって、受動者から
いえば、何かを強制される可能性がある訳です。
自由はこうして死んでゆく、
満場の拍手喝采とともに。
いつだってそうですねえ。
きょうびだって、
喜び勇んで牙を抜かれてゆく。
自由とか個人主義を上手に使いこなせるようになる
には時間がかかるのかもしれません。
2023年07月07日
二十一世紀の自由の女神
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むつみ会結婚相談室の
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二十一世紀の自由の女神
宗教革命や清教徒革命に(十七世紀)よって所有の観念が変わ
りました。土地所有をベースにした封建領主から商業資本
(お金)の所有をベースにした商業資本家(ブルジョワジー)
の時代になりました。近代の始まりです。
それは国家の時代の始まりでもありました。国家とは商業資
本を保護するための社会の仕組みと言ってもよいでしょう。
国家によって商業資本の合法性が認められたのです(植民地
に対しても)。
そして現代に至っている次第ですが、ここにきて商業資本
(おカネ)の重みがなくなってきました。なぜかというと、
モノが普及し飽和状態になるとモノが売れなくなり、モノを
いくら作っても利潤を産まなくなるからです。
メーカー(第二次産業)主導の時代はとっくに終わり、小売
業(第三次産業)主導の時代に移行し、その小売業も安売り
競争やダンピングの青息吐息の時代になりました。
小売業の行き着いた先がコンビニになるのでしょうが、その
コンビニも乱立状態になり、そう長くは保たないでしょう。
そこで苦し紛れのようにして出てきたのが金融資本主義でし
た。カネでカネを買う、カネのためのカネというのが金融資
本主義です。
しかし、貨幣は所詮はモノを売り買いするためのツールに過
ぎませんから、金融資本主義というのは資本家が勝手に作り
出した幻想に他なりません。
モノをいくら作っても利潤が出なくなると投資の意味がなく
なり、投資の見返りがなくなると、お金に金利がつかなくな
ります。
では金利を産まないおカネとは何であるかが問題です。いや、
金利を産まないどころかこのままで金融資本の時代が続くと
もうじき金利ゼロがマイナスになるのは必至になります。
それは一体どう言うことであるのかがまさに二十一世紀が直
面している一大課題なのでしょう。
いくら資産とやらを持っていても目減りしていくだけだし、
欲をかけばかくほど目減りはひどくなっていきます。
近代国家の時代になる前の王とは、たくさんいる領主の代表
というか、まあ、手っ取り早く言えば町内会長みたいなもの
でした。
それがどこかの町内会長がよせばいいのに王権神授説などと
いう戯言を言い出して、絶対君主になりました。そして絶対君
主になったばかりにギロチンにかけられてしまいました。
二十一世紀金融資本主義の王様も絶対君主のようなもので、
ひょっとするとギロチン台にのぼる羽目になるのかもしれま
せんね。どうもそんな気がします。でないと地球そのものが
破滅してしまいますから、、、。まあ、ああいう類の人たちは
”病膏肓に入る(やまいこうこうにいる・癒しようのない病の
こと)”というやつですから、ほっときゃ勝手にくたばると思
うしかないでしょう。
さてと、フランス革命でギロチンにかけられたのは、、、
1万6594名でした。
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二十一世紀の自由の女神
宗教革命や清教徒革命に(十七世紀)よって所有の観念が変わ
りました。土地所有をベースにした封建領主から商業資本
(お金)の所有をベースにした商業資本家(ブルジョワジー)
の時代になりました。近代の始まりです。
それは国家の時代の始まりでもありました。国家とは商業資
本を保護するための社会の仕組みと言ってもよいでしょう。
国家によって商業資本の合法性が認められたのです(植民地
に対しても)。
そして現代に至っている次第ですが、ここにきて商業資本
(おカネ)の重みがなくなってきました。なぜかというと、
モノが普及し飽和状態になるとモノが売れなくなり、モノを
いくら作っても利潤を産まなくなるからです。
メーカー(第二次産業)主導の時代はとっくに終わり、小売
業(第三次産業)主導の時代に移行し、その小売業も安売り
競争やダンピングの青息吐息の時代になりました。
小売業の行き着いた先がコンビニになるのでしょうが、その
コンビニも乱立状態になり、そう長くは保たないでしょう。
そこで苦し紛れのようにして出てきたのが金融資本主義でし
た。カネでカネを買う、カネのためのカネというのが金融資
本主義です。
しかし、貨幣は所詮はモノを売り買いするためのツールに過
ぎませんから、金融資本主義というのは資本家が勝手に作り
出した幻想に他なりません。
モノをいくら作っても利潤が出なくなると投資の意味がなく
なり、投資の見返りがなくなると、お金に金利がつかなくな
ります。
では金利を産まないおカネとは何であるかが問題です。いや、
金利を産まないどころかこのままで金融資本の時代が続くと
もうじき金利ゼロがマイナスになるのは必至になります。
それは一体どう言うことであるのかがまさに二十一世紀が直
面している一大課題なのでしょう。
いくら資産とやらを持っていても目減りしていくだけだし、
欲をかけばかくほど目減りはひどくなっていきます。
近代国家の時代になる前の王とは、たくさんいる領主の代表
というか、まあ、手っ取り早く言えば町内会長みたいなもの
でした。
それがどこかの町内会長がよせばいいのに王権神授説などと
いう戯言を言い出して、絶対君主になりました。そして絶対君
主になったばかりにギロチンにかけられてしまいました。
二十一世紀金融資本主義の王様も絶対君主のようなもので、
ひょっとするとギロチン台にのぼる羽目になるのかもしれま
せんね。どうもそんな気がします。でないと地球そのものが
破滅してしまいますから、、、。まあ、ああいう類の人たちは
”病膏肓に入る(やまいこうこうにいる・癒しようのない病の
こと)”というやつですから、ほっときゃ勝手にくたばると思
うしかないでしょう。
さてと、フランス革命でギロチンにかけられたのは、、、
1万6594名でした。
2023年05月24日
アートは嘘をつかない

アートは嘘をつかない
ヒトは何かを信じなければ生きていけない生き物である。
腐敗した教会に失望し、革命が起こり、おカネが信仰の
的になった。教会は嘘をつくが、数字は嘘をつかないと
いうのがその理由である(合理主義)。しかしその数字
が嘘の塊になったのが現代である。
信じるものがなくなった人間の心は壊れる。ひとりひとり
も社会そのものも狂気に取り憑かれる。
ということで、数字(おカネ、合理主義)の次には何を信
じればいいのかが二十一世紀における私たちの切実な課題
となっている。
ケインズがとっくの昔に唱えている(他にもいるけど)のが
何かというと、アートである。
金銀財宝は社会の血液でしかないと言ったのはF,ケネー。
”麗しのフローリン金貨”を錬金し、世界一の富貴となった
メデイチ家のコジモは晩年になってハタと気づいた。
「富は有限の位置エネルギーである」と。富は手放してこ
その富貴であると。
そしてラファエロが、ミケランジェロが生まれた。
アートだけは嘘をつかない。なぜって、嘘をついたらそれ
はもうアートではないからである。
学者は嘘をつくがアーチストは嘘をつかない。作家である
自分に嘘をついたら表現ができない。
科学は宇宙を表現できないが、アートは宇宙を表現できる。
自分のうちなる宇宙を表現しようとするのがアートであると
いってもよい。
口や手は平気で嘘をつくが、目は嘘をつかない。
”現実”は絶対ではない。現実に創造の力が加わったとき
”新たな現実”が生まれる。
今まで社会の構造が現実を作ってきたし、それに対して私た
ちには抗うすべがなかったかもしれない。
しかし二十一世紀の”新たな現実”は私たちの中に眠っていた
創造の力がつくる。社会が私たちをつくるのではなく、私た
ちが社会をつくるのだ。
精神のデフレを克服し、心を豊かにするのはアートである。
アートは人の心のなかに蓄積するのでおカネのように過剰に
なることはない。アートは人の嘘を見抜くから騙されること
もない。何よりもアートは自分自身に嘘をつかない。
そんなの妄想だという人にはこう言おう。私たちはなんと長
い間妄想の中で身悶えてきたことだろう。
これからは私たち自身の力でその迷妄をひらくのだ、と。
これからは本当に信じられるものだけを信じるのだ、と。